古本ときどき音楽

2017-02-22

[]: ジョン・マーティン研究書ほか

 今回は美術の分野で二冊収穫がありました。ひとつは標記の本をオークションで。昔、ジョン・マーティンの壮大な絵に惹かれて、画集がないかと探していた時期がありました。トレヴィル刊の画集を手に入れただけでしたので、英語の本だが嬉しい。もちろん絵もたくさん収められている(カラー8点、モノクロ165点)。

William Feaver『THE ART OF JOHN MARTIN』(Oxford University Press、75年、1601円)

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 もうひとつもオークションで偶然見つけた下記の雑誌。こんな特集があったのは知らなんだ。藤澤衞彦、岡本一平らによる「怪奇藝術座談會」や「支那畫の怪異」、「グロテスクな繪」などの評論、絵もいくつか掲載されているが如何せん画質が悪い。

「アトリヱ 怪奇畫號」(アトリヱ社、昭和4年8月、1000円)

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 オークションでは他に下記二冊。

西條八十抒情詩集『恋のくさり』(講談社、昭和52年5月、510円)→以前買った『愛の帆船』の姉妹編。

Charles Baudelaire山内義雄編註『Les Fleurs du Mal』(第三書房、昭和23年11月、300円)→大学の語学のテキスト。山内義雄の註釈がどんなか知りたかった。

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 古本屋での購入本は、

 大和郡山へ盆梅展を見に行った時、JR大和郡山駅前の「笑福堂」という古本屋で。JR大和郡山駅前に古本屋があるのは知っていましたが、初めて入りました。私にしてはちょっと高めでしたが、記念に一冊。日本オリジナル幻獣?河童の本。

大野桂『河童の研究』(三一書房、94年11月、1000円)

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 2月からボランティアで奈良日仏協会の事務をお手伝いすることになりました。ちょっとだけ忙しくなるかもしれません。会合に出かけたついでに、小西さくら通りのフジケイ堂にて。

佐藤勇夫『英詩と日本詩人』(北星堂書店、昭和50年12月、108円)→書き込みがあったので安い。前の持ち主がおそらくこの本を授業のテキストに使っていた女学生らしいので許そう。佐藤勇夫は福田陸太郎矢野峰人の教え子のようだ。英詩のテキストとその明治大正期の翻訳、さらにその詩から影響を受けたらしき詩を掲載。註釈・論評は少ないが、資料として面白そう。

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 散歩の途中近所のBOOK-OFFにて。杉山二郎を読んで以来の気になるテーマ。

松本清張『カミと青銅の迷路―清張通史3』(講談社文庫、昭和62年11月、108円)

松本清張『空白の世紀―清張通史2』(講談社文庫、昭和61年12月、108円)

2017-02-17

[]:中国の幻獣および怪異噺の本二冊

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伊藤清司『中国の神獣・悪鬼たち―山海経の世界』(東方書店 1986年)

過耀良編『妖怪畫談全集 支那篇』(中央美術社 1929年)


 どちらも中国の妖怪が出てくるのと、『妖怪畫談全集』に『山海経』の挿絵がたくさん収録されていることぐらいで、まったく別種の本。前者は研究書、後者は物語集。『妖怪畫談全集 支那篇』は学生の頃に買った本で、同じシリーズで『ドイツ・ロシア篇』というのも所持しています。古本屋でもあまり見かけない珍しい本で、嬉しくて時おり取り出して挿絵を見たりしていましたが読んでおりませんでした。

 二冊に掲載されていた挿絵のなかで、お気に入りの絵を引用しておきます。

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以上、『中国の神獣・悪鬼たち』より

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以上、『妖怪畫談全集 支那篇』より


 『中国の神獣・悪鬼たち』は「山海経の世界」と副題にあるとおり、山海経に描かれた妖怪・鬼神を紹介しながら、古代中国の人びとが抱いていた一種の世界観を浮き彫りにしています。中国の邑を語る冒頭の文章では、昔の邑の情景が目の前に現れるようで、引き込まれてしまいました。

