アガサ・クリスティー攻略作戦 第十六回(執筆者・霜月蒼)

 『死との約束』(クリスティー文庫)を読了。その昔これも映画になったよな、という記憶がかろうじてあるが、これも語られているのを聞いたことのない作品であった。ちなみに旅先モノだが、『ナイルに死す』に打ちのめされた現在、旅先ものへの不安感は(クリスティー作品に関しては)もはや俺のなかには存在しない。

死との約束 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

死との約束 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

【おはなし】
 旅先のエルサレムで、エルキュール・ポアロは男女が交わす穏やかならざる会話を耳にする。ある男が、「彼女を殺さねばならない」と熱っぽく語っていたのだ。中東の地をポアロとともにめぐる一行――そのなかに「殺されるべき女」と、「殺意を抱く男女」がいるのだ。やがてポアロは、家族を独裁者のように横暴に支配する老女ボイントン夫人が、「未だ発生していない犯罪」の焦点なのだろうと、ひそかに注視するが……


 前作にして傑作『ナイルに死す』でつくりあげたテンプレにしたがって書きました、という感じの双子のような構成の一作。またもや舞台が中東なので、姉妹編と言ってもいいかもしれない。あれほど尺は長くないものの、「事件が起きるまで」の物語のサスペンスでぐいぐい読ませる。前回は「不穏な三角関係」がサスペンスの源泉だったが、今回はボイントン夫人を中心とする「不穏な家族関係」である。


 家族を支配下におくババアがとにかく非常に不愉快なんである。これはあれです、《渡る世間は鬼ばかり》のラーメン屋のババァを思わせる不愉快感。逆にいえば、あの長寿連続ドラマと同質のパワフルで普遍的(で、それゆえにクリシェ)な不滅の物語が、殺人の起きるまでの前半を支えているということである。これは強いです。
 『ナイルに死す』の回で、「これがミステリであるからには、誰かがこれから殺される」という事前の予測が三角関係のドラマに追加のサスペンスを注入する、と書いたが、本書では、まずプロローグでの「殺さなきゃならない」で読者をふんづかまえたうえで、そこに「メシがまずくなるくらい不快だけど、それゆえに目の離せないホームドラマ」要素が投入されることになる。否応なしにページを繰ることになってしまうのも無理はないってものです。ついでに言えば、ここでのページターニングの欲望には、ボイントン夫人についてのムカつきが作用していることも見逃すべきではないでしょうね。要するに、「誰だか知らないけど早くこのババァ殺しちまえよ、俺は応援するぜ!」と、少なからぬひとが夫人の死を願いつつ読むはずなのだ。「殺人が起きるまで」の物語の魅力が『ナイルに死す』よりも強化されているわけである――誰が殺されるかは不明であるにせよ、「このババァが死ぬのが見たい」という「中盤のカタルシス(=殺人発生のカタルシス!)」を読者に期待させているからである。これがクリスティーの計算のうちであることは間違いないと思う。


 と、ざっくりと全体について語るにとどめて、本編に関してはこのあたりで筆を置きたい。余計なことを言うとミステリとしての味わいを損ねかねない気がするからだ。どういう驚きであるかは言えないが、少なくとも私は解決場面で虚を突かれた。大仕掛けではないし、例えば『雲をつかむ死』や『メソポタミヤの殺人』のように小粒なトリックを導入したがゆえに却って索漠とした後味を残してしまうような弊もない。
 これは『エッジウェア卿の死』あたりの流儀の進化形だろう。「読者が考えること」を完全に把握し、それを騙しに援用する。『エッジウェア卿の死』や『邪悪の家』については「物語としての軽い退屈さ」を否めなかったが、前述のように、『死との約束』にはそれがない。
 じつは『ナイルに死す』も同じ流儀で書かれている。しかしあちらは脇の事件をはじめとするゴージャスな装飾がたくさん施されていて、「代表作」たる威風をクリスティーが意図的にまとわせたような気配がある。本書はもっとずっとシンプルで、言葉の最良の意味でのルーティン・ワークの感じ、自然体のリラックスした空気が漂っているのだ。見事なページターナーでありつつも。


 ここにクリスティー流のミステリが完成した――そんなふうに思わせる秀作。個人的に、これまでの読んだ16作のなかでも上位におきたい。


ナイルに死す (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

ナイルに死す (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

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邪悪の家 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)
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雲をつかむ死 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)