古本ときどき音楽

2018-05-24

[]:ことば遊びの本二冊

f:id:ikoma-san-jin:20180524070553j:image:w200///f:id:ikoma-san-jin:20180524070544j:image:w200

池田弥三郎編『日本語講座第二巻 ことばの遊びと芸術』(大修館書店 1976年)

桑原茂夫『不思議の部屋・1 ことば遊び百科』(筑摩書房 1982年)


 この二冊は、ともにシリーズ中の一冊ですがかなり性格が異なっています。前者はいろんな角度から日本語を考える「日本語講座」というシリーズで、本巻では、遊びの視点をはじめ、それ以外にも、口誦や流行語など、大衆的な言葉遣いについて書かれたもの。後者は、個人の著になる「不思議の部屋」というだまし絵やからくりを扱うシリーズで、言葉の遊びだけについて書かれています。


 『ことばの遊びと芸術』は、挨拶やあだ名などを取りあげた「くらしの中のことば」(池田弥三郎)、呪詞としての諺について記した「となえごとの流れ」(中尾達郎)、語りを面白くする工夫を書いた「はなしの技術」(武田明)、昔話と文学の境界を語った「口誦と文芸」(井口樹生)、和歌民謡・童唄でのパターン化した表現を考察した「類型の詞章」(仲井幸二郎)、和歌や俳句以外の五七調の表現についての「末流のうた」(西村亨)、古典的な言語遊戯を説明した「文芸史とことばの遊び」(鈴木棠三)、「新語と流行語」(槌田満文)が収められています。それぞれの分野でしっかりと分かりやすく説明されていましたが、とくに「となえごとの流れ」、「末流のうた」の二篇は主張がはっきりしていて、読みごたえがありました。


 いくつか印象に残った部分は、次のような指摘や事実です。

 屬海箸錣供廚痢屬錣供廚蓮⊃世里垢襪海函△泙燭録祐屬神に扮して行うというのが原義で、「わざはひ」は、神のしたことが人間にとって悪い状態や結果となって現れるという意味。

◆峽をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ」という『古今集』の東歌が紹介されていた。→東北大地震を思わせる歌ではないか。

俳諧歳時記の伝統には、民衆の持っている知識の集大成というだいじな要素があり、歳時記の一部には「民衆の教養」という見地から見て諺に入れるべきものもある。

て本の諺は作者が分からず、また作者が誰であるか問題にならず、その場で言い捨てにされるが、外国の諺は、書物からの引用のものが多く、作者はもとより出典までもやかましく考証される。

以上、「となえごとの流れ」

ァ崑臚擦瓩阿蝓廚陵卦困鮟戎佑了匐,蕕遊んでいるうちに、いつのまにか十一人にふえ、ひとりも知らない顔がなく、ひとりもおんなじ顔がない。その増えた一人がざしき童子であるという。

以上、「口誦と文芸」

Α嵋流のうた」の基盤の上に、その頂点としての文学としての「うた」が存立する。

Д侫薀鵐垢△燭蠅任浪まったもの言い、儀式的な言語が韻文に近付こうとする傾向があるが、日本でちょうどそれに相当するのが和歌や俳句などの「うた」の形式である。作品の冒頭とか抒情的な部分など、気分が改まって緊張する部分には七五調が現れる。

┸佑肪躇佞鬚Δ覆すことばは二句形式で強く命令的に迫るのがよく、三句形式だとどうしても抒情的で力が弱くなってしまう。

原作が、故意ではないが、民衆の常識や感覚のパターンに引き寄せられて改作される傾向がある。「世の中は三日見ぬ間に桜かな」(原作)→「世の中は三日見ぬ間の桜かな」(流布)、「梅一輪一輪ほどの暖かさ」(原作)→「梅一輪一輪づつの暖かさ」(流布)というように。