 村落で生活する人々の平穏な「内なる世界」が、山林川沢の危険な「外なる世界」と接触するところに、妖怪・鬼神が現れたようです。物騒な目にあったりするので山稜、曠野、渓谷、川など至るところに妖怪がいると思ったり、病気や伝染病で悲惨な目に合うのも妖怪・鬼神の咎だと信じ、洪水や日照り大風等の自然現象、火災、蝗の大群による飢饉の発生も妖怪・鬼神の仕業と考えたのです。さらに驚くのは兵乱や労役も人為ではなく超自然的存在の所業だとしていることです。例えば、貍力(りりょく)という獣が現れると、その地方に土木工事がたくさん行われるという具合。(日本では、年度末になるとこうした妖怪が跋扈するようです)。

 そうした厄災を避けるためには、あらかじめ妖怪・鬼神を識別することが大事だという理由から、山林川沢に棲む怪力乱神ならびに猛禽獣や蝮蛇類の博物誌を作成しようとしたのが、『山海経』の成立した所以のようです。怪獣の姿が跋扈する青銅器もどうやら同じ趣旨で作られたようです。さらに識別から一歩進んで、鬼神を祀ることによって善神に変えるということも起こってきます。例えば、回禄という怪神は火を操る荒ぶる妖怪でしたが手厚く祀ることで火伏せもしてくれる神になったということです。この「祀る」ということが神と妖怪の境目だと言います。

 では、誰が『山海経』を編纂したのか、それは著者もはっきりとは言ってませんが、山沢の利権が専制君主権力を形成する重要な経済的基盤となり、族長層による私有財産化や開墾が行われ、山沢の独占的な囲い込みが進められていったことからすると、国家的存在か職能集団的な存在の関与が想像されると言います。


 あちこちに面白い記述がありました。

疾病等の原因が鬼神の仕業と考えられていた社会では、医者は神々を祀る聖職者でもあったこと。

また古代の医法には実の多さが子沢山を連想させるところからオオバコを懐妊促進の薬としたり、貍(猫)が鼠を退治するところから、鼠瘡という病気を治すのに貍豆という豆の実を用いるなど、呪的要素や言語遊戯的趣味の濃い論理が見られること。


 鳳凰や麒麟などの瑞祥をもたらす神獣というのは、実は見方が逆だという中尾万三説に感心しました。天下泰平だから辺境との交通が安全に保証され、遠くから珍しい鳥獣が献上され得るのであって、戦乱の世ではそうしたことはあり得ない、つまり瑞祥があったから珍奇な鳥獣の延長線上にある鳳凰や麒麟が生れたというわけです。


 『妖怪畫談全集 支那篇』は巻頭の「山海経」の妖怪画と、本文の妖怪談とは何の繋がりもなく、本文は『聊斎志異』や『捜神記』『廣異記』などの怪異譚を集めたものとなっています。全部で54篇。なかでは、「雲飛と盆石」(宜室志)、「死者の媒介」(聊斎志異)、「牡丹燈」(剪燈新話)、「畫皮」(捜神記)が出色。

 「牡丹燈」は有名な話なので省略。「雲飛と盆石」は石狂いの男の一生を追った話。河で拾ったある奇石を愛でる男の前に老翁が現れ、「3年預かる、嫌なら3年寿命が縮まる」と言われ拒否したところ、翁が92あるうちの3つの穴に手を触れると直ちに穴が溶けてふさがるという場面が印象的。「死者の媒介」(聊斎志異)は琴をめぐる音楽譚で、琴合戦で鳥を集める名人の調べ、無人の部屋の琴がひとりでに奏でる怪、亡霊の正体を映す古鏡、亡霊の奏でる筝の妙なる曲など、盛り沢山。亡霊が仲人をするという趣向もある。「畫皮」は、道教的神秘術の感じられる一篇。鬼が人間の皮を一振りすると美人に変じたり、老婆に窶した鬼と道人の術比べで、最後は鬼が首を切り落とされた途端に煙となって壺の中に吸いこまれ、皮一枚も巻物のようにして壺の中に押し込められる場面が面白い。

