「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち」春日 武彦 (著)
 あと一月で一線から退いて二年になる。そこで実感したことは、「人間は思い込みを対象に貼り付けているいるだけ」
ということ。 その最たるのが老人。小さな岩場の中で老いてしまった姿が一つ間違えば自分? そう思っていた矢先、
この「老いの見本帳」のような本を見つけた。 小説やエッセイの中の50人位の老人を取り上げている。還暦も過ぎ、
あと三年で古希になる。還暦に驚いて、フッ気づくと、もう目の前に古希が迫りつつある。中年も、初老も過ぎたのだ。
そこで気づいたのは老人の姿である。 まともなら良いが、老いに翻弄され、押しつぶされている悲しい姿が見えてくる。
そして私も、その一人になろうとしているのか・・  ーまずは、この本の「内容紹介」よりー 
【 =老いることは、むずかしい……「若さという神話」への無自覚で強迫的な執着は虚しい。ならば、望ましい「年寄り」の
 適切なモデルはあるのか? 歳をうまく取れないために生じる恥、勘違い、いかがわしい振る舞い。老人の不安に向き合って
 きた精神科医が、臨床現場での知見と数多くの文学作品の読解をもとに、老人の心に迫る。哀しくもおかしな老いの見本帳。=】
 ー 以下は、この本の要旨を説明した箇所 ー それにしても、老いるということは、悲しいことである。
≪ あえてわたしは本書で、自虐的な、マゾヒスティックな、げんなりするようなことに目を向けてみたい。
 そして少しばかりの喜びにも。大人が若者をつい十把一絡げに論じてしまうように、老人もまたステレオタイプにしか
把握されない傾向にある。もっと繊細な、もしかすると文学の形でしか掬い取れないような局面、老人ならではの異形さや闇、
あるいは意外な喜び、そうしたものへも触れなければ隔靴掻痒の老人論しか語られないことになる。だから本書を読み終えて
嫌な気分になったり、こんなことをわざわざ書きやがってと、眉を裂める人もいるかもしれない。それは重々承知である。
 しかし、人生なんて坤き声をあげたくなるようなことの連続ではないか。ましてや老いたらそれはそれで独自の当惑や
「釦の掛け違い」、恥や失望や悔しさが待ち受けているに決まっている。ならばそのようなものを、まずは他人事として
味わってみるのも一興ではないか。それが入生の参考になるとか他山の石になるといったことではなくて、ああ、こういった
ことってあるかもしれないなあと思ってもらえれば十分である。あるいは意地悪な楽しみであっても構わない。
気負った言い方をするならば、種々様々な悲しみや煩悶や屈託を見知ってこそ我々は豊かになれる。その上で、若作りをする
初老期を笑うのも結構だし、共感を寄せるのも結構ということ。≫  
 ▼ 老いてきて、ゾッとする様々な悲しみと煩悶と,味わい深い喜びが覆い被ってくるとは予想外であった。現役の時は
  直視しないで済んだが、岩場に留まるようになると、周りの老醜が嫌でも見えてくる。そして、知らないうちに自分も、
  その一員になっている。予め様々な老人の異形さや闇と味わいを知識として知っていた方が余裕を持てる。
 『百里の道は九十九里をもって半ばとす』という諺があるが、これは「晩年の心がけ」ということを、しみじみ実感する。
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3993, 閑話小題 
2012年03月01日(木)
   * ペットのインコ
 雀ぐらいの大きさのルリハインコのピーが我が家に来て一年あまりになる。 前のインコの存在感が大きくケタタマシかったので、
今度は小さな大人しいインコにした。 とにかく可愛い。少し攻撃的だが人懐こく、常に鳴き声で呼びかけてくる。そこでガラス越しの
ベランダに目をやると、止り木でデスプレイの連続回転を続けて7〜10回はする。とにかくかまって欲しいようだ。前のインコを
風邪で死なせたこともあり、この越冬は注意しているが何とか越えそうだ。 ペットも家族に同化してくると心があるのが分かる。
カゴを置いているベランダにはサッシの囲いがあり外気とは一応遮断されているが、それでも殆ど寒さは変わらない。
障子を開け姿がみえている時は大人しいが、閉めると騒ぎ出す。二日か三日に一度はヒステリックが起き、狂ったようにカゴの中で
飛び回る。本来なら餌を求めて森を飛び回っているのが、小さな空間に押し込まれ、飽食なら、さもありなん。
   * 「貯蓄ない」世帯、過去最高の28・6%
 ネットのニュースに、次のような記事があった。