以上、「末流のうた」


 『ことば遊び百科』は、15年ほど前に一度読んだ本で、今回読み直しました。入門書的で極めてわかり易く、初めて読むにはちょうどいいですが、他の本を読んだ後では、ありふれた例が多く歯ごたえに欠けるところがありました。新味としては、ことば遊びを暗号と結び付け、数多く例証しているところでしょうか。あとがきで、ことば遊びが盛んになる理由を考えているところは出色で、それは人が、日頃支配されているとしか感じられないことばに対して、逆に自由に扱えるという喜びを感じるからだと言い、センスを磨く修業の場となり新しい発見につながると、ことば遊びの隠れた力を称揚しています。

「昨日生まれた婆さんが/八十五六の孫連れて/前へ前へとバックして/海から陸へと飛び込んだ」という矛盾語法はナンセンス詩として面白い。また、クロスワード・パズルが1913年アメリカで誕生し一世を風靡して、当時流行していたマージャンが打撃を受けた、というのは初耳。

2018-05-19

[]:日本のことば遊びについての本二冊

f:id:ikoma-san-jin:20180519064933j:image:w180///f:id:ikoma-san-jin:20180519064928j:image:w220

鈴木棠三『ことば遊び』(中公新書 1981年)

綿谷雪『言語遊戯の系譜』(青蛙房 1964年)


 両方とも古典的必読本と言えると思いますが、長らく本棚に眠っておりました。日本のことば遊びの歴史と全容を知るには、やはり中公新書の一冊が要点を無駄なくまとめて読みやすいと思います。それに反して綿谷雪の本は、早口言葉、尻取りがほとんどで範囲が狭いのと、資料を生のまま雑然と並べた風で例が多すぎて、気軽には読めませんでした。また文章も、序文は妙に力んで妙な感じだし、本文にも言葉遣いの堅いところが散見されました。


 両書を併せて、日本のことば遊びについて、私の理解の範囲で大雑把にまとめてみると、

ー鑪爐箸靴討蓮∩畍言葉(早物語・舌もじり・畳語)、尻取り(文字ぐさり・火廻し・段々話)、回文(一句両吟・八重襷・倒言)、しゃれ(秀句・地口・口合・もじり・頓智問答)、なぞなどがある。

△海箸侏靴咾蓮古くは『日本書紀』や『万葉集』や祝詞から始まり、主として和歌の技巧として発展してきた。

9掌融代ごろから、技巧が俳諧、雑俳などに受け継がれるとともに、しゃれとして庶民の間に広まり、師匠が塾を開いたり、賭け事(何度か禁止令が出ている)になるなど流行した。

ぬ声0聞澆法∪祥里文学理論が導入されて、和歌や俳諧のそうした技巧は不まじめなものとして斥けられるようになり、庶民の間の遊びとして生き残ることになる。

テ本で早口言葉が隆盛を極めたのは、よどみなしに立て続けにしゃべりまくることが雄弁だという認識があったからである。

Σ甬遒料畍言葉の集大成として、江戸時代に「外郎売りの科白」と「こんきょうじ」の二つが整えられた。

Г覆召蓮当初は世を戒める役割を担う一種の弁論術だったが、次第にクイズ化、遊戯化していった。

┐覆召蓮江戸時代半ばから、「〜とかけて〜ととく、その心は〜」という三段謎一色になる。

尻取り言葉は、昔は文章を荘重ならしめ、理解を助けるための文学上のレトリックであった。次第に遊戯化し、明治半ばから、短くなるとともに循環型となって、現在の形となった。


 全般的な感想としては、昔の早口言葉、しゃれやなぞなぞなど、風俗習慣があまりにも違っていて、いまひとつ何が面白いのかよく分からないうえに、著者も、あまり簡単なものを説明するのは野暮といった感覚があるのか、説明を省略しているので、分からない言葉遊びやなぞかけが多々ありました。また回文はずいぶん無理があって、素直に読めるものは少ないということが分かりました。