 他には、亡霊の夜宴に紛れたとき盗んだ盃が後年現実の盃と符合する不思議を描いた「妖盃物語」(聊斎志異)、本のなかから抜け出た美人を妻にする「書癡」(玉堂力叩法⇔に焦がれ死んだ女の心臓が風景を映した珠になる「怪珠」(玉渓編事)、妻の首を美人の首とすげ替える「木像の怪」(聊斎志異)、拾ってきた卵から生まれた子どもを育てるが最後は羽が生えて飛んで去る「雷祖」(稽神録)、古廟の塑像四姉妹が男を誑かす「妖女姉妹」(廣異記)、妖怪譚とは思えないようなユーモアがある「幽霊才女」(聊斎志異)、浦島太郎説話のような「神仙境」(捜神記)、かつて富豪に厚遇されていた貧乏な若者が実は狐で、その富豪が零落した時に恩返しをする「妖孤の祠」(廣異記)、天井から滴る水が血生臭かったというのがどこか不気味なリアル感のある「妖女を咬む」(廣異記)、怪物が大きな眼玉だけとなって庭を旋転するというシュルレアリスティックな「眼玉の怪」(幽怪録)、封を切らずに中の酒を飲むなど道術が展開される「済南道人」(塔寺)。

2017-02-12

[]:Hubert Haddad『Le peintre d’éventail』(ユベール・アダ『扇絵師』)

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Hubert Haddad『Le peintre d’éventail』(Zulma 2014年)

                                   

 ユベール・アダの比較的近作で、代表作となっているようです。アダを読むのは二冊目。「Roman」という雑誌の幻想小説特集号で短篇を読み、ブリヨンに似た作風が気に入ってその作品が収められている『Le Secret de l’immortalité(不死の秘密)』という短篇集を読んだことがあります。(2014年7月23日記事参照http://d.hatena.ne.jp/ikoma-san-jin/20140723/1406066814

 この作品は、日本を舞台にした小説です。どうやら東北地方のようですが、atôraという地名や、Dujiという湖、Jimuraという山は見当がつきません。atôraというのは「安達太良山」からの連想ではないかという気もします。なじみのある地名としては京都や神戸、東京、それに富士山が出てきました。

 登場人物の名前も不思議です。語り手は在日台湾人のXu Hi-han(どう発音すればいいのか)、扇絵師は男なのにOsaki Tanako(姓と名が逆ではないのか)、その弟子は父がビルマ人母が日本人でMatabeiというが今の日本では珍しい名前(岩佐又兵衛からヒントを得たのか)。しかも名字も変わっていてReien(霊園?麗園?)。下宿の大家はHison夫人(名前はEtsukoとまっとう)、下宿人は、茶商のHo(これは中国人かも知れない)、在日韓国人のAé-cha、駆け落ちカップルのAnnaとKen(これはあり得る)、後半に登場する女学生Enjo(円城?)。ところどころに歴史的人物の西行紫式部、道元、北斎広重という名前が出てきてほっとします。

 一方、正月にもちをのどに詰まらせる人がいることや、地蔵が地獄へ助けに来てくれること、焼き場での骨を集める作法、大地が揺れるのは鯰が身体を震わせるからということ、「雨雨降れ降れ母さんが」の童謡など、日本の事情に妙に詳しいのはしばらく日本に滞在したか、誰か教えた人がいるに違いありません。

 この作品の中心を占めるのは圧倒的な日本趣味で、現代の日本には存在しない幻想の日本像に対する憧れが感じられます。それは小さな扇絵や俳句短歌、作庭に見られる凝縮された日本の古風な美意識への讃美であり、また東屋に侘び住まいする扇絵師の求道的生き方や、山奥の寺で苛酷な修行をする盲目僧の枯れた精神性への共感となって現れています。読んでいて、ポール・クローデルの『朝日の中の黒い鳥』の印象と重なるものがあり、また扇子に書かれた句ということでは、クローデルの『百扇帖』や『都都逸』の影響があるのかもしれません。

