議論が成立しなかったいくつかの理由

「相互批判が(少)ない」との憂いを記述してるからといって、「相互批判を展開される」気はかならずしも記述者にはないということなんだろうけど、では議論定義もされない「言いっぱなし」の「相互批判」はどうやって始まり帰結するというのであろうか?

nichijo_1さんの「出されるだけの女たち」は何故、議論がはじまらないのか?

http://d.hatena.ne.jp/nichijo_1/20080221/p1にお邪魔してコメントした。
nichijo_1さんは、森岡正博『感じない男』*1の「射精神話」をひも解かれて、「女たちを批判するとミソジニーだと思われるという恐れ」=「ミソジニー批判拒否心理」を指摘する。その後「射精をしたからといっても男はイッテいるとは限らない」として、「あなたという女は「出されるだけの女」だ」と自らの固定的な射精観の猛省をせまる。
必要以上に(フェミ男性の)ミソジニー批判拒否心理が作動し女性側への批判が押さえ込まれ、結果(男女)相互批判の不足を招き議論が停滞することに対する、男女相互批判の非対称への危惧?が記述動機だとコメントされる。

ワタクシとしては「射精をしたからといっても男はイッテいるとは限らない」「ミソジニー批判拒否心理」は同意する。またフェミ・ジェンダー界隈での男女相互批判の非対称も同意する*2。が、それらは個別に丁寧に批判展開すべきもので、セット化して一気に批判する手法はあちこちに余計な付加がかかり過ぎて無理があると考える。以下が上記論に対する検討すべきポイントである。

1.なんで性交目的を「イク・イカナイ」にするのか?
a「射精をしたからといっても男はイッテいるとは限らない」という前提の基に、女相互批判の非対称の解消の為の議論が「イク・イカナイ」では、あまりにも各人の感覚だよりであって議論の土台の共通項がなく、平行線をたどり相互批判にならない。
b どっちがイカしてイクのか「男は女をイカせるもの」「男をイカせられない女」などでの性的役割分業(デリカシーがすぎる領域)、男・女相互主張の言いあいは、かなり人選厳選しないかぎり、こうしたセクシュアリティ談義にありがちなアイデンティティ政治の愚に突入しがちで、「ミソジニー批判拒否心理」には到達しない。<そもそも「イク・イカナイ」が目的ではない。

2.「イク・イカナイ」の共通定義ができるのか?
a 人間は慣性の動物ゆえ、条件づけで射精する場合と共に、自分流マスターベーションでの快楽値が基準となってしまって対人性交では快楽を引き出しにくくなるなどという生理的・心理的傾向もまた大きい。
b「射精をしたからといっても男はイッテいるとは限らない」→「男がイク時は?」という定義がなされないかぎり、このラインでの女性は「あなたという女は「出されるだけの女」」扱いとなるし(それが狙いだからこその挑発言葉であろうし)、そこでの男性の「イク・イカナイ」談義は、よくある「立つ・立たない」談義とかわりない。

3.「イク・イカナイ」談義は男女非対称性「性交至上主義」を解消できるのか?
2chを見れば、「射精は排泄行為」「便所」等の男性が書いていると思われるミソジニー的な性的侮蔑にあふれているネット上で、ことさら「出されるだけの女」という導線に導かれた「イク・イカナイ」談義は、興味本位の面白下ネタ化して「性交至上主義」を強めども弱めることにはならない。

4.問題とする「ミソジニー批判拒否心理」は、誰が担うものなのか?
a「ミソジニー批判拒否心理」がある男性は女性を批判しないからといって、ミソジニー的に第三者が女性を代理批判するのは、「ミソジニー批判拒否心理」男にとってなんの為になるのか。
b 原因が男性にあるのに、なんで当事者男性でなく女性が「あなたという女は「出されるだけの女」だ」と自らの固定的な射精観の猛省」をせまられなければならないのかという、問題提起→アクション間のターゲットの性別のねじれ。

