法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

人を殺して切断して懲役7年の判決となる社会は、君達が望んだものではなかったか

渋谷妹殺害事件について、精神鑑定をほぼ受け入れた地裁判決が出た。もともと検察の求刑も懲役17年だったのだが、さらに軽い懲役7年だ。逆に、弁護側の主張よりは重い刑であることも注意しておく。
http://mainichi.jp/select/today/news/20080527k0000e040067000c.html

 東京都渋谷区の歯科医宅で06年、長女の短大生、武藤亜澄さん(当時20歳)が殺害、切断された事件で、殺人と死体損壊の罪に問われた兄の元予備校生、勇貴被告(23)に対し、東京地裁(秋葉康弘裁判長)は27日、懲役7年(求刑・懲役17年)を言い渡した。死体損壊罪については無罪とした。

 判決は勇貴被告の責任能力について「殺害時には完全責任能力があったものの、死体損壊時には心神喪失の状態にあった可能性が否定できない」と判断した。

 公判では、勇貴被告を精神鑑定した鑑定医が「殺害時は心神耗弱、遺体損壊時は心神喪失だった」と報告したのに対し、検察側は「鑑定結果は推測、仮説に基づいており、信用できない」と反論。一方の弁護側は「事件当時、責任能力を問えない精神状態にあった」と無罪主張していた。

 判決によると、勇貴被告は06年12月30日、自宅で亜澄さんの首をタオルで絞めた上、浴槽に顔を沈めて殺害した。【伊藤一郎】

まだ一審の判決にすぎないこともあり、裁判自体の妥当性とは少し別の話をする。


被害者遺族の心情にそうよう弁護士に求めたり、光市母子殺害事件裁判の死刑判決を応報感情で肯定するような人が、この「懲役7年」という判決に困惑している様子をいくつか見かけた。その想像力の無さに、少々あきれた。
人を意識的に死にいたらしめるような関係は、近親者なり同僚なり、相応に深い関係を背後に持つことが多い。結果として被害者遺族も加害者に対して深い人間関係を持つこととなる。ならば被害者遺族が加害者に重罪を求めない場合も少なくないと想像するのも難しくないだろう*1。これは何度も書いたが、刑事事件についての報道や書籍に目を通していれば、常識として知っていてもおかしくない話だ。
被害者遺族の感情を裁判で全肯定しようとするなら、今回の判決は全く不思議ではない。被害者遺族は被害者の責任を前面的に主張し、加害者をくりかえし擁護して減刑を願ったのだから。
家族間殺人に対して、法の定める最も軽い罰が常態となったとする。加えて、刑を重くしないと犯罪が増えるという説を採用するならば*2、必然的に家族間殺人が増える社会となるだろう。これは被害者遺族の感情を全面的に受け入れるべきという主張から、論理的に導かれる考えだ。
死刑判決直後に本村洋氏が「過去の判例に捕らわれず」と語った通りに死刑判決のハードルが下がった*3のならば、同時に減刑へのハードルも下がるのだ。朝日記者の問いかけは、極めて重要な点を押さえていた。


もし弁護士は自分が被害者になっても同じように被告を弁護できるのか……という話がある*4
しかし、そのありきたりな問いを口にする人々は、弁護士が実際に様々な裁判に関わり、記録にもふれ、時には被害者から仕事を依頼されることを認識しているのだろうか。実際の被害者でないにしても、ありきたりな成句で全てを認識したつもりになっている人々より、よほど被害者感情を肌身で感じているのだと想像できないものだろうか。


感情的な反応は、人それぞれが違う。常識だ。加害者への重い刑を求めない被害者遺族もいる。事実だ。被害者になったと仮定した問いの答えは一つではない。当然だ。
想像力があれば、人が必ずしも応報感情を持つとは限らないとわかる。弁護士が被害者になった場合に必ず応報感情をいだくと考え、弁護士に想像力が欠けているなどと主張する者こそ、往々にして人間の多様性を知らない……つまり想像力がないことが多い。今回の懲役7年という判決に対して違和感の表明が見られるのも、被害者遺族の感情反映を厳罰化への流れとしか考えられなかったという、想像力の無さゆえではないだろうか。
感情へ訴えかける問いには唯一の正解などないと、最初から認めなければならない。そしてもし、唯一の正解を求めるならば、情緒を排した理性への問いにしなければならないのだ。

*1:被害者本人が加害者の減刑を求める状況も充分に考えられる。光市母子殺害事件すら、距離があったとはいえ同じマンションで起きたものであり、被害者が加害者に知人として同情した可能性もあった状況だ。

*2:この説を主張する者と死刑支持者は少なからず重なっているので話に持ち出した。私自身は、必ずしもこの説を支持しない。

*3:永山基準を「勝手に司法の作った慣例」と考えて「ハードルという考え方がおかしい」と本村氏が主張したことから考えると“ハードルを無くした”と考えてもいいだろう。

*4:http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20080501/1209653580の末尾で言及した。被害者的な感情をいだきかねない立場で加害者の依頼を受けた弁護士の例も挙げた。