鬱との付き合い(3)

一歩ずつ踏み出す
病気になって1ヶ月を過ぎたころには、図書館に行ったり、プールで泳いだりするくらいまで良くなってきた。しかし、やりたいからやっているというより、世の中から置いていかれる焦りに対する抵抗といった感じだ。妻も安心するし、頭も体もリフレッシュするため、日課にしていた。
だいぶ回復してきたため、体を壊す前に予約していたセミナーに行く事にした。それは高度ポリテクセンターで実施しているオブジェクト指向セミナーである。
久しぶりの遠出なので、行くだけでもかなりの疲労感を感じる。元気だったころは、必ず講師とディスカッションするほど熱心だったが、今回は控えめに行こうと考えていた。


セミナー
私が今まで携わってきたプロジェクトは、C言語であった。そのためか、オブジェクト指向にはかなりのアレルギーがある。このセミナーを選んだ理由は、オブジェクト指向を習得するというよりも、この技術を見極めて、今後も必要ないと見切りをつけたいという気持ちの方が強かった。
セミナーの講師は古川正寿先生。独習オブジェクト指向開発の著者である。彼は今までで最も熱心な先生であった。そのため、私もヒートアップしてしまい、自分が病気であることを忘れていた。
セミナーの最終日に、先生は一冊の本を私に渡した。「最速で開発し最短で納めるプロジェクト・マネジメント―TOCの管理手法“クリティカル・チェーン”」という本であった。TOC(制約理論)について初耳だったが、先生はとにかく読んでみなさいという。この本に何の意味があるのか、どのような内容なのかわからない。でも、何かあるに違いないと感じていた。
肝心のオブジェクト指向に対する疑問はまだ残っていたが、先生の人間性に惹かれるものがあった。


TOCとの出会い
帰りの電車でTOCの本を読む。昔から本を読むのが苦手なのと病気が重なって、すぐにもうろうとしてくる。一応一通り読んでみたが、どうもわからないことだらけだ。この本には、会社の会計方式や生産管理の方法、組織の作業を最適化するためのエッセンスが書かれている。しかし、なぜ先生がこの本を自分に渡したのかがわからない。

鬱との付き合い(2)

戸惑い
正月は私も妻も自分の実家に帰ることにした。子供は妻の実家である。
私の両親も病気について知っていたため、かなり気を使っている。私は周囲に気を使わせることが苦痛に感じ出したため、できるだけいつもと変わらぬように頑張った。しかし、疲れるため部屋に引きこもり、できるだけ人と接する時間を減らすようにした。そんな1週間が過ぎ、自宅へ帰る。
自宅に戻ると妻が泣いていた。理由は私の実家から「いつもと変わらない。病気のことは全然心配することなく、普通に接していればいい」と言われたことが理由だった。今まで私に負担をかけないよう、独り我慢を続けてきた妻にとって、今までの苦労を踏みにじられる思いだったのだろう。
何がなんだかわからなくなってきた。どうすれば皆にとっての普通の自分になれるのか。自分の不安を全て吐き出して、皆を心配させたほうが平和になるのだろうか。本当の自分は一体どこにあるのか。今の自分が本当の自分ではなかったら、いつの自分が本物なのだろうか。それを突き止めて、その自分に近づく努力をすればよいというのだろうか。

Javaパッケージの考察

Javaのメソッドにおけるアクセス修飾子は、 同一クラス内である(private)か否か パッケージプライベートである(なし,protected)か否か サブクラスである(protected)か否かという単位でしか制限できませんよね ということは、サブシステム間でクラスを共有する場合、相手のサブシステムに公開したくないクラスは必然的に同一パッケージに入れる必要があり、管理が難しくなると思いますが、実際現場ではどのようにされているのでしょうか。 また、私はサブパッケージであるか否かという、アクセス制御があれば、問題が解決できると考えますが、如何なのでしょうか。そして、他の言語にそのような概念があるものは存在するのでしょうか。
を質問させていただきました。愚問にもかかわらず、ご回答いただきまして、ありがたく思います。
カプセル化オブジェクト指向の根幹を成すため、非常に重要な機能ですよね。でも、身の回りのプロジェクトのソースを見る限り、クラスとメソッドのprivate、publicのアクセス制御以外はあまり有効活用されていません。上級者が考えるアクセス制御を考えたパッケージ構造はどうしてるのかな?という疑問がありました。理想はTCP/UDPのポート開放のように、「デフォルトは全部閉じていて、必要な箇所だけ空ける」だと考えているので。

次に、yuki_n様よりご意見(id:yuki_n:20060426)をいただきましたので、私なりに考察させていただきたいと思います。
ご意見を元に、ロバストネス図を起こしてみました。
※グレーになっているのは、クラスのアクセス制限が、パッケージプライベート(アクセス修飾子無し)のクラスです

