古本ときどき音楽

2018-07-13

[]:遊びの詩となぞなぞの本二冊

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谷川俊太郎編『遊びの詩』(筑摩書房 1982年)

福音館書店編集部編『なぞなぞの本』(福音館書店 1997年)

                                   

 読んだ順番です。『遊びの詩』の解説で、谷川俊太郎が「なぞとかことわざはことばのはたらきとして、詩と兄弟みたいなもの」(p140)と書いているように、なぞなぞも遊びの詩の一種と考えられるということで並べてみました。前者は「詩のおくりもの」という全7巻のシリーズの一冊。後者は「日曜日文庫」のなかの一冊。


 『遊びの詩』は、数え歌や手毬唄からことば遊びの詩まで各種を集めたもので、編者の谷川俊太郎がそれぞれの詩について簡潔に的を射た解説をしています。その冒頭で、遊びの詩を大きく4つに分類しています。一つは、遊びを主題にした詩、遊びについての詩。二つ目は、広い意味でのわらべうた、詩を声に出しながら遊ぶ詩。三番目は、詩自体がことばで遊んでいる、いわゆることば遊びの詩。なぞなぞはこの範疇に入ると思われます。四番目がナンセンス詩。私はやはりナンセンス詩にとても惹かれます。

 面白かったのは、一部引用しますと、「このがかはかのかおをかくがかか がのかおをかくがかかきがかりだ」「しかもかもしかもしかだが しかしあしかはたしかしかではない」(p43)の「舌もじり」(郡山半次郎)、「はひふへほ ラッパに むちゅうで/ぱぴぷぺぽ ぱぴぷぺぽ//ぱぴぷぺぽ ぶしょうひげ はやし/ばびぶべぼ ばびぶべぼ//ばびぶべぼ はだかに されて/はひふへほ はひふへほ」(p60)の「はひふへほは」(まど・みちお)。また、全体を読まないと魅力が分からないので引用しませんが、巧妙なことば遊びを仕組みかつ美しいイメージの「キラキラヒカル」(入沢康夫)、とぼけた感じが意味不明の世界を作る「ふと」(藤富保男)、ジャズの即興を思わせる言葉の機関銃のような凄みの中に聞き慣れた擬音語が混じって面白い「バブリング創世記」(筒井康隆)がなかなかのものでした。

 「ごびらっふの独白」(草野心平)がタモリハナモゲラ語の元祖と紹介されていました。私も高校の頃に、まったく知らずにハナモゲラ詩を作ったことがありますが(1967年頃?)、草野心平が初めだったんですね(1948年作)。世界を見れば、ダダ運動の一種イジドール・イズーの「レトリスム」が最初かも知れません(1947年)。

 この本ではハナモゲラの例が他にも「バブリング創世記」(筒井康隆)、「口辺筋肉感覚による抒情的作品抄」(鈴木志郎康)に見られました。中村誠一の『サックス吹き男爵の冒険』にもハナモゲラ小説があったと記憶しています。本はもう所持してませんが、昔(1982年)の読書ノートを見てみると、「哲人28号」のなかの「さべらボッチは、フラバケまかせぬな」という言葉を引用しています。谷川俊太郎が解説で、ハナモゲラ語について「意味が見え隠れしているところがまたおもしろさになっている」と指摘しているのはさすがです。


 『なぞなぞの本』は、世界中と日本から集めた500以上ものなぞなぞに加え、なぞがテーマになっているイギリスのバラッドとフランスの昔話を加えたものです。なかでは、音、影、光、ことばなど抽象的なものに関するなぞなぞが面白く感じられました。例をあげると、「水の上をとおりすぎても/影がうつらない」(p15)→「鐘の音」、「日なたぼっこしてても/日にあたれない人 だあれ」(p43)→「影」、「いりようなときにははきだして/いらないときのみこむもの」(p35)→「ことば」。また、なぞなぞによく見られる特徴で、魅力となっているのは、矛盾した表現です(「自分のものなのに/他人がいちばんつかうもの」p47→「名前」)。さらにそれが対になっているものもあります(「死んだままにしておけば長生きするのに/生かしておくとすぐに死んでしまう」p25→「ろうそく」)。

 なぜその答えなのか分からないものもたくさんありました。風俗習慣が過去のものになっていて分からないものも。解説か註釈が必要ではと思います。なぞなぞが難しい訳は、答えが先にあって、そこから問いを考えているからでしょう。答えからはすぐ類推できますが、その逆はスムースには辿れないものです。これは推理小説の作り方に似たようなことがあるような気がします。