【 金融広報中央委員会が22日発表した2011年の「家計の金融行動に関する世論調査」によると、2人以上の世帯で「貯蓄がない」
 と答えた世帯の割合が28・6%に上り、調査を始めた1963年以来、過去最高となった。 貯蓄の平均値は1150万円で、
 前年より19万円減った。 人々の実感に近い中央値(答えた世帯の中間の値)は前年より80万円少ない420万円だった。 
 貯蓄残高が1年前に比べて「減った」世帯は40・5%で、「増えた」世帯(21・3%)の2倍近くになった。
 減った理由は「収入が減ったので取り崩した」が43・3%で最も多く、景気減速が家計に大きな影響を与えている。
 調査は11年10〜11月に全国8000世帯を対象に訪問と郵送で行い、回収率は47・5% 】
  ▼ 家電などの一般ローンと住宅ローンの残債もあるので、実際の家計は苦しいはず。平均値と中央値の大きい乖離は、
   老齢化した金持ちに預金が偏っているため。 世代間格差も、今後ますます広がる傾向にある。失なわれた20年で、
   急速に家計が苦しくなった実感がヒシヒシと伝わってくる。二人以上の世帯で貯蓄ゼロが三割、中央値が400万は厳しい。
   持家があっても、資産価値が暴落ときたら、家計をしめるのは自然の理。それに地震列島が大きく歪んで動き出したときたら・・
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3627, 「生きがい」について
2011年03月01日(火)
「生きがい」という言葉を最近、以前ほど聞くことが無くなったが、私の学生時代は「生きがい論」ばやりであった。
「この子は、私の生きがいなの」と母親が子供に対していうケースとか、趣味に没頭している時などに対していう。
「現在している仕事に生きがいを感じない」と聞くこともある。この不況の中では生きがいより、食べていく方が優先される。
 やはり生きがい論は経済成長の時代にあっている。 「生(活)きている、かい!」ということ。
*この子が生きがい、という時は、この子の幸せのため骨身を削って働いている時にいう。自分の子供、家族に献身している幸せ、である。
*夢や希望に向かって没我をしている時にも「生きがい」という言葉が出てくる。両者とも未来に向かっている時の充実感がある時である。 
 また、そこに価値=意味を感じ取ることが出来る時に「生きていて良かった」「生きている価値がある」と思うのである。 
ところで、「生きがい」という言葉は、日本だけの特有の言葉という。 哲学は人生の意味、価値は論じるが、それを主体的に感じとる
「生きがい」は、日本人特有のもの。 ネット辞書には、「生きるに値するもの。 生きていくはりあいや喜び」とある。
「生きるに値するもの」とは、対象の中に見出すことだから、まず自分の価値を見定めていなければならない。
そのためには時間をかけエネルギーを注いで、多くの困難を乗り越え満足出来た結果、心の底から「生きがい」が生じる。
従って、若い人が「生きがいを見出せない」というのは、当然のことで、それほど薄っぺらなものではない。
しかし若いうちから「生きがい」に足る目標、対象を探すことは必要。 基準は好きになれるかどうかである。
 何ごとも無我夢中になれる対象に向かっていけば、それが生きがいになる。
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3262, 久々のジョーク −8
 2010年03月01日(月)
* レストランで財布を落とした男「千ポンド入りの財布を落とした。
  見つけた人に百ポンドはらうぞ!」というと、奥のほうから「俺は二百ポンド払う!」
* 教会での結婚式に参列していた小さな男の子が小さな声で母親に訪ねた。「ママ。あの女の人ドレスはどうして白いの?」
 「白いウェディングドレスは,幸福の色なのよ。人生で一番幸せな日に着るのよ」
 「フーン」男の子はしばらく考えて,また聞いた。「じゃ、ママ。なんで隣の男の人は黒い服を着てるの?」
*「ママ、新婚旅行って何?」 「結婚したばかりの男の人と女の人が一緒に旅行することよ」「ふうん、ママもパパと行ったの?」
 「行ったわよ、とても楽しかったわ」「その時ボクも一緒に行ったの?」「もちろん行きましたとも。
 「行きはパパと一緒に、帰りはママと一緒にね」
* A子が久しぶりに車を運転していた。 その時、母親が心配そうな声で彼女の携帯に電話を掛けてきた。
 「もしもし、A子?母さんよ。今どこ?」 「東名高速に入ったところ」 「東名高速!?気をつけて!