さてこれの一部を当該記事のコメント欄に書き込みしたのであるが、「何が「イカす・イクか」ということが明確に定義できえない話をいくらしても、論者によってブレが大きく内容も第三者検証できえない為批判自体が成り立たない @hizz」という「批判」の成立前提話しから、唐突に「批判」を「話すこと」とnichijo_1 さんがすりかえる。しかし一般的な語彙としても「話すこと」は、議論でもましてや批判でもない。「明確に定義というのは何ですか。明確に定義できることではないと話すことは許されないとしたら、それは暴力です。@nichijo_1」として、以下延々「定義」の可否だけに始終して、それ以降進まない。明確な定義がいけないなら「イク・イカナイ」での批判も成立しない。定義も範囲設定もない無防備なままの「イク・イカナイ」は、エロ話的に興味本位で消費される。ゆえに別の話題にするか高次(メタ議論)の「イク幻想」にもってくほうが妥当であると再三再四申し上げているのである。
が「明確な定義の「イク・イカナイ」話を元に記事を書かないといけないと言うことが、どれだけ問題かという認識がないのでしょうね。@nichijo_1」と後づけでいわれても、元々ワタクシは「イク・イカナイ」を議論として出すこと自体を批判。
それに対してnichijo_1 さんは男女非対称解消を理由として「イク・イカナイ」を「話すこと」にとどまることで完結しようとしているから、他者(ワタクシその他)にとっても投げかけた問=「批判」言説は、いや、そもそもの「ミソジニー批判拒否心理」で解放されない男はその中のどこにいるのか? 
議論に対する合意ができなかった結果、「相互批判」に到達しないという顛末である。

*1:http://d.hatena.ne.jp/hizzz/20050321#p2

*2:当ブログでは結構、批判してるけど。>女性の無謬性

議論を断絶する本質主義

また、ガンとして自己の無謬性への言及をゆるさない本質主義によって言説の中身を覆い尽くすような曖昧な言質も、相互批判にならない。セクシュアリティを本質とした数多のジェンダー論争の如く、それぞれのたこ壺でアイデンティティ政治化する。たとえ本質主義を基としてたとしても、自分の陣地から出てきてイーブンな姿勢で、対立するそれをきちんと対論しているところの事象と繋げて説明づけがなされないと、後がつづかない。
以降は別欄の話だが、だからnichijo_1 さんが纏めた「本来の武士道」を聞いた*1。がそれが何故か「定義の多様性を言っておきながら、「明確に定義できないことを、どうやって相互批判するのですか?」という二重矛盾 @nichijo_1」ということに。が、「イク・イカナイ」や「男女」と同じく「本来の武士道」という「本質主義」は、明治期の「創られた伝統」と同じく江戸期の「創られた伝統」もしくは著者観・武士道ではないのかと、きちんと著書指定し=定義してコメント当初から批判したので、矛盾はなくむしろ二重のたたみかけ。しつこい。これ程明確な問いかけなんですがね。意味わからないらしいから、こんなに説明。>単行本『武士道に学ぶ』、逆襲シリーズ本『神道の逆襲』*2 *3
http://d.hatena.ne.jp/nichijo_1/20080225/p1


なんであれクローズドでの書き捨てのようなコメントに対して、当人の知らぬところで展開するのは不徳とするところなので、当該記事にトラバして反論してみました。

議論のしかた 岩田宗之
http://iwatam-server.dyndns.org/software/giron/giron/

*1:ここで内容展開しないのは当ブログでさんざん展開した話題ゆえ

*2:菅野本は2冊既読しているので「検索だけで理解したつもり」には当たらないですよ。散々主張してる理由故により、これら読めとは奨めません(笑)

*3:この神道本と当該著書との関連をこれ以上ない位簡潔に書いたコメント自体を即効消去したのは、何故(笑)?