 この本の作りの感想としては、子ども向きにしては不親切。その理由は、上記のように大人でも分からないものがあることと量が多すぎること。また、イギリスのバラッドは余計です。


 面白かったなぞなぞは、ほかに下記のとおり。→の先の回答を見ずに挑戦してみてください。

みんながこわがっているのに/まいにちすこしずつ/近づいてくるもの(フィンランド)

→死/p19

うまれたけれども/うまれてない/うまれてないけれども/やっぱりうまれているもの(フィリッピン)

→たまご/p23

名前をいっただけでも/こわれてしまうもの(イギリス)

→沈黙/p32

赤い帽子をかぶると/だんだん背がひくくなるもの(新潟)

→ろうそく/p39

つくった人はだまってる/もってる人は知りやせぬ/知ってる人はほしがらぬ(ドイツ)

→にせ金/p47

つくった人はつかわない/もってく人はとっとかない/買った人には用がない/もらった人はごぞんじない(ドイツ)

→棺おけ/p47

キリストさまはもってない/ナポレオンはもっている/女はだれももってない(イギリス)

→妻/p48

ランプを明るくさせるのは/なんでしょう(フィリッピン)

→暗闇/p57

柱時計が十三なった/いまはいったいなんのとき(フランス)

→修繕のとき/p87

小さくなればなるほど/こわくなるもの(イギリス)

→橋/p90

三本足の上の二本足/一本の足が二本足をけっとばし/三本足がころがった/二本足は三本足で/四本足をぶったたく(イギリス)

→三本足のこしかけにすわって乳しぼりをしている男を、牛がけっとばし、男がこしかけで牛をぶつ/p115

大きな劇場/二階にまどふたつ/階下(した)にまどふたつ/大きなドアをあけると/赤い舞台の上に/白い登場人物がせいぞろい(イギリス)

→顔/p162

2018-07-08

[]:吉田正俊『西と東の狂言綺語』

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吉田正俊『西と東の狂言綺語』(大修館書店 1979年)


 この本も大事に寝かせていたもの。マニエリスムに関する本を取りあげたついでに、「マニエリスムと言語」という60ページほどの章があるこの本を読んでみました。著者は英文学者ですが、同姓同名の歌人がいて、私もしばらく混同していました。ところがこの本を読んでみると、和歌への造詣が深く、同一人物だとしてもおかしくないと思えるぐらい。

 「マニエリスムと言語」については、ホッケのマニエリスム論がベースになっていると思われますが、ベルナルド・ロッセルリーノの墓碑彫刻や金銀細工師チェルリーニのふしぎな葉模様についての言及があり、また専門の英文学の領域でもマニエリストとしてのシェイクスピアを論じるなど、独自の視点が加わっています。

 がこの本の魅力はなんと言っても日本の和歌をマニエリスムの文脈から位置付けて捉えていることです。日本の和歌の伝統のうち、とくに連歌俳諧には西欧のマニエリスムと同様のことば遊びが見られるとし、問答という制約のなかで作者の情緒にかかわりなく歌を作る姿勢は、ロマン的真情をストレートに吐露したり、写実や写生に至上の価値を置いたりする動きとは対蹠点にあると称揚しています。そして、この連歌俳諧の精神が、将来、日本の詩壇歌壇・俳壇に返り咲くのではと期待を寄せています。

 印象深かった論点は、この当時英文法の世界で新しく出てきたという「新情報は旧情報より後に置く」という統語論を紹介している部分。旧情報で状況を示しておいて、文末で新情報を提示するという文章の姿が、抑揚の点でも文の最後の部分に最強のストレスが置かれることで証明されるとし、詩歌においてもこの原則が重要だと指摘しています。著者はそれを「サスペンスの美学」と名付けています。


 他にも、いくつか興味深い指摘がありました。

\床い僚ぜ学と、日本の平安時代の歌論を比較し、同じような制約が見られるとしている。西欧では同語の重複を避けるのにとどまっているのに対し、日本では異語同義の場合も退けていて、日本の方が厳しいとも。

美的価値は作品に内在し、時代の趣味に応じて変化するものではない」という新批評の主張を取りあげ、比喩の多くは時代とともに陳腐化するもので、時代の影響を受けざるを得ないと反論している。