  今ニュースで言ってたんだけど、そこを逆走してる狂った女がいるんですって。あなた見なかった?」
 「見た見た!でも一台じゃないわよ」 「え?」 「さっきから何百台も逆走してるわ」
*「どうしたんだ?そんな暗い顔をして」 「ああ…。実は俺、もうすぐ父親になるんだ…」
 「本当か! おめでとう! でもなんで喜ばないんだよ?」 「妻にまだ話してないんだ…」
* 週刊誌の人生相談のコーナーに、男性読者から次のような手紙が送られてきた。
 「ボクは20歳の独身男性です。六ヶ月前から、誰が見ても魅力いっぱいの女性と同棲しています。
 彼女は美しくて、利口で、愛想がよく、かわいらしくて……。僕たちはお互いに声を張り上げたことなど
 一度もありませんし、口げんかで二人を包み込む青空にかげりがさすなどといったこともありませんし、
 そこでお伺いします。僕は彼女と結婚するべきでしょうか?」 回答者はただ一行、こう返信した。
       「そんな素晴らしい関係を台無しにするのは、おやめなさい」
ー字数の関係でカット(2012年0301)
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887,日本は輸出立国か?
2009年03月01日(日)
野口悠紀雄は、その著書で、
アメリカの金融立国に対応して、日本も円安に誘導して資金をアメリカに供給し、かつ円安メリットを最大限利用し輸出立国を
つくりあげた。 金融恐慌は日本も同罪である」と断じている。しかし統計の数値からみて、果たして日本が輸出立国かという
素朴な疑問が生じるのも事実である。 他国のGDPの輸出比率をみてみると、意外なデーターがある。
・中国 37パーセント ・韓国 37パーセント ・ロシア 30パーセント
・欧州平均 50パーセントの数字。(中は大きなばらつきがあるが)
原油輸出国のクエート 56パーセント。 他の産油国では90以上だろう。
 対して日本は 15パーセント なのである。間違いだろと思ってしまう数字である。
 これからみると、日本は輸出立国と果たしていえるのだろうか。しかし輸入も13〜4パーセントがあるので輸出は必要である。
ー字数の関係でカット(2012年0301)
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2008年03月01日(土)
 2523, 賢人の知恵 ?2
 面白そうなところを幾つか選んで、考えてみる!人間や、それを構成している社会などは数百年経っても、
 簡単に変わるものではない! 人間は全て、飯くって、?!して、寝て、死ぬのだからだ。    
    ーー
“知恵を備えていることが最大の幸運であり、それがないことが最大の不運だ”
  ー解ー 知恵は知識が醸成され出てくるもの、そうでないのは浅知恵でしかない。
“言葉は飼いならされてない野獣と同じ、一度解き放つと戻ってこない。”
  ー解ー 全く、これでどれだけ無駄をしてしまったか!
“第三者の悪口を言うのは、下手な駆け引きでしかない。”
“運のいい人を見分け、ついていない人からは逃げるに限る。”
“大事なのは知識より知人である。”
“落ちぶれた人とはかかわりを持たないほうがいい。”
“友人に貸しがあるなら、つまらないことで返してもらわないこと”
“うそをついてはいけないが、すべてを明らかにする必要もない。 ” うそも方便だが、その方便がつけないから・・・?
“敬愛される立派な人と行動を共にしていれば、その威光のおかげで、こちらまで輝いて見えるのだ”と言う反面次の次のページで、
“「自分より光っている人は、・・相手の方が常に注目や栄光を集め、こちらはそのおこぼれにありつくだけだ。
 ・・自分より優れた人とではなく、平凡な人と肩を並べて歩くこと”
“平凡な人と付き合おう。自分より優れた人と一緒にいると自分が目立たないから。”など、矛盾もしている。
“みんなが王になれなくても、一人ひとりが王にふさわしい行動を目指すことが可能だ”
  ー解ーこれが少し分かりかけたのが、ごく最近になってからだ。神と言い換えてもよい。
“自分という作品を完成させようではないか”
  ー解ー この人は、牢につながれたのが完成か?でも、この方が素晴らしい!