クラスのカプセル化について、ご意見をいただいたと認識しています。
おっしゃるとおり、コントローラはカプセル化しやすいですね。
(facaceパターンですね)
一方、エンティティについては、yuki_n様のお話にある、
「制限をかけたい場合は同一パッケージにすれば良いだけ」ということを検証してみると、hoge.dataとhoge.controlerを同一にするだけでは無理で、view.hogeも同一にしなくてはならないと考えています。
このように、レイヤや機能を跨ぐエンティティはpublicにせざるを得ないと考えています。
まだまだ未熟者ですので、どなた様でもご指摘いただければありがたく思います。よろしくお願いいたします。

鬱との付き合い(1)

うつ病の生活
うつ病と診断されてから一週間は寝たきりで過ごした。
全く外に出る気力が起きないし、特にやりたいこともない。テレビやネットを見ながら過ごす。家内は医者からの指示で、私には一切プレッシャーをかけないように言われていたため、不安や不満を漏らしたりしない。子供達は今まで毎日忙しかった私が、毎日家に居続けるので、不思議に感じながらも、遊んでほしいと飛びついてくる。
この生活も非常に疲れる。確かに何不自由無い生活なのだが、私は何でも許される人になってしまったようで、何をしてもしなくても刺激や感動や幸せを味わう事ができない虚無感に襲われた。
そして、医者からは無理をするのがよくないから、「やりたいこと」以外してはいけないといわれている。
ここ7、8年、ずっと仕事に熱中していたため、家にこもりきりでやりたいことなど見つかるわけもない。
毎日寝て、食べて、抗うつ剤が無ければどうなってしまうかわからない存在。
ここに存在する意味すら感じられなくなってきた。


不安定
一週間後からは、ある程度活動をするようになってきた。子供を幼稚園に送り届け、その足で公園を散歩しながら、過去を振り返っていた。
なぜ、俺は病気になったのか、なぜ俺はプロジェクトをあんな状態にしてしまったのか。なぜ、俺はあんなに自信があったのか・・・
過去の成功を思い出す度に寂しさと今の自分に対する腹立たしさがこみ上げてくる。そして、もっと頑張れるやり方があったのではないかと考えた。頭の中で時間を巻き戻し、自分が異なる振る舞いをしていたら、どうなっていたか考えてみる。しかし、どれも良い結果にならない。うつ病だから仕方が無いのか、私が弱い人間になってしまったからなのか。考えれば考えるほど混乱してくる。
そもそも、成功してきたのは、自分の何に役立っているというのか。今は何も残っていない。そう思い始めた時、今の自分も今までの自分も意味が無いように感じるようになった。
そして、家内に問い詰めた。
「俺と一緒にいても苦しいだけだろう。」
家内は「そんなことないよ」と言っていたが、彼女の涙が現実を物語っていた。

私が鬱になった経緯(5)

報告
病院から出ると、不安な気持ちでいっぱいだ。自分だけこの世から取り残された気がしてくる。街では皆忙しそうにしているが、自分は半ば仮病のような気分でうつ病と診断され、やるべきことから逃げた。
もしかしたら、会社では経営者の会議で私をやめさせる方法を決定していて、病気になったらクビにしようと目論んでいるのではないか。そうなって仕方ないんだと必死に自分の心に言い聞かせて、上司に報告の電話をかける。
「医者に行った結果、うつ病と診断されました。3ヶ月休むように言われ、診断書を渡されました。」
「わかりました。診断書を持ってくることはできますか?」
「はい。現場ではなく、自社の会議室であれば行くことができます」
こう答えたのは、もうすでに現場に顔を出す気力は無かったからだ。現場を見ることが恐怖であった。自分の全てを破壊する存在に感じたからだ。
会社に着いたのは夕方。人の目を逃れるように会議室へ入る。診断書を手渡し状況を話す。上司は私の事を心配してくれるのみであった。解雇や仕事の心配は一切しなくてよいとのことだった。



夕食をとり、初めて薬を飲む。飲んでもすぐには眠くならないし、気分が良くなるわけでもない。不安からなかなか逃げる事ができない。布団に入ってもいつもどおり寝付く事ができない。寝付いたのは4時間ほどすぎたころだろうか。
翌日は薬が効いているせいか、あまり深く自分を追い詰めることがなかった。しかし、体に異変があった。それは小便をする際、妙な違和感があるのだ。こんな体験は初めてだったため、直感的に薬が原因だと感じた。
後で調べてわかったことだが、抗うつ剤には尿閉などの副作用があり、インポテンツにもなることがある。

私が鬱になった経緯(4)