1鷆疔,痢崙視画法」は単なる画法でなく、その根底は世界観、形而上学に連なるもので、宇宙(マクロコスモス)における人間(ミクロコスモス)の位置を決定する手段であり、人間の運命さえ統御できるという思想を含んでいる。


 不勉強な故に、新しく知り得た情報としては、「燃ゆる思ひ」という比喩は「燃ゆるおも火」という掛詞からきていること、漢詩人李商隠が象徴主義的な詩を書いていること、塚本邦雄の『緑色研究』は、毒殺者トマス・グリフィス・ウェインライトについて書いたワイルドの評伝『ペンと鉛筆と毒―緑色の研究』から来ていると思われること、我が家の近くを流れる竜田川が出てくる「ちはやぶる神代もきかずたつた川・・・」が屏風を見て詠んだ屏風歌だったことなど。

2018-07-03

[]:YVES RÉGNIER『Les Ombres』(イヴ・レニエ『影』)

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YVES RÉGNIER『Les Ombres』(Bernard Grasset 1963年)


 昨年オークションで落札したディスプレイ用11冊一括2000円のうちの一冊。Baronianの『Panorama de la littérature fantastique de langue française(フランス幻想文学展望)』の「詩的幻想作家」の章で、シュペルヴィエルやアンドレ・ドーテルらに並んで、ほとんど名前だけ紹介されていた作家。この作品も名前だけあがっていました。

 『Les Ombres(影)』というタイトルに惹かれて、幽霊でも出てくるかと期待して読んでみましたが、幻想味も薄く、ひとことで言えばがっかりしたというのが正直なところです。文章が難しかったのも一因で、一文が長くて、会話体以外の所では、ページ半ばに及ぶこともざら。詩的な表現がところどころあったのが救いです。細部はよく分からぬまま読み進みましたが、内容は親子三代の人間模様を語るいたって平凡な話。

 アルカトラズという港町を舞台に、父母と祖父母たちの関係や町の風景を孫の僕(と言っても16才)の眼で語っています。面白いと言えば、この主人公が「光のなかにも何か暗い影を見てしまう」(p13)思春期まっただ中で、「どうでもいいや」が口癖のいつも無関心を装っている性格という人物造型で、この小説を味のあるものにしています。


 細かいエピソードは省略して、あらすじだけを簡単に紹介しますと、

アルカトラズという港町で漁師をしている父アンリと母イヴォンヌ、息子の僕フィリップ。一家は毎週のように母方の祖父母レンヌ家や父方の祖父母ブレイユ家に食事に行っていた。元遠洋航海の船長だったブレイユ爺さんは息子たちを連れて海外へ行く計画を毎日練っている。僕は父と伯父が漁をしている舟に乗って寝そべったり泳いだりして遊ぶ日々を送っていたが、ある日父は帰るとも分からぬ旅に出てしまった。伯父も舟と一緒に姿を消す。僕は出発する前夜荷造りをめぐって言い争う父母の会話を盗み聞いていた。

母とともにレンヌ家に住むことになるが、そこには管理人マチルドと娘のルイーズが1階の小部屋で暮らしていた。母は父さん子であり、また義父のブレイユ爺さんの教養も尊敬していた。交際家で山の手の町の人気者だった母親もしばらくして黙ってレンヌ家から出て行った。が爺さん婆さんらは何事もなかったように振舞う。僕は祖父母の一人ずつに母の失踪について問いただす。

やがてマチルドも家出をし、残されたルイーズはレンヌ家の食卓に座るようになり、僕は何とか彼女の気を引こうとする。そんななか二人の爺さんも前々からの計画通り海外へ旅立ってしまう。旅立ちの前夜、僕が庭でその計画を盗み聞いていると誰かの手が触れた。ルイーズだった。僕が彼女を抱きしめると、彼女は自分の部屋へ来てと誘った。こうして、次から次へと登場人物が舞台から姿を消していき、残された僕とルイーズがクローズアップされ、新たな生活への予兆を感じさせながら物語が終わります。


 この作品が出版された年はヌーヴォー・ロマンの全盛期で、若干その影響が感じられました。ひとつの場面、状況が何度も執拗に描かれるのがその特徴です。犠呂蓮父と伯父が漁をしている舟に僕が乗ったある一日の情景に終始し、蕎楼聞澆蓮∨佑マチルドの部屋へ行くまでレンヌの館の薔薇の壁紙のある廊下を通って行くという状況が基調音となってたえず反復され、最後の江呂任蓮⊆膺邑が朝母の部屋へ行って母親の家出を知るという情景が、手を変え品を変えしつこく語られるという具合に。細かなエピソードがその間に語られ、全体の物語が姿を見せるという仕掛けになっています。