”賢人は、何ごとも偶然はないことを知っている。ただし運命に身を任せるより、自ら運命を切り開いていく人になろう。
 よく考えればチャンスに敏感でいること以外に成功の道がないことがわかるはずである。”
  ー解ー 何がチャンスか、それを常に問いかけていないと敏感になれない。
“持てる資源を一度に使い切らないこと。今の境遇を保ちたいなら、後方に備え・蓄えを用意しておこう。
 失敗の恐れがあっても、利用できる援軍があれば力は倍になる。後方部隊は、前線より重要といえるだろう。
 彼らは信頼と不屈の精神で成り立っているからだ。常に大事をとることを考えよう。
 ー解)当時の彼に孫子を知るはずもないが、孫子の兵法と同じことを所々で述べている。
“人には七年ごとに転機があるという。これを精神向上のためのしよう。
 最初の七年は知性の誕生で、その後七年ごとに新しい美徳が輝いてあらわれるのだ。
 この間に起こる変化を意識して、うまく手助けしよう。 変化は新しい地位や仕事などの形で
 ごく普通にあらわれるかもしれないが、かなり大きくなるまで気がつかないときもある。
 人は、二十で孔雀のように気どって歩き、三十で獅子のように吠える。
 四十で酪駝のように節制家となり、五十で蛇のような陰険さを身につける。
 六十はくだらない犬、七十はする賢い猿、そして八十は……、何も言うまい。”
 ー解)ーくだらない犬のとしになったか? それにしても辛辣である!
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2007年03月01日(木)
2158, 幸福に驚く力 ー4          (~Q~;)  おはよう?? キョウハ スゴク サム? 
ーまずは、要点の抜粋から
  *日常の幸福に驚く力*
 何かを買ってもらった喜びと、何処かに連れて行ってもらった喜びを除いた子供時代の一番幸福な思い出は
何だろうかと考えると、チョッとしたことの中に喜んだことを多く発見することができる。
つまり日常にあるそういう幸せをしっかり受け取る力が子どもにはあるのです。しかし、それを放っておくと、
イベントや買い物の方にいってしまう。そういうものに邪魔をされて見えなくなってしまう。
そして「凡庸で退屈なことは悪だ」という情報社会の空気の中で自分たちの日常なんてつまらないものと思い込まされていく。
ー字数の関係でカット(2012年0301)
  *凡庸や退屈が悪と思わせられる社会*
 ー字数の関係でカット(2009年0301)
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2006年03月01日(水)
1793, 心に効くクラシック      ー読書日記
 ー字数の関係でカット(2008年0301)
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2005年03月01日(火)
1428, ワインの話 ー1
 思索紀行ーぼくはこんな旅をしてきた  ー読書日記
飛行機の中や、ホテルで国ごとのワインを飲んできたが、ー美味い、不味い。辛口、甘口。酸味の濃厚さ。
口当たりが良い、悪い。 香りの良し、悪し。白・赤・ローゼー位の語彙しかなかった。勿論、一万円を一本飲むより、
1千円を10本飲んだほうが良い。サエゼリアのグラスの一杯80円のハウスワインで良しと思っているようでは、何おか言わんやだ。
ハウスワインとして割り切っていれば、それで充分だが。この本を読んで、一本数万、いや数百万のワインを飲む意味が少しは
解ったような気がした。ワインに対する知識は、昨年ウィーンに行って少し聞きかじった位だ。「良いワインを飲む回数が重ねた分だけ、
少しは味がわかってきた」と思っていた。しかし立花隆のこの章を読んで「何も解ってないということが解った」。
映画で、金持ちが地下にワイン貯蔵庫を持っていて、それを一人密かに飲むのを楽しみにしている場面を見たことが何回かある。
欧米の大金持ちの道楽の一つになっている。欧州の紹介番組みで、ワインの酒蔵の醸造オーナーが、数十年前の取って置きのワインを
レポーターの飲ませる場面を見た。レポーターは涙を溜めてその美味しさを話していたが。この本で知ったことだが世界のワインの
有名産地に殆ど行っていたのだ。南アフリカ、スペイン、ドイツ、チリ、イタリア、フランス、オーストリアなどなど。
この知識があったら、その楽しみも増えたのにと残念至極である。「人生は知らないということを知るプロセス」だが。
知らないということは多くの経験の機会を損失をしていることになる。それも一生を終える時に、つくづく実感をするのだろう。
ー字数の関係でカット(2011年0301)
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2004年03月01日(月)
1062, 「まず街灯の下を探せ」
野口悠紀雄の「超」整理日記「デフレとラブストーリーの原則」の「まず街灯の下を探せ」が面白!
