アロー「不確実性と医療の厚生経済学」

少し前にThe Atlanticのサミュエルソンのインタビューを紹介したが、同じ記者(コナー・クラーク[Conor Clarke])が、今度はアローをインタビューした*1

インタビューは3部構成になっており、パート2では、旬の医療問題が扱われている。ここでのアローの発言については、マンキュータイラー・コーエンが早速反応した。


アローと医療と言えば、彼の1963年の論文「Uncertainty and the Welfare Economics of Medical Care(不確実性と医療の厚生経済学)」が有名で、クルーグマンが最近自説の支持材料として挙げている(cf. ここここ)。マンキューが上述の反応の際に我田引水気味の引用を行なったのも*2、そのクルーグマンへの牽制という意識があったのだろう。

その論文は、今、WHOのサイトで読むことができる(ただし所々省略箇所が見られるので、要約版のようである)。そこで、以下にその内容を簡単に紹介してみる*3

1)イントロダクション

  • 本論文の目的は、医療と規範的経済学との違いを説明することにある。
  • ここでいう「規範」とは、競争モデルを指す。
  • 競争モデルの前提条件は以下の3つ。
    1. 均衡の存在
    2. すべての財・サービスに市場性があること
    3. 非収穫逓増性
  • 医療では、不確実性の存在により上記の条件が満たされないかもしれない。その場合、パレート最適が達成されない。
  • その場合、非市場的な社会的制度が、意識的にではないにせよ、そのギャップを埋めようと働いているのではないか。

2)医療市場固有の特徴


A. 需要の性質

  • 食料や衣料のように恒常的な需要が存在するわけではなく、需要が不規則で予測できない。
  • 家計に同じくらい大きな負担をもたらす商品で、このような性質を持つものはあまり無い。訴訟に巻き込まれたときの法律関係のサービスが近いと言えるが、そちらの方が発生確率ははるかに低い。
  • 死や障害の危険性、およびそれによる収入喪失ないし減少の危険性を伴う点も特徴。食料の欠如も同様の結果をもたらすが、そちらは収入が十分に確保されれば解消する。病気についてはそうはいかない。


B. 医師に期待される行動

  • 医療サービスは生産行動と製品が同一。その場合、消費者は事前にテストできないので、信頼関係が一つの要素となる。
  • 倫理面からは、医師の行動制約は、たとえば床屋のそれよりも厳格であると理解されている。一般のセールスマンと違い、消費者の厚生を気に掛けることがその行動を規定するとされている。タルコット・パーソンズ(Talcott Parsons)の言葉を借りれば、「集団志向」(collectivity-orientation)が存在する。その点は、自己の利益を考えることが規範として受容されている他の職業と違う点である。


C. 商品の不確実性

  • 他の主要な商品に比べ、質の不確実性が高い。
  • 病気からの回復は、その罹患と同じく予測不可能。
  • 大部分の商品では、消費者は経験を積み重ねたり他者の経験を見聞きして学習できるが、重い病気の場合はそうはいかない。
  • 住宅や自動車の購入も頻度が少ないが、効用の変動性という意味での不確実性は医療の方がはるかに大きい。
  • 医療知識は極めて複雑なので、治療の結果や可能性に関する情報の非対称性は大きい。そして、医師と患者の双方がそのことを知っている。


D. 供給条件

  • 競争理論では、同じ資源を余所で使用した場合の純収益との比較で供給が決まるが、医療ではそうした理論からの大きな乖離がいくつかある。
  • 最も明確なのは、職業がライセンス制度で制限されていることである。ライセンスは参入を制限し、医療の費用を高める。ライセンスの正当化理由は、最低限の質の確保ということになっている。
  • ライセンス制度による参入規制は、床屋や引き受け業務といった多くの職業で見られる。


E. 価格慣行

  • 医療には所得による価格差別がある(貧しい人に対しては価格がゼロになることもある)。
  • かつてはサービスと対価の交換にこだわり、前払い制度に反対したこともあった。

3)確実性下の競争モデルとの比較


A. 非市場性商品

  • 伝染病の拡大は、非市場的な作用の典型例である。
  • ただ、非市場性商品の問題の扱いは、理論的には確立しているので、ここで付け加えることはあまり無い(ただしそのことは公衆衛生の貢献を貶めるものでは決して無い。それどころか、公衆衛生は、医療の他の側面を合わせたよりも重要かもしれない)。
  • 人々の他者の健康を改善したいという利他的な欲求は、他の厚生問題に比べ強いかもしれない。それによる相互依存関係からは、集団行動が理論的に導かれる。