仕事の駆け込み寺
それは私の30歳の誕生日だった。心療内科という未知の存在に休息を求めて入っていった。自分は精神が異常ではなく、逃げに来たという意識しかなかった。そして、医者が助けてくれなかったらどうしようかと不安に駆られていた。
中に入ると患者で溢れかえっていた。見た目で異常がわかる人もいたし、全く異常が感じられない人もいた。私は自分は正常で彼らとは別だと考えていた。私は病気ではない。逃げに来たんだと。そして、病気のふりをしなければならないんだと。
待合室で待つこと2時間。脳裏には仕事ばかりが気になっている。私がいなくなったプロジェクトは混沌となり、皆に迷惑をかけないかとか、逆に順調になるのではないかとか。ここのところ、まともに考える時間すらなかったため、病院の待合室で人間らしい思考を取り戻しつつあった。



一週間休暇獲得の交渉
待合室であれこれ考えていると、休みを一週間作るために、医者にどう話せばよいのかを考えたりもした。万が一俺のことを精神異常だと誤診されたら、とんでもないことになると。それだけは受け入れられない。
4時間ほど待って、やっと自分の名前が呼ばれた。中に入ると普通の応接室のような部屋に先生らしき白衣の男性がいた。彼の質問に淡々と答える。仕事であったこと。夜寝付けないこと。うなされること。出社するのが怖いこと。フラフラになっていること。食欲がないこと・・・
そして、ひとつだけ本音を言えないことがあった。それは「死のうと考えましたか?」というものだった。私は死んだら楽になると考えたことが何度もあった。しかし、そんな勇気もなかったし、弱い人間だから、死からも逃げたんだと自分を責めていた。ここまで自分が落ちぶれたんだ。だから、こんな情けない心は他人に知られたくない。更に、この問いにYESと答えると精神異常だと誤診される恐れがあるではないか。
一通り説明すると、先生からうつ病の話をされた。このとき、私はうつ病ではないのに、先生はうつ病だと勘違いしていると考えていた。うつ病と診断された場合、一週間休ませてもらえるのだろうかと考えていた。一週間の休みが必要との旨の診断書さえ書いてくれればそれでいいのだと。
話を一通り聞き、私は「仕事の状況を考えると、休めないのですが、せめて1週間だけでも休めるように診断書を書いていただけませんか」と話した。すると、医者から「1週間では絶対によくなりません。最低3ヶ月休んでください」と言われた。愕然とした。3ヶ月といえば、今のプロジェクトはカットオーバーを迎えているではないか。私の頭に入っている仕様などを正確に伝えなければ、メンバーが困るではないか。そんなこと許されるわけがない。
医者は「あなたはうつ病です。うつ病は恥ずかしいものではありません。今から正しく治療すれば治ります。休まないと治りません」と話した。
私はもうどうでもよくなってきた。プロジェクトが成功して自分の存在意義が無いと思われようと、プロジェクトが失敗して自分の責任にされようと、どうでもいい。会社をクビにされても仕方が無い。もうどうでもよい。
更に医者は薬を飲むように言った。冗談じゃない。私の正常な脳に薬で内部から強制的に変化を与える薬を飲めるものかと思った。それこそ自分でなくなるではないか。そんな不安があったため、医者に薬に対する不安を話した。
「副作用はありません。性格が変わったりすることもありません。あなたの気持ちを楽にする薬ですから」と医者。私はしぶしぶ服用することにした。でも、おかしな事になったら、飲むのをやめてやる!と考えていた。
処方されたのは抗うつ剤精神安定剤睡眠導入剤であった。

私が鬱になった経緯(3)

私は自分を消すか会社を辞めるかを迷っていた。自分を消す事が手っ取り早い。しかし、家族の存在があったため、自分を消すことを思いとどめることができた。私がいなくなったら、妻、子供がどうなるか。そこにはまだ自分の存在意義が残っていた。
そして、基本設計のレビューの最終日を迎えた。この日に責任を取って辞職しようと考えていた。レビュー終了後に上司と会う約束をした。レビューが終わったのは翌日午前4時。タクシーで上司のいる職場へ行く。
このような状況になったのは、私に責任があると考えていたため、非常に気が重かった。もっとがんばれと言われるかもしれないと。
到着したのは5時すぎ。自分の最後の力を振り絞って「このような状況になったのは、全て自分の責任です。辞めて責任を取った事にできるのであれば、辞めさせてください」と伝えた。
上司の反応は意外なものであった。口から出たのは、「頑張れ」でも「責任を取れ」でもなかった。病院に行きなさいだった。私は自分が正常だと感じていたため、この指示は自分を逃がしてくれる優しさだと感じ、病院へ行くことにした。一週間くらい休ませてもらえるかもしれないと考えたからだ。