?暗い夜道を歩いていて、鍵を落としたことに気づいたとする。どこを探せばよいか ?物理学者のアドバイスは、
「まず街灯の下を探せ」ということだ。数学の試験問題を解くには、この「街灯の下原則」に頼るしか方法はない。
(字数制限のためカット 2010年3月01日)
・・・・・・
2003年03月01日(土)
696, ルーツ ー1
ー我家の家系
自分のルーツを探って行けば、ビッグバンにいきあたる。そして宇宙の創造、地球の起源、生物の起源、動物の起源、
人間の起源、日本人の起源、そして家系、自分になる。  家系といえば最近「家」の崩壊が始まっている。
数年前に佐藤愛子の「家系」が数年前にベストセラーになった。10数年前にアメリカでも、ある黒人のルーツ探しの
TV映画が放映されて、ルーツ探しがブームになった。 私の家の家系の話をしてみる。30数年前に父のところに遠い親戚の変わった?
おじいさんが訪ねてきた。「自分ー堀井のルーツを調べたいのだが、小千谷に郷土研究家から詳しい事を調べたい。
そのためにはまとまったお金が必要だ。資金援助をしてくれ」とのことだった。その場で断ったが、父は「自分が調べて解ったら教える」
と約束した。そしてその小千谷の郷土研究家のところに行って調べてもらった。そのコピーを子供たちや親戚に配った。
ー字数の関係でカット(2011年0301)
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2002年03月01日(金)
346, 20歳の頃ーある教授との出会いー3
  武澤信一教授  人事管理ゼミ
私の人生で最大の師は大学の恩師武澤先生である。もう亡くなられて7年になる。
イメージはキザな気取り屋で、底知れぬ教養人です。話しているだけでコンプレックスの塊になる。
特に人事管理の世界的権威のレベルと聞いていた。先生との出会いがなければ、30数年間一日平均
2〜3時間の読書を続けられなかったと思う。 知的コンプレックスを脳の中心に叩き込まれたためだ。
非常に印象は冷たく、傍にいるだけで居たたまれなくなる人だったと思います。親分肌の正反対のタイプだ。
あだ名は「絹布団」自分でも気にっていたとか。初めは冷たく感じるが、長く付き合ってもらえれば温みが感じられる。
目上の人で筆不精の私が何回も、手紙や葉書をやり取りしたのは先生が初めてであった。
    ー遺稿文ー
ーさようなら武澤先生ー  
       ー武澤先生ご遺稿・追悼文集ー「はげみ」より
武澤信一先生、そして懐かしい武澤ゼミ、八王子ゼミナール、はげみの会、最終のゼミナールとその晩のコンパ。
そして先生の退職時のはげみの会(最後のゼミナールと称して参加者の全員の自己紹介と経緯の説明)等々、
様々なことが思い出されます。私の学生時代、いや50年の人生で恩師武澤先生をのぞいて考えられない位、大きい存在でした。
‘ご遺稿・追悼文集’発行の手紙をいただいた時「よかった」と思わず言葉が出てしまいました。
先生に対する追悼の思いを表現する場が、もやもやした中途半端な気持ちにあったからです。
立大3年の終わり頃、親友だった石川譲冶さんより「今入っている武澤ゼミが素晴らしいから、面接に来ないか」と誘われまま、
気楽に試験に行ったのが武澤ゼミとの出会いでした。 そして入ってまもなく大学3年間の、いや人生の22年間の不勉強に、
呆然としてしまいました。そして2学期から卒論を書くにあたって、知的コンプレックスは極限に達してノイローゼの一歩手前の
状態になってしまいました。進路もこのまま果たしてこのまま進んでいいものか?直接その迷いを先生にぶつけてしまいました。
その時の武澤先生の一言が「迷いを数字で表現してみなさい!」でした。その時の自分の答えが忘れることができません。
「51対49」でした。すかさず先生は「それなら、51の方を選ぶべきです!」しかしその後、最終的に選んだのは