 『ことば遊び』のなかに、なぞが掲載されている本『月庵酔醒記』の紹介があり、「著者月庵は不明の人物だが、織田時代の書らしい」(p163)という一節がありましたが、この前兵庫県の生野へサイクリングへ行った時、偶然見つけた彫像の人だと思います。臨済宗の僧のようです。狼の喉に刺さった棘を抜いたという伝説が彫像になっておりました。写真を載せておきます。

f:id:ikoma-san-jin:20180519065107j:image:w200

 『言語遊戯の系譜』に、「右手を上げて左手を下げ・・・左足を上げずに右手を下げず・・・昔はこのあそびを、畳のへりを踏む・踏まぬでおこなった。三味線伴奏で・・・踏みちがえると酒盃を強いられた」(p98)とありましたが、ずいぶん昔からの遊びだったんですね。また順読・逆読で意味が変わる文句を「倒言」と命名して、「ひどい猥褻語を匿してある」(p377)と紹介していますが、以前面白がって読んだことのある『たいこめ辞典』(山本コータローがラジオ番組の投稿をもとに編集)はこの倒言を集めたもので、現代にも伝統が受け継がれていることが分かりました。

 大学時代、演劇部に少しいたことがあり、毎日の基礎訓練の中に早口言葉がありましたが、それらは全部『言語遊戯の系譜』に載っていました。年代的にも、演劇部の先輩諸氏がこの本から抜き取ったものではないかという気がします。


 ことば遊びのいろんな種類の説明については、本に直接あたっていただくとして、面白かった例文を少しだけ引用しておきます。

咽が鳴る粕味噌の屁の匂なり・・・長閑なる霞ぞ野辺の匂なり→地口(『続膝栗毛』)

包丁とぎまさ(北条時政)→地口

呑む大酒三升五合(南無大師遍照金剛)→地口

ばかに雪ふる長寝せし間に(わが身よにふるながめせしまに)→地口

おくさまのおねまへいつかそろそろと這ひかけて来る朝顔の花→もじり

とらの皮、唐からきたる、下駄の音→もじり

夢のうちは夢もうつつも夢なれば、さめなば夢もうつつとぞしれ→畳語(続拾遺和歌集

番頭舟漕ぐそりゃせんど、船頭は撞木杖そりゃけんぎょ、検校は池にすむそりゃ金魚→地口尻取り

気の楽さ長閑(のどか)草花そこに咲く/木の桜の門(かど)く咲は名そこに草→一句両吟(漢詩式の順逆両義の回文で、後の句は右から左へ読む)

死後の名は錦歴史に花残し→回文

目をとめよ鴨か真鴨か夜目遠目→回文

2018-05-14

[]:FRANZ ELLENS『LA PENDULE EMPIRE suivi de trois contes exemplaires』(フランツ・エランス『帝政様式の置時計と3つの教訓的短篇』)

f:id:ikoma-san-jin:20180514064350j:image:w200

FRANZ ELLENS『LA PENDULE EMPIRE suivi de trois contes exemplaires』(L’AMITÉ PAR LE LIVRE 1964年)


 続いて、またフランツ・エランスの短篇集。「教訓的」という訳がいいかどうか不安ですが、いずれも悲恋、悲劇で終わる作品です。相変わらず、文章の読みやすい部分と、難しい部分があり、難しいところは拘泥せずに読み飛ばして進みました。

 この本には、これまで読んだエランス作品とは違って、直接的な怪異や幻想はまったく出てきません。それに近いものを感じさせられた作品は、冒頭に置かれた「La Pendule Empire」で、女性の彫像のある置時計など骨董装飾品の描写に見られる夢幻神話的雰囲気や、奇矯な登場人物、骨董店の店内の様子など、わくわくしてしまうものがありました。さらに、この作品には余裕をもって怪盗を賛美する趣きがあり、また滑稽小説的な場面もいくつかあったので、主人公が蒐集した高価な骨董品を奪われたうえ、恋にも破れるという悲劇に終わるとはいえ、楽しめながら読めました。

 他の3篇は、それに反して、いずれもシリアスさが貫かれ救いのない絶望のうちに物語が閉じます。3年一緒に過ごした恋人から別れの手紙をもらったり、事故で顔が滅茶苦茶になったあげく捨てられ自殺したり、若妻と駆け落ちしようと意を決して訪れたらすでに夫が感づいて無理やり引っ越した後だったり。これらの作品に共通する特徴は、前の『LES MARÉES DE L’ESCAUT(エスコー川の潮)』でも書きましたが、人物の会話や独白が豊かできめ細やかで、それらを通して、主人公の内面のドラマチックな推移が鮮やかに浮き出ているところです。