追補 id:hizzz:20080226への反論は?

nichijo_1さんに依るとワタクシが増田に書き込みをしているとか。
http://d.hatena.ne.jp/nichijo_1/20080228052518
…いやはや、なんかいろいろ大変ですな。「直コメント」と「はてダ」、「はてなスター」、「ぶくま」と「ぶくまへぶくま」、「増田スレ」、、、はてな内での反応の隅分け、分散ですな。そんなだったっけなとかあれこれ見くらべるだけでも大変。

さて、ワタクシなら、こんな反論展開いたしますよ。
●「そんなつもりはなかったのに」とは、他の人も使用しているところをよく目にしますが、それは反論にはなりません。「どういうつもり」でもいかようにも付けたすことが可能な後づけの自己感情にすぎないからです。なぜ自己感情だといいますと、「そんなつもりはなかったのに」の後にくる常套句は「心外だ」だからです。表出してしまった文章に対して、そんなつもりも心中も心外もありません。仮に「そんなつもりはなかったのに」が有効打としたら、対する反論も「そんなつもりはなかったのに」で成立するトートロジーにもなりますから、「心情」を根拠として持ち出すのはダメなのです。
●「真摯に対応したのに」も又よく使用されてますが、それはこれまた単なる論者の気持ち=「心情」でしかない、問題は、数ではなく、内容・質です。記事の中で問題にしていた男女相互批判の非対称も、数増えれば良いというものではありませんね。
「懇切丁寧」だろうが「一生懸命」だろうが、その内容がダメならダメです。反対に、「通りすがり」だろうが「書き捨て」だろうが、その内容が反論に値するものならば、良いのです。それでnichijo_1さんは、ここのワタクシのものより、2つの増田さんの方が、nichijo_1さん的な反論に値するとして反応なさった、という訳なんでしょう(苦笑)。

「侮蔑的な強いアジテーション」の理由は上に記述済み。
「異常な増田」などへにエネルギーを費やすより、ここへの反論を期待してますよ。<要望1

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/nichijo_1/20080227/p2
↑ぶくまでnichijo_1さん「hizzzさん、増田のことをもっと詳しく書いてもいいのかと聞いているのですが?」と聞いてこられてますが、自分が書く内容になんで事前に他者承諾が必要なのか、サッパリわからない驚愕のルール。それをワタクシのみならず他の方*1にもせまるのですが、その理由はなんでも「可愛そう」だからだそうです。「可愛そう」というのも個人的な「心情」でしかないので、ワタクシ&他者には、なんの意味も批評もなしてませんね。とまれなにをざっと書こうが詳細に書こうが、それは書き手当事者の自己責任=文責で、おやりになればよろしいこと。
あと、100文字のぶくまで応答しあうのも不便きわまりないので、そちらのコメント欄からのid:hizzz指定締め出しと当方からのトラックバック逐次削除という恣意的な呼応状態の非対称を、できればやめていただけると、もっとスムーズな相互批判になるんだけどなー。<要望2

*1:buyobuyoさん、どうもです。

追補2 議論に於ける定義とは

かろうじてトラバは残して頂けてるみたい?*1だが、相変わらずコメント欄は締め出しなnichijo_1さんはなおもいう。「人文理系を問わずに「明確な定義でなければ批判は成り立たない」というのはかなりの問題があり、これこそが批判を停滞させるものだ。」http://d.hatena.ne.jp/nichijo_1/20080303

菅野武士道を「本来の武士道」とするのが何故おかしいのかは、id:hizz:20080302に書いてあるので具体的にはそちらを。

●hizzの問
nichijo_1さんの当該記事に対して「日本の武士の長い歴史をたどって好みの武士像を取り上げれば、好みの「武士道」論(=思想文学)が出来上がるわけです。その成立過程の状況文脈的妥当性がどうであるかなだけで、論自体には「嘘」も「本来」もない」という定義をたてて菅野武士道に対するnichijo_1さん自身の意見を聞いた。
●nichijo_1さんの応え
「『武士道の逆襲』のあとがきで武士道の基本骨格のキーワードの一つに「戦闘者」があります。『武士道の逆襲』には、その戦闘者と武士道についての記述が複数あります。」と応答。あとは当該本・自己記事読め一辺倒。