49の就職の方でした。「それなら初めから相談に行く必要がなかったのではないか」という矛盾でした。
その後就職をしたのですが、その後そこを辞め大学に編入しなおし、再び就職後事業を起こしました。
そして現在に至っています。そのプロセスの中でいつも先生の影が、自分を追い立てていたようです。
また「51対49」が私の人生観の一つになりました。何事も「51対49」と考えると、迷いも冷静に対処できるのです。
好き嫌い「51対49」差し引き2。正しい、間違い「51対49」差し引き2・・・・。
1989年の夏、先生が新潟大学で第19回の労務学会全国大会で議長をされました。
その時、私のホテル(シングルイン新潟)に泊まっていただきました。そして「卒業後の30年のつもる話」を、
させていただいた事を忘れる事ができません。そして新潟の夜をハシゴをして飲み歩いた事も。
ところで武澤先生と最後にお会いしたのは、1993年の「はげみの会」でした。
二次会で先生が異様に元気がないのが、気になっていました。そして、その会の帰りがけにエレベーターの前で、
私の手を握って「堀井君、遠くから有難う!身体にくれぐれも気をつけて、元気で!」と上下に激しくふった時、
「もしかしたらこれが最後のお別れになるかも?」と思ってしまいました。しかしまさか、こんなに早く現実になろうとは・・。
天国の武澤先生、本当に本当に有難うございました。ご冥福をいのります。
                                      1996年7月13日発

つれづれに

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今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=-raiJem8w9U
http://www.youtube.com/watch?v=XFLrwEszsdw

 今日の写真は、偶然見つけた居酒屋の写真だが、25~30坪タイプの一番スタンダードの
レイアウトのもの。40席~45席。メインとおりなどの関係でカウンターと小上がりの
座卓の位置が左右、変わる。 小上がりは4卓。 奥に小座敷が見えるが、4卓ほどだろう。
カウンター内には見えないが、手前に大型の冷蔵庫があり、板場がある。 
煮物のガス台が奥の左手にみえる。その横にビールを入れるケースもある。奥のドアは倉庫。
ガス台で、煮物をしながら女将が、カウンターの外の客に酒や料理を出す。これも見えないが、
奥の右手にトイレがある。まだ新しい店で、中の上クラスの居酒屋か小料理屋。
 40年近く前に千葉の千城台という団地の商業地区で貸しビルを建てた。そこの1Fの一角で
養老の滝のFC店を開いた。そこが、ほぼ同じレイアウトで店内は酷似している。
当時の店への投資は1000万、今では、この程度だと、1500~2000万。(保証金は別途)
右手の小上がりが椅子席以外は、ほぼ同じ。朝7時から23時まで必死に働いたことを思い出した。
 飲み屋は、叩き上げがやるもの。素人のやるものでない。しかし、創業の勉強にはなった。
小さな店でも経営の全ての要素が必要になり、不足すると直接跳ね返ってくる。
振返ると、色いろの事業を、よくやったと思う。絶体絶命の場に身を置くと信じられない力が出てくる。
 二年前の経験も、これらから見れば何とことはない。立ち上げの激しさから見れば10分の1以下。 
倒れ方もあるが・・ 振返って、いずれも面白い! といえるだけ、良かったということか。

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2005年03月01日(火)
1428, ワインの話-1
 思索紀行ーぼくはこんな旅をしてきた  
        ー読書日記