 ばらばらに見える4つの短篇ですが、最後の一篇にまた帝政様式の置時計や骨董店が出てくるところに全体の本としてのまとまりが感じられる仕掛けになっています。

 Michel Frérotという人の銅板による挿画が大4点、小10点添えられています。大はいずれもページ全面に描いた顔の中に抽象的な図柄を落とし込んだもので、小は矩形や円を活かした愛らしいデッサン。見本をご紹介しておきます。

f:id:ikoma-san-jin:20180514064432j:image:w200f:id:ikoma-san-jin:20180514064455j:image:w160


 各篇の概要を簡単に(ネタバレ注意)。                〇La Pendule Empire(帝政様式の置時計)

 仕事一筋で芸術の美を理解しない保険業の男が、ある男の手に導かれて骨董蒐集の道にはまる。がその男は泥棒団の親玉で、保険業の男を誑かせて骨董を集めさせ、それをまとめて盗むという大胆な作戦に出ていたのだ。保険業の男主催のお披露目パーティの席で、招待者(実は泥棒団のメンバー)が軽妙な挨拶をするたびに、ひとつずつ蒐集品を持ち帰るという、同じパターンが繰り返されるところが、挿話的な要素もあり面白い。


Clara Spane(クララ・スパン)

 離婚後、気分転換のため訪れていた北方の村で、南方系と見える美しい女性と出会う。彼女は年下のひ弱な若者からつきまとわれており母性愛的な感情から付き合っていた。まもなく二人でニース郊外に住み幸せなひとときを過ごすが、女性が急にパリに行くと言い出す。新聞で若者が発砲事件を起こしたことを知ったからだ。その後幸せな生活に戻るが、3年後、刑期を終え出所する若者に会いに行った彼女から別れの手紙が届く。運命には逆らえない、若者とともに生きると。


La Mort dans l’Ame(魂の死)

 大会社のタイプライター速記嬢をしていた娘が、部長の車に同乗していて事故に遭い、ひどい顔になりびっこを引くようになってしまった。裁判が長引くなか、腫れ物に触るように気遣う両親とますます我がままになる娘。幸せな家庭が一変する情景が事細かに語られる。娘は部長と関係があり事故後責任を取るよう結婚を迫るが冷たく突き放される。娘は部長に復讐しようとして果たせず、最後は自殺してしまう。どうしようもない悲劇。


〇Le Rendez-vous dans une Eglise(教会での密会)

 小さな町で祖父母の家に下宿している大学生が、骨董店の若夫人を見初める。彼女には年の離れた嫉妬深い夫がいて、彼女を閉じ込めるためにその骨董店の店番をさせているのだった。夫と交替する昼休みの時間に教会での密会を続けるが、大学生が復活祭の休暇で実家へ戻り、金を集めて彼女と一緒に駆け落ちしようと戻ると、骨董店はもぬけの殻になっていた。若い二人の愛情の交換がみずみずしく描かれた悲恋物語。

2018-05-09

[]:郡司利男『アダムのへそ―言語文化随想』

f:id:ikoma-san-jin:20180509065051j:image:w200

郡司利男『アダムのへそ―言語文化随想』(桐原書店 1984年


 引き続いて郡司利男の本。前回の『ことば遊び12講』が月刊「言語」に連載したシリーズものであったのに対して、これはいろんな雑誌への寄稿を集めたものですが、『ことば遊び12講』がことば遊びの技巧の説明に終始していたのに比べて、背景の原理的な部分にまで筆が及んでいる論文もあり、充実した内容になっています。

 例えば、『ことば遊び12講』にもよく出てきた異分析について、次のとおり4つの型に分類し、さらに場の異分析という概念も加えています。

(機坊拭a nadder→an adder(まむし)への移行やelephantの(eleph-ant)の分節に見られる古典的異分析、

(供坊拭 「No cow has eight legs.(8本脚の牛はいない)」を(no cowには8本の脚がある)とする異解釈、

(掘坊拭a grin without a cat(ネコともしないニヤリ)のような異配列、

(検坊拭You can’t be in two places at once unless you were a bird.(同時に二箇所にはおれませんよ。鳥じゃないんだから)のようなBullやI was in the room but he was out of the question.(ぼくは部屋の中だったが、あいつは問題外だった)のようなノンセンス、