B. 収穫逓増

  • 収穫逓増にまつわる問題*4が医療分野の資源配分でも問題となる。特に人口密度が低い地域や低所得地域で問題になる。
  • 病院はある点までは収穫逓増となる。それは、専門家やある種の医療装置が分割不可能であるためである。世界の多くの地域では、一人の医師の存在ですら、需要に比して過大な供給となる。
  • その場合、適切な医療ユニットを補助することが社会的に望ましい。これについては、水資源プロジェクトと同様の分析を適用できる。
  • 米国の大都市では収穫逓増は大きな問題とならない。他の地域でも、輸送手段の発達がこの問題を緩和する。


C. 参入

  • 2節のDで述べたように、参入規制が競争的行動からの乖離の最も大きな要因となる。
  • フリードマンとクズネッツは、第2次世界大戦前のデータを詳細に調べて、医師の高所得はこの規制によると論じた。


D. 価格付け

  • 医療業界の価格決定の慣行は、競争市場の規範からは掛け離れている(2節のE参照)。
  • 価格差別は競争モデルと相容れないし、医師が大勢いるのにそれが保たれているということは、集団的独占が成立していることに等しい。
  • 過去には、前払いプランへの業界の反対は、極めて強圧的な形態を取った。もっと穏やかな表現をしても、医師全体からの市場圧力が働いたと言える*5

4)不確実性下の理想的な競争モデルとの比較


A. イントロダクション

  • 考えられるありとあらゆるリスクに対する保険が存在する理想的な市場との比較を考えた場合、現実とその理想市場との乖離は、そうしたすべての保険の条件が文書化されないことから生じる。そうした潜在的な商品が非市場性なのか、それとも市場の欠陥によって市場に出てこないだけなのか、は2次的な問題にすぎない。
  • 1節で述べたとおり、医療には2種類のリスクがある。
    • 病気になるリスク
    • 回復の不完全性もしくは遅れによるリスク
  • 不確実性の厚生経済学の観点からは、両方とも保険の対象になることが望ましい。


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C.保険の問題

1. モラルハザード

  • 厚生面からは、あらゆる種類の保険を提供することのメリットは非常に大きい。従って、市場が提供できない保険を政府が提供すべき、ということになる。
  • ただ、実務上は様々な障害があるので、それらを理解することが重要。とはいえ、それらの存在は、現在より多様な保険が提供されるべき、という基本線を変えるものではない。
  • 保険を語る際に強調されてきた障害の一つが、保険がインセンティブに与える影響。
  • 望ましい保険とは、個人がコントロールできない出来事に対する保険。しかし、現実世界ではそうした保険を完全に分離することはできない。
  • たとえば、火事の発生は、基本的に個人がコントロールできるものではない。しかし、不注意による火事の発生や、極端な場合は放火の可能性というものも存在する。
  • 同様に、医療費用は、罹った病気の種類だけでなく、患者の医者の選択や、医療サービスを利用したいと思う気持ちにも左右される。広範な医療保険が医療の需要を高めるということは良く起きる。自己負担条項というのは、保険会社のリスク回避だけではなく、こうした状況も受けて生まれた。
  • 医者によるチェックが、保険会社の代わりにモラルハザードを抑制するという側面はあるが、完全なチェックには程遠い。医師自身は誰かの管理下にあるわけではないし、患者が医療サービスをもっと消費してくれた方が都合が良いかもしれない。
  • 入院や手術の方がそれなりに監視の目が入るので、他の治療よりまだモラルハザードの問題が少ないかもしれない。そのためにそれに関する保険がより多いのだろう。


2. 保険の支払い方法の選択肢

  • 少なくとも以下の3つの選択肢がある。
    • 前払い
      • 事実上の現物供与
    • 決まったスケジュールによる保険金支払い
      • 保険事由発生時には、予め固定された金額を支払う
    • 費用に対する支払い
      • すべての費用のカバー(当然免責や自己負担の条項はあるだろうが)


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三者によるコントロールの必要性は、モラルハザードの別の側面からも支持される。保険により、関係者が入院費や手術費を安く抑えようというインセンティブが無くなってしまうので、機関による直接的なコントロールで市場の力を代替する必要がある。


