法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

河野談話を検証してはならない、それは「悪いことをしましたが謝るべきかわかりません」と主張するようなものだ

さほど難しい話ではない。従軍慰安婦問題において日本政府は責任を認め、河野談話で謝罪した。
悪いことをして謝ることに検証が必要なはずがない。


わかりやすくいえば「悪いことをしました、ごめんなさい」と認めて謝ったのが河野談話だ。それなのに河野談話を検証するということは、「悪いことをしたが、それを謝ったのは正しかったか検証します」ということと同義だ。
さまざまな場所で思い違いされているが、河野談話は日本政府の見解の全てではない。検証作業の結論なのだ。それは外務省サイトを見ればはっきりする。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/index.html

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話(平成5年8月4日)
いわゆる従軍慰安婦問題について(平成5年8月4日)(PDF)

河野談話の名称は、正式には「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」という。そしてその直下に、同日に発表された資料「いわゆる従軍慰安婦問題について」がある。
そう、日本政府が「悪いことをしました」と検証して認めたのは、内閣官房内閣外政審議室の名義で出された「いわゆる従軍慰安婦問題について」なのだ。その「慰安婦関係調査結果発表」に対応する「ごめんなさい」が、いわゆる河野談話なのである。
河野談話が発表された過程に疑問があるとする。ならば検証するべきは「ごめんなさい」ではなく「悪いことをしました」と認めた部分ではないか。


つまり、検証するなら「いわゆる従軍慰安婦問題について」でなければならない。その調査の不完全さがわかったとして、はじめて談話も訂正すべきかどうかという話になる。
もっとも、たとえ過去の政府見解を訂正すべきという結論になっても、新たな談話を出すことで最新の政府見解とすれば良いのだ。少なくとも当時の官房長官一個人を批判するべきという話にはなるまい。逆にいうと、結論部分にすぎない河野談話が名指しされるのは、河野洋平個人の責任にしたいという欲望にもとづいているためだろう。
もちろん「悪いことをしました」と認めて「ごめんなさい」をいうまでに、政治判断もあっただろう。国家が罪を知ったとしても、おおやけに認めて謝ることは難しい。
しかし建前として謝ることは何ら批判されるべきことではないし、そうした判断の正しさは検証によって決められる性質のものではない。その判断を検証しようと公言してしまっては、それ自体が悪印象となることはあたりまえだ。


さて、「いわゆる従軍慰安婦問題について」をくつがえすには、膨大な資料を調査する必要がある。
河野談話は約900文字と少ないが、「いわゆる従軍慰安婦問題について」は約2200文字ある。その根拠として集められた文書資料は、公開された『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』だけでも、平均500頁くらいの分厚さで全5巻ある。正直にいえば、すごく読みづらい。
慰安婦関連歴史資料 デジタル記念館慰安婦問題とアジア女性基金
たった約900文字の河野談話すら把握できていないのに、検証の必要性をうったえる意見を見聞きする。広範な地域の被害にふれている「いわゆる従軍慰安婦問題について」が、韓国にいた証言者の信頼性と直結しているはずがない。その証言にかぎっても資料に裏打ちされており、あやふやな疑問だけでくつがえるわけもない。
河野談話の根拠は裏づけのない被害者証言しかないのではなく、被害者証言が裏づけのひとつということ - 法華狼の日記
当時の過程を検証すると称する者は、はたしてどれほど努力を重ねる覚悟をしているだろうか。