(場の異分析)型:「Waiter, there’s a fly in my soup.」に対して、「Serves him right(いい気味だ). The devil was in the ice cream last night.」のように答えるおかしさ。


 もっとも印象に残った文章は、副詞の重要性を訴えたもので、副詞は文の構造からすると付随的で、三次語として扱われているが、表現というものを考えた場合には、中核を担う一次語であるとし、言語学者や文法研究家が言語分析にのみ熱中して、肝心の表現の美しさに感応する心を失っていると指摘した部分です。たしかに副詞や形容詞で情景が生き生きと立ち上がってきます。これから文章を読む時、注意したいと思いました。

 他にも、鋭い洞察に満ちた言葉がいくつかありましたので引用しておきます。

だれでも幼くして母国語を習得するのは、ことばが本質的に遊びであるから/p36

なぞ遊びの多くは逆算というか、面白い定義を逆にたどって見出だし語にたどりつかねばならぬといったところがあり、考えてみてもどうにもならぬところがある/p48

目の前にりんごがないときでも「りんご」と言えるところに、いわばことばの本質がある・・・現実よりもことばの方が操作しやすい/p57

表現は定着度が高いほど異分析による脱出の衝動が強くなるのかもしれない。ことわざのもじりが多いこと・・・がこのことを裏づけしている・・・「ことばの非レッテル用法」ということであろう/p74

そもそも表現―つまり、われわれをとりまく世界や、われわれの頭に去来することや感覚をことばで切り取ること自体が、一種の異分析であると言えなくもない/p86

ことばの宿命として、何かを言うということはつねに、何かを言わないことになる/p109

歴史の記述はすべて、後世の眼を通すということでは、アナクロニズムである。ということがなければ、たとえばコロンブスを、当時のスペイン社会の中で考え直す、などということは無意味な冗語になってしまう/p225

「もどき」は・・・「まがいもの」であり、「偽物」でないまでも「似せ物」である。しかし、いったい人間の文化から「似せ物」を取り去っていくと、何が残るであろうか/p257

 前回敢えて書きませんでしたが、この人の文章は自慢げで、人間的にはあまり好きになれない種族。英語の先生によくあるタイプと言うと言い過ぎでしょうか。また分かりきったことを説明するのが沽券にかかわると思っているのか、地口やなぞの種を明かさないまま、次の話題に移るせっかちさが、私のような理解の悪い読者に対して親切ではない気がします。

2018-05-04

[]:四天王寺春の大古本祭りと京都勧業館の春の古書大即売会二本立て

 暖かくなって、いよいよ本格的な古本市シーズンに突入。関西では、大阪、京都と続いて大きな古本市がありました。四天王寺は古本仲間の都合もあり二日目に集結。池崎書店、シアル、ロビンなどで購入。

 なかでまずまず収穫と言えるのは下記。

小林秀雄他訳『ジイド全集将 文學評論』(新潮社、昭和26年7月、200円)→メエテルリンク、ヴェルハアレン、ピエル・ルウイ、マルドリュス、レニエ、リイラダンなどを論じている。

アンリ・ミショー小海永二訳『プリュームという男』(国文社、73年11月、500円)

松浦寿輝詩集』(思潮社、85年4月、500円)→この2冊はともに私好みの物語風散文詩だったので。

米倉巌『萩原朔太郎の詩想と論理』(桜楓社、平成5年5月、200円)→日夏耿之介との関係について後半四分の一ぐらい割いていたので。

マリー・ルイーゼ・カシュニッツ西川賢一訳『六月半ばの真昼どき』(めるくまーる、94年1月、600円)→ドイツの短編。日常に侵入する異常を描いたとある。

春日武彦『無意味なものと不気味なもの』(文藝春秋、07年2月、900円)→タイトルが気に入った。

f:id:ikoma-san-jin:20180504102900j:image:w200///f:id:ikoma-san-jin:20180504102854j:image:w200

f:id:ikoma-san-jin:20180504102849j:image:w200///f:id:ikoma-san-jin:20180504102843j:image:w200

f:id:ikoma-san-jin:20180504102827j:image:w200

 今回大失敗だったのは、全品6冊800円の小町書店で、6冊という数だけ念頭にあり、ちょうど荷風の評伝を読んで作品を読みたくなっていたので、あれこれ買いましたが、よく考えてみると、ぺらぺらの文庫本なので、1冊133円は高い。