6. 不均等なリスクのプール

  • 理論的には、可能な限り各人のリスクを分別し、それに応じた保険料を支払うのが社会全体の効用としては望ましいが、実際には、保険料は、ブルークロスやそれに類似した広く普及しているスキームでは、均等化する傾向にある。このことは、病気になりにくい人からなりやすい人への所得移転を意味する。
  • 純粋な競争市場では、こうした均等化は起き得ない。そうした市場では、リスクの低い人からは低い保険料を取るプランが生まれるので、均等化プランからはリスクの人が抜けるという逆選択の問題が発生してしまう。
  • 一つの解釈は、こうした均等化は、長期の保険という観点から起きるというもの。すなわち、個人の基本的な健康状態の変化によりリスクが変化することも包含した保険になっているということ。


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3. 信頼と委任の概念

  • 理想的な保険のもとならば、患者はとにかく結果だけを基準に支払いを行なっても効用は完全に保証されるので、医師との情報の非対称性を気にする必要は無い。
  • しかし、現実には理想的な保険は成立していないので、患者は少なくとも医師が最大限に知識を活用しているという保証を欲しがる。それが信頼関係の組み込みであり、医師にはそれを維持する社会的な義務が生じる。
  • その結果、医師は利益最大化を常に目的にしているように振舞うことができない。そうした行動は、論理的には問題ないにせよ、心理的には信頼関係と相容れないからだ。
  • 価格差別化と、その極限としての貧困者の無料治療も、その延長線上にある。患者の厚生が最優先というのが医師の義務ということならば、経済問題にも優先することになるので。
  • 情報の非対称性のもう一つの帰結は、患者が医師に治療の選択をかなりの程度任せるということにある。
  • この委任関係に正当に応じていないという謗りを避けるため、医師は、たとえ患者の費用負担を軽減するためといえども、医療の質について妥協できなくなる。
  • 医師に対する特別な信頼は第三者にまで及び、その結果、病気や怪我に関する医師の認定は特に重みを持つ(2節のB参照)。
  • つまり、以下のような一般原理が働く。
    情報の流れに障壁があり、関係するリスクが保証される市場は存在しない場合、売買は収束された期待を通じて行なわれる必要がある。その期待の収束は、明確で顕著なシグナリングによりもたらされるが、そのためには、最適化の観点からは論理的には導き出されない行動パターンを取る必要が出てくる。


4. ライセンスと教育の基準

  • 委任と信頼は、情報の非対称性の問題を避けるために組み込まれた社会的制度である。
  • 一方、治療に関する一般的な不確実性は、社会的には、厳格な参入コントロールにより対処されている。これは、患者の胸のうちに生じる医療という商品に関する不確実性を可能な限り減らすために設けられた。
  • この解釈はナイーブかもしれないが、収入拡大を目指して市場独占のために設けられたという解釈よりも、はるか論証に耐えうるものだと思う。参入規制は確かに既存の医師に有利だが、参入規制を求める一般の圧力は、そうした医師の利害よりももっと深い原因に根差している。
  • しかし、質の保証には他の手段もある。職業への参入には、国や機関による3種類の対応があり得る。
    1. ライセンス制度。ただ、現在のようなオール・オア・ナッシングではなく、治療の水準に応じて段階的なライセンス制度にすることも考えられる。
    2. 国や民間団体による強制力を持たない認証制度。
    3. 完全な消費者任せ。
  • どの手段を取るかは、消費者が自力で選択することの難易度、および選択を誤った場合の結果の重大さに応じて決めるべき。ただ、医療においてはレッセ・フェールは認められないというのは明確な社会的コンセンサス。認証制度はまだ真剣に議論されたことは無いだろう。

あとがき
繰り返しになるが、市場が不確実性に関する保険の提供に失敗した時、市場の通常の条件とは一見矛盾する様々な社会的制度がもたらされる。医療はその一例に過ぎない。ただし極端な例ではあるが。

*1:クラークは他にも経済学者へのインタビュー記事を今年に入って精力的に書いている。=シェリングアカロフバロー(cf.ここ)。

*2:医療費の高騰は基本的に医療技術の進歩によるものだという発言を引用しているが、その引用部分の直前にアローは、シカゴ学派の影響で医療界においても職業倫理が緩み、金儲けに走るようになったことを医療費高騰の一因として挙げている。

*3:ちなみに、以前、専門誌に邦訳が掲載されたこともあったらしい

*4:収穫逓増によって供給独占が発生することを指していると思われる。

*5:HMO誕生のきっかけとなった前払いプランへの米国医師会の反対活動を指す。cf.この文献