自由と責任

http://d.hatena.ne.jp/VanDykeParks/20050723/1122141519
上で「会話から降りる自由」なんておっしゃってるわけですが、なんでもかんでも「自由」じゃないでしょう。「言ったこと(やったこと)に対して責任をとる/とらせる」って考え方は無いのでしょうか? とくに例としてあげている二つのblogはくまがい桂子夕張市議、奥田けんじ東京都中野区議という公職にある人です。自分の言葉に責任を持たなければならない人たち甘やかしてどうするというのでしょうか? 石原都知事はこの前フランス語に対して非常に侮蔑的な発言をしました。裁判を起こした方もいるようですが、僕はそれでいいと思います。勝敗がどうつくかはわかりませんが、言ったことに対して責任をとらせようとする姿勢――どうしてそういうことをいったのか、そういうことをいうのが正しいと思っているのか説明させることなども含む――を僕は支持します。まあ、石原都知事を例に出すと、かたや気の触れた差別的発言、かたや人権や正義から発した言葉なわけで、全然対比できないものもってくんなと言われそうですけれどもね。もっとも、くまがい桂子、奥田けんじ両氏の言葉もピントのはずれた正義をはらんだ十分に気の触れた発言で、思うところを、そしてどうしてそんなふうに思うのかをきっちりと説明してくれませんかねと、そんな風に思ってしまいます。石原都知事と同列に並べるのは、当然と考えています。
ただ、僕は正義とかその手の言葉に狂う人は大嫌いなんで、われに正義ありみたいな感じで、あまりに無茶に相手を責める人は左右中道の別なくなんだかなと思います。同時に「会話から降りる自由」なんていうのもなんだかなとも思いますけれどもね。まあ、僕はへたれなんで、全方位から突っ込み可能なファナティックなもの書いちまって、他人からびしびしと責められたときに、「会話から降りる自由」なんてものをお気軽に使っていいというなら、スッゴク気分が楽です。「会話から降りる自由」という言葉自体にはなんとも心惹かれるものがあります。自分としては使ったら終わりだろうなとは思いますけれどもね……。


朝鮮学校云々に関しては、事実をゆがめて民族対立あおる教育やっているところに、なんで僕らが納めた税金が使われているんだと実に嫌な感情が心の中に広がります。民族対立をあおるようなものじゃなく、母国語や自分らの文化風習歴史をくだらん神話を交えずに教えているだけなら、朝鮮学校に少々お金がいったところで気持ちがざわめいたりしないんですけれどもね。そういうわけで、奥田けんじ東京都中野区議のblogのコメント欄の人たちなんかは、正義とかそんなうさんくさいものじゃなく、理不尽な要求を突きつけてくる、気にくわない人たちへの嫌悪感を素直に表に出していて、他人の要求を、理不尽だろうがなんだろうがお構いなしに、一から十まで飲むことが共生だと勘違いしている人たちのような不健康さがなくて、共感の念がわいてきます。




(追記、2005年07月26日)
奥田区議のコメント欄、まともな意見もあるのにそれにこたえないでもいい、「降りる自由」を行使していいって、公職の人甘やかしてどうすんのという思いから書いたわけですが、そういうところをはっきりと書かず、また安易に責任という言葉を持ち出し、奥田区議のコメント欄の人たちを個別に見て、こういう人たちのには答えるべき、こういう人たちは無視してもいいでしょとか、責任に対して適用範囲とか考えずに書いてしまったために、責任という言葉できっつい突っ込みを入れられて、あちゃーってところです。加えて、トラックバック先がすべて仮定仮定のお話(つまりはネタ)だったとは思いませんでしたから、罵倒と皮肉の差がどこにあるんだとは思いつつも、誤読は誤読、誤読にてネタにマジレスってやつで、さらにやっちまったって気分です。責任という言葉を安易に扱うと痛い目を見る一例となってしまいました。