岩村透/宮川寅雄編『芸苑雑稿 美術と学生 巴里の美術学生』(平凡社、昭和46年3月、134円)

勝本清一郎校訂『北村透谷選集』(岩波文庫、昭和45年9月、133円)

永井荷風『すみだ川 他三篇』(岩波文庫、79年10月、133円)

永井荷風『花火・雨瀟瀟 他二篇』(岩波文庫、79年10月、133円)

永井荷風『濹東綺譚』(岩波文庫、76年7月、133円)

永井荷風訳『珊瑚集―仏蘭西近代抒情詩選』(岩波文庫、02年11月、134円)→原詩が掲載されていたので。ところが家に帰って見たら、原詩だけの冊子を所持していた。

 他に、

村松剛『日本近代の詩人たち―象徴主義の系譜』(サンリオ出版、75年8月、300円)

『新選 吉岡実詩集』(思潮社、78年6月、200円)

本田錦一郎『芸術のなかのヨーロッパ像』(篠崎書林、平成元年3月、100円)


 勧業館の古本市には初日に行きました。ここはいつも混みあって思うように本が見られないのと、値付けが高いのでなかなか買えず、1時間経っても1冊しか手にできなくて焦りました。しかし丹念に見て回ると、それなりに探していた本が見つかるものです。キクオ書店、萩書房、古書キリコ、三密堂、中井書房などで購入。なかで特筆すべきは、最近また関心を抱いているナンセンスやなぞに関する本。

新倉俊一編著『ノンセンスの磁場―近代詩アンソロジー』(れんが書房新社、80年10月、1080円)

清岡卓行『ふしぎな鏡の店』(思潮社、89年8月、1080円)

福音館書店編集部編『なぞなぞの本』(福音館書店、97年1月、540円)

f:id:ikoma-san-jin:20180504103120j:image:w200///f:id:ikoma-san-jin:20180504103107j:image:w200

f:id:ikoma-san-jin:20180504103113j:image:w200

 巴里の日本人の本を読んでいて、ずっと気になっていた人物の評伝。

蜷川讓『パリに死す―評伝・椎名基二』(藤原書店、1080円)

f:id:ikoma-san-jin:20180504103232j:image:w200

 短詩型の詩人でもある著者が選んだフランス詞華集

吉田加南子『フランス詩のひととき―読んで聞く詞華集』(白水社、09年6月、864円)→CD付とあるが欠。

f:id:ikoma-san-jin:20180504103353j:image:w200

 今頃こんな本を読んでも遅いと思うが、面白そうなので。

安原顯編『私の外国語上達法』(メタローグ、94年5月、540円)→富士川英郎中村真一郎辻邦生高橋英夫平川祐弘渡辺一民天沢退二郎、西永良成、今泉文子、高山宏、吉田加南子、鹿島茂吉田城沼野充義中条省平巽孝之野崎歓ら。

 他に、

ジャン=クロード・ラミ大友徳明訳『アルセーヌ・リュパン―怪盗紳士の肖像』(東京創元社、86年2月、742円)

角川書店編『ドッペルゲンガー奇譚集―死を招く影』(角川ホラー文庫、平成10年12月、324円)

f:id:ikoma-san-jin:20180504103442j:image:w200///f:id:ikoma-san-jin:20180504103435j:image:w160

 と書いて、本をしまおうと本棚を掻きまわしていたら、新倉俊一編著『ノンセンスの磁場―近代詩アンソロジー』と永井荷風訳『珊瑚集―仏蘭西近代抒情詩選』はすでに所持していることが判明。おまけに『ノンセンスの磁場』は20年ぐらい前に読んでいた!何も覚えていない。