「当該本読め」と著書依存したまま自己解釈主張を明確にしない論が何故ダメなのかは、後付けで自己と著書という2つの立場(別枠)を自己都合で往来できる無責任状態となる曖昧だから。<反証可能性の原則
既存本を根拠として記事を書いたのは、nichijo_1さん自身の思考行動である。その根拠に対して疑問を投げかけたのだから、菅野定義の「本来の武士道」はnichijo_1さんの解釈ではこうであると明確にすること(イーブンな姿勢)をもって、「本来の武士道」疑問に対する違う意見が同等に平場に示されることで、その「本来の武士道」というのを根拠とした当該記事は妥当か否かという議論はスタートする。対象が絵画や音楽といった抽象的なものでも、文芸思想の批評のセオリーもそこから。
「論者によってブレが大きかったら」、ぶくまでREVさんがおっしゃられているとおり、「サッカーかバスケットかを決めずにボール遊びするようなもの。」主語・主体不明なままてんでに明後日のいいあい、為にする議論となる。
菅野自身だって「武士らしい武士とは何かを追求するのが武士道」と自己規定している位なんだけどなー。対象事物や手法が、科学であろーが史学であろーが文学であろーがカルスタであろーがポストモダンであろーがセクシュアリティであろーが間テクスト解釈であろーが、問を立てる=定義することから全てが始まる。問をうまくたてることそれ自体が、問題提起-結論への道の第一歩。ジェンダーや当事者問題だって例外ではない。まったく局所事情を知りえない第三者=一般に納得のいく問題提起-結論ができて初めて、その問題は自己感想から社会共有できうる普遍的な問いとなる。

id:hizz:20080302並びに上記「出されるだけの女たち」は何故、議論がはじまらないのか」と含めて、改めてnichijo_1さんには熟考して応答して頂きたい。
批判を停滞させる「為にする批判」立ち位置保持・アイデンティティ政治以外の、自己意見も定義しない相互批判って、一体全体どういう議論?それって立ち位置政治以外には何の役にたつのかな?

*1:自動作成トラバリストは任意で消せないのかな

追補3 範囲限定でしか成り立たないとお認めに?

上記への反論として、ポスト構造主義構築主義でないと理解できないとnichijo_1さん。ですが、本質とされるものや付与のものをアンダーソン『想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』ホブズボウム『創られた伝統』として脱構築している筈そのポスト構造主義構築主義からみても「本来の武士道」を根拠とした不思議は一向に解消されず、また上記の「「出されるだけの女たち」は何故、議論がはじまらないのか?」にあげた当方の疑問点を「批判の方向性が違う」と抽象的に言うだけでは、アバウトすぎてまったく説明になっていないです。
そしてまたもや判らないのは○○主義を理解してないからと主義依存して下駄をあずけて、「どう方向が違う」のか具体的に明確に論じてませんしね。でそれではnichijo_1さん以外、誰も判らないので、相互批判になりませんわなぁ。。。いやしかし、そんなに面倒くさい範囲限定でしか成り立たない人を選びまくる議論なら、それこそ最初からきちんと範囲限定すべきですね、とワタクシ最初からいっている命題を、いつのまにか前提にすり替えてしまっている循環論法をnichijo_1さんは繰り返しているだけですよ。<上記1〜4検討ポイントと次ページ武士道検討への具体的な反論がないかぎり
《》内引用での「言いたいことが重要」ってことなら、主張方向は相互批判に向いていないのでは?批評の自己主張が足りないってこと???で、ポモ&カルスタのタコ壺が山程できたそれって、立ち位置政治以外には何の役にたつのかな?