飛行機の中や、ホテルで国ごとのワインを飲んできたが、ー美味い、不味い。辛口、甘口。
酸味の濃厚さ。口当たりが良い、悪い。香りの良し、悪し。白・赤・ローゼー位の語彙しかなかった。
勿論、一万円を一本飲むより、1千円を10本飲んだほうが良い。サエゼリアのグラスの一杯80円の
ハウスワインで良しと思っているようでは、何おか言わんやだ。
ハウスワインとして割り切っていれば、それで充分だが。
この本を読んで、一本数万、いや数百万のワインを飲む意味が少しは解ったような気がした。
ワインに対する知識は、昨年ウィーンに行って少し聞きかじった位だ。
「良いワインを飲む回数が重ねた分だけ、少しは味がわかってきた」と思っていた。
しかし立花隆のこの章を読んで「何も解ってないということが解った」。
映画で、金持ちが地下にワイン貯蔵庫を持っていて、それを一人密かに飲むのを楽しみにしている
場面を見たことが何回かある。欧米の大金持ちの道楽の一つになっている。
欧州の紹介番組みで、ワインの酒蔵の醸造オーナーが、数十年前の取って置きのワインを
レポーターの飲ませる場面を見た。レポーターは涙を溜めてその美味しさを話していたが。
この本で知ったことだが、世界のワインの有名産地に殆ど行っていたのだ。
南アフリカ、スペイン、ドイツ、チリ、イタリア、フランス、オーストリアなどなど。
この知識があったら、その楽しみも増えたのにと残念至極である。「人生は知らないということを
知るプロセス」だが。知らないということは、多くの経験の機会を損失をしていることになる。
それも一生を終える時に、つくづく実感をするのだろう。
これから書く内容は、この本の第三章「『ガルガンチュア風』暴飲暴食の旅」のワインについての
記載をまとめたものである。20年前に書かれていた、この文章に解りやすくワインの話が書かれていた。
 (字数制限のためカット2013年3月1日)
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2004年03月01日(月)
1062, 「まず街灯の下を探せ」
野口悠紀雄の「超」整理日記「デフレとラブストーリーの原則」の「まず街灯の下を探せ」が面白!
-暗い夜道を歩いていて、鍵を落としたことに気づいたとする。 どこを探せばよいか ?
物理学者のアドバイスは、「まず街灯の下を探せ」ということだ。
数学の試験問題を解くには、この「街灯の下原則」に頼るしか方法はない。
「当面している問題は、過去に解いたどの問題と同じタイプか」と考え、
それに当てはめて解くのである。最初の発見者は十分な時間をかけたはずだ。
それと同じことを、限られた試験時間内にやるというのは、無理なのである。
つまり、「学校の数学は暗記」ということだ。必要なのは、問題のパターンを覚えることだけである。
「自分で考えて解かなければならない。しかし、私にはできない。だから、私には数学的な能力がない」
と思い込んで数学から離れていく人がなんと多いことだろう。暗記した問題のパターンに当てはめれば
解けると確信すれば試験の成績はよくなる。事例問題を暗記しておくのがよい。
 「街灯が事例問題」の例である。
ー以上であるが、
まずは知らない街に行ったとする。そうすると、何かの本かのTVか雑誌で聞いたことがある店に行く。
知らない店に行くより外れの確立は少ないだろからだ。経営でも考えられる。
何かを新規にしようとしたらベストの事例(灯り)を見つけ、そこの灯を頼りに鍵を探すことだ。
街灯を知識・情報以外に、考えられないだろうか。意志だろうか、それとも愛だろうか、知恵だろうか、それとも?
情報化社会ほど、情報と知識と、それを活用する知恵が必要とされる時代である。
まずは光り(情報・知識・意志・愛・?)が一番重要になる。この街灯が情報社会の到来で、世界中に灯ったのだ。
その為には、まずは目指す街灯を探さなくてはくては!