今回のことで、少々のやりとりでも無限責任はたまらんものがあることが嫌ってほど骨身にしみましたから、今後は、
「自分の生活を圧迫しない範囲で、できるだけコメントは返します。ただ、単なる報告やら、宣伝、ネタ、煽り、罵り、一人語りなどなどは読むだけとさせていただきます。あまりにコメントが多くなって(今はそんな状況になるとは考えられませんが、一応)対応しきれなくなった場合は、別記事を書いて対応するなどします。削除はできるだけしませんが、個人情報が書かれていたり、単なる宣伝などは事前にも事後にも何も言わずに削除します。また、ある日の記事とまったく違うコメントも場合によっては削除するかも知れません。話が脱線するのはよくあることですから、いきなり削除するようなことはしません。話がそれすぎているかなと思ったら、先に何か声をかけさせていただきます。よほどのことが無いと言わないとはおもいますが、一応そういうこともあるということで、よろしくお願いします。そして、この方針は基本的なもので、自分の想定外の状況においては、この限りではありません。最後に、本方針はいろいろと気づいたときなどに随時更新します。」
という方針をとります。以降、コメント欄では上記方針でコメントを返します。
25日の日記のコメント欄でのVanDykeParksさんとのやりとりに関しては、間抜けな記事を書いた手前、上の方針をきっちり適用することはせずに、ぼちぼち自分のペースでやりとりさせていただきます。ネタに対してどれだけの受け答えをすればいいのかちょっとわかりませんけれども、まあ、ぼちぼち。

被害者ビジネス

Sankei Web 産経朝刊 沖縄守備隊長遺族、大江氏・岩波を提訴へ 「自決強制」記述誤り、名誉棄損(07/24 05:00)

 疑問を抱いた作家の曽野綾子さんは渡嘉敷島の集団自決を取材し『ある神話の風景』(昭和四十八年、文芸春秋)を出版。座間味島の集団自決についても、生存者の女性が「軍命令による自決なら遺族が遺族年金を受け取れると島の長老に説得され、偽証をした」と話したことを娘の宮城晴美さんが『母の遺したもの』(平成十三年、高文研)で明らかにした。

産経新聞さん……「ある神話の風景」じゃなくて「ある神話の背景」では?
それはともかくとして、人間、被害者だからといって清廉潔白なわけはありません。誰しも自分の都合のために動く一匹の動物です。苦労してきたからといって人格者になれるわけでもなく、逆に苦労しすぎりゃ人間歪む、痛みを知っていたとて、いえ、だからこそ、他人に同じ事をする。そんなのそこらじゅうで目にすることです。ちっと周りを見回せば、いくらでもサンプルはある*1。上のようなことがあってもなんちゃおかしくありません。あとはまあ、「ある神話の風景」や「母の遺したもの」って本がどこまで信じられるかという話になるわけですが、どちらも未読です。「ある神話の風景」は読みたいと思っているんですが絶版なんですよね……。また、「ある神話の背景」をめぐる論争を収録している、上の記事でも名前が出ている「鉄の暴風」と同じ太田良博さんによる「戦争への反省」なんて本もあるとか*2。この辺まで今は手が出せませんが、いずれ読んでみたいところです。


あと、上の記事と直接関係あるわけじゃありませんが、「Meine Sache 〜マイネ・ザッヘ〜: 暴かれる犠牲者ビジネス」を紹介します。ナチスに収容所にたたき込まれたと偽証していたエンリック・マルコ氏の姿にいろいろと考えてしまいます。
この手の話では、積ん読状態になっているユダヤ人によるユダヤ人告発書「ホロコースト産業」なんかもはずせないかも(→ http://d.hatena.ne.jp/hoshimin/20050220#1108870068)。

母の遺したもの―沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言

母の遺したもの―沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言

太田良博著作集 (3)

太田良博著作集 (3)

(現時点では、Amazon.co.jpでは見つかりません。bk1も併記しておきます。http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0011011472

*1:もちろん、苦労して人間練れている人、痛みを知っているから人には同じ事をしない人も周りにいます。ただ、どっちの割合が多いかってのは……僕にはわかりません。わかりませんが、暢気に苦労した人は輝いているといったことは言えませんね。

*2:マイナーな出版社から出ているためか、最近出たからなのかはわかりませんが、Amazon.co.jpでは表示されません。