2018-06-28

[]:G・R・ホッケ『迷宮としての世界』

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グスタフ・ルネ・ホッケ種村季弘/矢川澄子訳『迷宮としての世界―マニエリスム美術』(美術出版社 1968年)


 『文学におけるマニエリスム』を読んでいて読みたくなりました。この本は出版間もない頃に一度読んだはずで、巻末に読了のサインもありますが、内容はほとんど覚えておりませんでした。ただこの本に印刷されている254もの図版のいくつかをよく覚えているのは、当時、澁澤龍彦の『幻想の画廊から』とならんで、私の美術手引きのバイブルだったからです。いま読んでも、引用されている絵の素晴らしさには魅了されてしまいます。この本の魅力は第一にこの図版にあり、とくに当時の日本ではまだなじみのなかったボマルツォの庭園やデジデリオ・モンス、現代イタリアの画家たちを紹介したことは意義深いと言えます。

 私がとりわけ魅入られたのは、パルミジャニーノ「子イエスと天使たちのもとなる聖母」、フィオレンティーノ「聖家族」、ジョルジョ・キージ「ラファエロの夢」、ドッソ・ドッシ「夢」エル・グレコ「シナイ山」、ティントレット「聖マルコの遺骸の運搬」、クレリチ「ローマの眠り」、グロテスク模様の数々、トレヴィザン「スペイン階段」、アルチンボルド「擬人化された風景」、デジデリオ・モンスの一連の廃墟画、それにボマルツォの庭園とローマの天使城の写真。


 骨子は『文学におけるマニエリスム』と同じですが、絵に特化した部分として、いくつかの指摘が目に留まりました。

〜竿姪には、調和、均斉、節度、円、整合的な中心を崩していく傾向が見られること。それは、動揺、不安、見捨てられているという感情、寄るべなさが、デフォルマシオンへの意志を形づくっていったことによる。

△劼箸弔瞭団Г蓮⊆愍曲線様式。縦幅の伸長、横のプロポーションの収縮。人物の姿勢は無理にひろげられ、関節が脱臼しているようにも見える。

自足的な円に対立する楕円、抛物線、双曲線が基本形態となり、卵型が神秘なフォルムとして尊重されている。

ルネッサンスの落着いた色調のバランスを崩す、色彩の半音進行とも言うべき極微のズレや暖色と寒色の鋭い対照が見られること。

ケ鷆疔,砲茲觚験个美学。加速された遠近法を駆使して描かれた階段や柱列。遠近法による視線の圧縮。だまし絵的な手法。

Ε泪縫┘螢好爐料飾癖のひとつとしてラファエロから端を発したグロテスク模様。要素的なフォルムは解体され、植物、動物、人間のあいだで絶え間なく変身を重ね、螺旋や、蝸牛殻や、軟骨様装飾や、肢体関節からなるある混淆物が生まれる。

Я飾癖のもうひとつとして、スペイン起源の迷宮図としてのアラベスク模様。迷宮庭園としても流行。幻覚喚起的な無限を孕んでいる抽象の遊戯。色彩、面、線によって宇宙のリズムを再現しようとしている。この唐草模様、迷宮、螺旋、粒状発芽、車輪、金銀線細工、階段などの原モティーフが現代の抽象絵画にいたる道を拓く。

┐気蕕妨渋紊砲弔覆る点として、フォルムの実験が自己目的と化した先に、「自然においてはすべてのものが円および立体に還元される」というキュービズムの原型が16世紀にすでに誕生していたこと。


 絵の技法以外の指摘で面白かったのは、

1527年に、カルル五世の率いるドイツ、スペイン、イタリア軍にローマが徹底的に蹂躙されルネッサンスが終熄する。これは1914年が古きヨーロッパの死の年であったのとまったく同様である。

科学や芸術や文芸にあまり深入りし、芸術的完全性と独創性に努力しすぎると、人は邪悪になることがある。芸術は悪魔の領域に生きている。キリスト教的倫理では、謙虚さと敬虔さに欠けた高慢はあらゆる罪のうち最悪のものである。