・・・・・・
2003年03月01日(土)
696, ルーツ -1
ー我家の家系
自分のルーツを探って行けば、ビッグバンにいきあたる。そして宇宙の創造、地球の起源、
生物の起源、動物の起源、人間の起源、日本人の起源、そして家系、自分になる。
家系といえば最近「家」の崩壊が始まっている。
数年前に佐藤愛子の「家系」が数年前にベストセラーになった。10数年前にアメリカでも、
ある黒人のルーツ探しのTV映画が放映されて、ルーツ探しがブームになった。
私の家の家系の話をしてみる。30数年前に父のところに遠い親戚の変わった?おじいさんが訪ねてきた。
「自分ー堀井のルーツを調べたいのだが、小千谷に郷土研究家から詳しい事を調べたい。
そのためにはまとまったお金が必要だ。資金援助をしてくれ」とのことだった。
その場で断ったが、父は「自分が調べて解ったら教える」と約束した。
そしてその小千谷の郷土研究家のところに行って調べてもらった。
そのコピーを子供たちや親戚に配った。勿論私も貰って手元に今もある。
実家の店の屋号が「池津屋」で、道具屋を戦前までしていた。父は「山本五十六」や「ツガミ社長の津上退助」や
「野本互尊」との付き合いがあった。戦前戦後と長岡ではこの「屋号」は老舗として一目置かれていた。
母が実家に嫁いだ時の資産が八萬円だったというから、地方ではミニ資産家だったようだ。
小千谷の近郊に「池津」の村があり今でも30代続いている「大本の本家」がある。
その時に両親が訪ねて行ったと聞いた。幕末にある先祖が長岡に出てきて古道具屋を開いた。
その孫娘が婿をとって、分家の道具屋を開いたのが2代前の祖父祖母である。本家筋はもう商売を
7~80年前にやめた。両親は戦争中に道具屋から仏壇屋に転進、戦死が多く大繁盛したという。          
                 ー続く
・・・・・・・
2002年03月01日(金)
346, 20歳の頃ーある教授との出会いー3
       武澤信一教授  人事管理ゼミ
私の人生で最大の師は大学の恩師武澤先生である。もう亡くなられて7年になる。
イメージはキザな気取り屋で、底知れぬ教養人です。話しているだけでコンプレックスの塊になる。
特に人事管理の世界的権威のレベルと聞いていた。先生との出会いがなければ、30数年間一日平均
2~3時間の読書を続けられなかったと思う。知的コンプレックスを脳の中心に叩き込まれたためだ。
非常に印象は冷たく、傍にいるだけで居たたまれなくなる人だったと思います。
親分肌の正反対のタイプだ。あだ名は「絹布団」自分でも気にっていたとか。
初めは冷たく感じるが、長く付き合ってもらえれば温みが感じられる。目上の人で筆不精の私が何回も、
手紙や葉書をやり取りしたのは先生が初めてであった。
                - 遺稿文を載せてみるー
 さようなら武澤先生ー   ー武澤先生ご遺稿・追悼文集ー「はげみ」より
武澤信一先生、そして懐かしい武澤ゼミ、八王子ゼミナール、はげみの会、最終のゼミナールとその晩のコンパ。
そして先生の退職時のはげみの会(最後のゼミナールと称して参加者の全員の自己紹介と経緯の説明)等々、
様々なことが思い出されます。私の学生時代、いや50年の人生で恩師武澤先生をのぞいて考えられない位、
大きい存在でした。‘ご遺稿・追悼文集’発行の手紙をいただいた時「よかった」と思わず言葉が出てしまいました。
先生に対する追悼の思いを表現する場が、もやもやした中途半端な気持ちにあったからです。
立大3年の終わり頃、親友だった石川譲冶さんより「今入っている武澤ゼミ、素晴らしいから、面接に来ないか」
と誘われまま、気楽に試験に行ったのが武澤ゼミとの出会いでした。そして入ってまもなく大学3年間の、
いや人生の22年間の不勉強に、呆然としてしまいました。そして2学期から卒論を書くにあたって、
知的コンプレックスは極限に達してノイローゼの一歩手前の状態になってしまいました。進路もこのまま果たして
このまま進んでいいものか?直接その迷いを先生にぶつけてしまいました。その時の武澤先生の一言が
「迷いを数字で表現してみなさい!」でした。その時の自分の答えが忘れることができません。「51対49」でした。
すかさず先生は「それなら、51の方を選ぶべきです!」しかしその後、最終的に選んだのは49の就職の方でした。
「それなら初めから相談に行く必要がなかったのではないか」という矛盾でした。その後就職をしたのですが、
その後そこを辞め大学に編入しなおし、再び就職後事業を起こしました。そして現在に至っています。
そのプロセスの中でいつも先生の影が、自分を追い立てていたようです。また「51対49」が
私の人生観の一つになりました。何事も「51対49」と考えると、迷いも冷静に対処できるのです。
好き嫌い「51対49」差し引き2。正しい、間違い「51対49」差し引き2・・・・。

1989年の夏、先生が新潟大学で第19回の労務学会全国大会で議長をされました。
その時、私のホテル(シングルイン新潟)に泊まっていただきました。
そして「卒業後の30年のつもる話」を、させていただいた事を忘れる事ができません。
そして新潟の夜をハシゴをして飲み歩いた事も。ところで武澤先生と最後にお会いしたのは、1993年の
「はげみの会」でした。二次会で先生が異様に元気がないのが、気になっていました。そして、
その会の帰りがけにエレベーターの前