修正主義的態度の典型かと

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20060304/1141473634
ちょっと無視できないものがあったので。
ルワンダ関東大震災の虐殺の差異は強調するのに、「アウシュビッツ」のアナロジーはナイーヴに採用するのな。そも、ユダヤからしてみれば、アウシュビッツの記憶を、「自集団の悪を安易に認めるべきでない」とする警告に使われるなんてことは許せないのではないか。第一、ユダヤ人はそうした理由から虐殺されたのではないのだし、しかもその著者は「偽ユダヤ人」。
先日も書いたように、歴史的事実の比較行為そのものが問題となるのは、「唯一無二」であるはずの歴史事件の、相対化の是非においてである。ある歴史的悲劇を別の悲劇と同一化することは、その悲劇を「どこにでもあること」と相対化し、ときにその加害者の溜飲を下げることがある。その例が、ホロコーストを巡るドイツ歴史家論争にあった。
しかし、町山氏の文章はルワンダ関東大震災を同一化するものではない、ということは先日指摘した。そして、むしろfinalvent氏の比較こそ、相対化のためのものではないか。

だが、日本はルワンダと同じような状況になったことはない。それはルワンダの歴史を知れば日本がどれほどの幸運であったかも示している。

一応、この文の後には、

 関東大震災朝鮮人虐殺はルワンダ虐殺とは異なったものだ。それが同じように痛ましいできごとであるとしても。

という「留保」がつく。
しかし、「日本はルワンダと同じような状況になったことはない」ということは、同じ「痛ましいできごと」である「関東大震災朝鮮人虐殺」と「ルワンダ虐殺」は、前者が後者よりも「痛ましいできごと」の比較の上で、よりましなものである、と読む以外に無い。
このような言説は「朝鮮人虐殺」への寄り添いの拒否だけでなく、まさに町山氏が危惧していたような、ルワンダの事件を「他人事」として捉えるものだ。
「唯一無二」な歴史的事件への寄り添い無くして、どのような「内的な問い」がありえるのか僕には分からない。町山氏のメッセージは、要するに「隣人をアウシュビッツに送るな」というものだろう、そのメッセージが、「自集団をアウシュビッツに送ること」になるからいけないとされるならば、「誰もアウシュビッツに送らない」方法は無いということになる。
そういうこと?

何が言いたいのだろう

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20060305
ダルフールの悲劇を止められなかったのだから、ルワンダ関東大震災の虐殺事件を記憶する意味はないし、むしろそうした事件を記憶していることが、ダルフールのような虐殺事件を産むっつーこと?
ある集団が戒めとして過去の事件を記憶していたことを理由として、虐殺事件が起きたという事例は聞いたことが無いのだが。虐殺事件の要因の一つは、加害者集団が被害者集団に持つ恐怖であることは多く指摘されている。朝鮮人虐殺事件の記憶がゆえに虐殺されるかもしれない恐怖、というものは、むしろ虐殺を引き起こす心性に思えてならない。