木更津キャッツアイ ワールドシリーズ

一人だったら別の映画を見るつもりだったけど、急きょ連れができたので、キャッツ見にいく。久々だ。「日本シリーズ」が個人的にいまひとつだったので、今回映画館に行くかは微妙だなーと思ってたんですけど―――行って良かったです。
かなり笑った。テレビシリーズひっくるめて同窓会みたいな雰囲気もありつつ、キャラクターがみんなブランクの時間を経て成長(?)してるのもよかった。今回はバンビの視点からはじまるのですが、今から思えばバンビの普通さっていうのは、竹本君と重なるような気もして、今さらながらどちらもはまり役だったんだなと思う。いい顔してた。生き返るって? と思ってたとこも、なんかうまい具合に無理矢理なのが「らしさ」だったり、泣かせるぞーって「ため」もあんまりなく、笑えるって方に力が注がれてるのもよかった。こういうお別れの仕方ができるっていうのは、やっぱりその間に流れた時間によるところもあるのだ、と思う。
某映画が軸ネタになってるとこは最初から笑えたのだけど、野球の場面では、ネタとしてではないけど、高橋ツトム「鉄腕ガール」を思い出したりした。
野球とかやったことないけど、やりたくなりました。ほんとに。
しかしなんといってもすばらしいのはやはり薬師丸ひろ子さんだ、と思う。あの普通じゃなさと慈愛にあふれる表情の紙一重で見ていて落ち着く感じ、あの人じゃなきゃできないよなと思う。

 おとぎ話が足りない

「一切のおとぎ話をひきはがした」後に残る、絶対的絶望を直視する、という、一見、潔い行動は、実は、「自己意識宇宙の絶対的な終焉である死」という「おとぎ話」を見つめていただけなのではないのか?
死の恐怖は、死が永遠の絶対的虚無であることからやってくる。
しかし、そもそも、「永遠」など「存在」するのだろうか?
われわれは、「永遠」という名の「おとぎ話」に踊らされてはいないか?
http://d.hatena.ne.jp/./fromdusktildawn/20061101/1162352701

一切のおとぎ話をひきはがした後に、絶望や無気力が残る(回路が作動する)、というのは、なるほど、と思った。
しかし、死の恐怖、というのは「永遠の絶対的虚無」であることにあるのだろうか? 私は、死んだ後も、自己意識宇宙というものが「永遠に続く」としたら、そのほうがずっと恐ろしいことのように思う。
終わりがないということは恐ろしい。
でもそれが恐ろしいのなら、最初から無であることを知って/薄々感じ取っているのなら、なんで一切をすぐに終わらせないのか、と聞き返されるかもしれない。そこを、考えてみるべきなのかもしれない、と思う。
私が恐いのは、自分と関わる他人の「絶対的な終焉」の方だ。だからだ、と答えるのはごう慢にすぎるかもしれない。しかし、その「自分」というおとぎ話こそが、この私に力を与えてくれるのではないだろうか。
「神は死んだ」という言葉によってもたらされたものが、キリスト教における天国という永遠が虚構であったという「おとぎ話のひきはがし」だったとして、しかしその後に訪れたのは絶望だったのだろうか。むしろ誘惑だったのではないか、と思う。

神は死んだ。神は死んだままだ。そして我々が神を殺したのだ。世界がこれまで持った、最も神聖な、最も強力な存在、それが我々のナイフによって血を流したのだ。この所業は、我々には偉大過ぎはしないか?こんなことが出来るためには、我々自身が神々にならなければならないのではないか?

宗教や国家などの大きなおとぎ話は、時として抑圧にもなるけれど、多くの場合は小さなおとぎ話への執着が、死という「終わり」へ対する恐怖を生み、またおとぎ話を手に入れられないという葛藤が、もともと下地にあった絶望とか無気力の回路を開き、底が抜けるのではないか、もしくはガソリン切れの状態を引き起こすのではないか、と思う。
自分という存在は限りなくゼロに近かったとしても、この自分という世界の中ではもっとも大きなおとぎ話だ、と私は思うけれど、それもただの燃費の良いおとぎ話に過ぎないのかもしれない。
楽観的なんだか、悲観的なんだか。

生きているのはひまつぶし 深沢七郎未発表作品集

生きているのはひまつぶし 深沢七郎未発表作品集

これを読みながらそんなこと考えた。内容が関連してるわけではないんだけど。

 11月になっていた

待ちに待った三連休、で、朝からにやにやしていた。打ち合わせ行った帰りに古本屋寄り道してこの前買ったハヤカワSF数冊が全部あるのを発見して残念というよりむしろうれしくなって会社かえって仕事してまた打ち合わせして目処ついた帰り際にもやはりにやにやしていた。
昼休みの喫茶店では隣の席のサラリーマンがやけに白っぽい漫画読んでて、それはつまりハンターで、めちゃめちゃ熱心に読んでるので、やっぱ続き買おうかなと思ったりして、帰り道、うまい具合に待ち合わせできて映画みて、ほくほくしている自分がいる。
終わったことがあって、続いていることがある。
木々の色がかわりはじめ、隣の席の人のコート姿をはじめてみて、六時はもう夜で、カレンダーは残り二枚だ。しかし今日からの連休は、まるで永遠みたいにまっさらで残っている。なんてすばらしいんだ。