17世紀には畸形が流行しパリの乞食教団僧院は畸形の実験の中心となっていた。意外やデカルトがそこに何度となく滞在したが、デカルトにとっては畸形が現象世界と感官知覚の詭計を発く証明法となっていたからという。

ど饌羮紊如∋海踊る巨人に、林立する塔がニンフたちに変身したり、瓜二つの登場人物が現れたり、絵画で人間の顔に化身する風景や建築物があったりなど、双面性はマニエリスム文学・芸術のひとつの特性であるが、この同一人物変身は、現代の犯罪文学では犯人暴露(二重人格)の謎とき遊びになる。

ミケランジェロが晩年に書いたという、自身を老いさらばえ病んだ老人として描写した詩の引用があったが(p107)、この詩がボードレール顔負けの凄さ!。


 全体を通して、『文学におけるマニエリスム』と同様、熱っぽい語り口による党派的宣言の書という印象で、学者では書けない奔放さを感じました。これはホッケが新聞記者だったということに起因すると思われます。この本を訳している種村季弘や協力者として名前が挙げられている澁澤龍彦も、その数々の著作において、ホッケ同様の奔放な語り口をしていますが、やはり出版社に一時籍を置いていたことと関係があるに違いありません。

 この本でひとつ物足らなかったのは、マニエリスムが姿を変え品を変えて現れて来るのに、マニエリスムの対立概念であり、もう一方のヨーロッパ的常数である古典主義がどう姿を変えてきたのかに言及があまりなかったことです。新古典主義や自然主義、ビーダーマイヤーなども入ってくるのでしょうか。

 また、最後の江呂蓮◆嵌得愛主義」「倒錯と歪曲」「ヘルマフロディトス」など、それまでの章と少しトーンが変って、人間の内面についての精神分析的実存的考察が開陳されていて、マニエリスムの本筋から少し離れたところをさまよっているような気がしました。内容があまり理解できなかったからそう思ったのかもしれません。

2018-06-23

[]:『竹友藻風詩集』ほか

 鬱陶しい時節はほそぼそとネットで購入。塵も積もればとやらで、けっこうな数になりました。

 まず、ヤフーオークションにて。今回はあまり書くことがないので、出品者のお名前もついでにご紹介します。

 antique-onitaroさんから、

『竹友藻風詩集』(新潮社、昭和2年11月、1000円)→『祈禱』『浮彫』『時の流に』『希臘詞花抄』の既刊詩集から創作詩を集成したもの。静謐と抒情に溢れた佳品が揃っている。

 前回『ブローク詩集』を購入したkeikoさんから、

畑健彦訳『トラークル詩集 原初への旅立ち』(国文社、68年2月、1300円)

 いつも格安でご提供いただいているmasatosannから、下記2冊。

岡崎義惠『日本詩歌の象徴精神 中世近世篇』(宝文館、昭和35年11月、50円)

シズリ・ハドルストン益田道三譯『續巴里の藝術家たち』(昭森社、昭和19年3月、50円)

 いつも詩関連の珍しい本を出品されているtoshikaiさんから、

丸山薫『物象詩集』(河出書房、昭和16年2月、300円)→既刊の詩集から抜粋したもの。

 これもいつも格安で良書をご提供いただいているkanroさんから、珍しい下記2冊。

塚本邦雄 レコードコンサートPart 三文オペラ』(書肆季節社、80年10月、172円)

『塚本邦雄 レコードコンサートPart シャンソン・リテレールのすべて』(書肆季節社、80年11月、173円)

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 アマゾンでは、

岡崎義惠『日本詩歌の象徴精神 古代篇』(羽田書店、昭和25年3月、1円)→これですでに所持している現代篇と合わせて、『日本詩歌の象徴精神』三部作が揃った。

原章二『人は草である―「類似」と「ずれ」をめぐる考察』(彩流社、13年3月、198円)→ローデンバック『死都ブリュージュ』について一章割いている。

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 店買いでは、麻雀会の途上いつもの堺筋本町天牛書店にて、

D・R・ホフスタッター竹内郁雄/斉藤康己/片桐恭弘訳『メタマジック・ゲーム―科学と芸術のジグソーパズル』(白揚社、90年9月、324円)→自己言及パラドックスとナンセンス詩の項目があったので。

牟田口義郎『あの夏の光のなかへ』(近代文芸社、02年8月、324円)→牟田口義郎が若き日「詩学」に寄稿していて嵯峨信之と交流しまたフランス詩を訳していたとは知らなんだ。

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