 また背景として描かれる日本の自然がとても美しく、自然がこの作品のキーワードになっている気がします。ただフランス語で読んでいるとヨーロッパの風景みたいに思ってしまうのが情けないところ。

 読み進むうちに、神秘的で芸術的な雰囲気が横溢した小説のように思ってしまいますが、後半に入ると単純な美学的物語や日本礼讃でないことが判明します。神戸と東北の二つの地震が出てくるからです。とくに東北の津波の描写があの時のテレビの映像そのままに出てきて、Matabeiも津波にさらわれて柳の木につかまってかろうじて死を免れますが、下宿は津波に運ばれた船が突き刺さって大破し、ほとんど全員が非業の死を遂げてしまいます。避難地域が日に日に拡大していく原発災害の厄災が語られ、Matabeiは衛生班の目を逃れて災害地を彷徨い、下宿の仲間たちの埋葬をしたり泥のなかから小学生の遺体を掘り出すなど目を蔽うような悲惨な描写が続き、まるで別の小説のようになってしまいます。東北の災害がこの作品を書く動機となったに違いありません。

 物語りの途中に俳句や短歌をフランス語に移しかえたような雰囲気の短詩が挿まれていて、全部で18句ありました。これらの句を含めた(?)詩集『LES HAIKUS DU PEINTURE D’ÉVENTAIL(扇絵師の俳句)』(Zulma,2013)というのが出ているようです。

 句以外にも、エピグラム的な短文があちこちに散見されました。例えば、森の中で道を見失ってひと息つく時ほどこの世に美しい時間はない(p35)。落葉は運命です・・・この庭には風景のすべてがあります(p43)。扇子に絵を描くというのは絵に風を起こすことではありませんか(p45)。庭は高い所から低い所まで自然の全体を集めるものです。対照的なものも、遠景も含めて。(p64)。季節は先行する季節の想いから生まれる(p76)。物事は整えてはならぬ。不完全の心得が完全への道だ。(p99)。扇子の墨絵と作庭は一対のもので、互いに他の秘密を隠している。それは夢の裏表だ(p102)。人生は露の道。記憶は夢の庭のように失われていくが、春の朝になると扇子が開くように庭がまた甦る(p180)、というような文章(超テキトー訳につき注意)。

 今回は、時系列的なストーリーの説明は省きますが、主軸は、日本の扇絵の美を作り補修し伝えるOsaki、Matabei、Hi-hanの三代の物語で、冒頭と結尾はHi-hanの一人称で、山奥の隠れ屋に瀕死のMatabeiを訪ねる場面が語られ、真ん中は三人称で下宿での日々やその後の災害が語られています。冒頭部分と結末が繋がることで物語の環が閉じる仕掛けです。全体の印象としては、日本の美学をテーマにしながら、小説の技法としてはやはり欧米的。フランスの小説には、とことん説明しようとするような饒舌なところが見られるのが、日本とは対照的です。

 以前読んだ『不死の秘密』の諸短篇はブリヨン風の幻想的彷徨譚だったのに対し、この作品は前半が神秘的な雰囲気、後半は苛酷な現実の物語になっています。過酷な現実というのは現実を突き抜けて幻想的でもありますが、どれがアダの本当の作風なのかよく分りません。他にもタイトルだけを見ると面白そうなのがたくさんあるので、別の作品も読んでみたいと思います。

2017-02-07

[]:幻獣本二冊『天翔るシンボルたち』と『グリフィンの飛翔』

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張競『天翔るシンボルたち―幻想動物の文化誌』(農文協 2002年)

林俊雄『グリフィンの飛翔―聖獣からみた文化交流』(雄山閣 2006年)


 この二冊は読んだ順番に並べただけで、幻獣本という以外は何の関連もありません。こじつければ題名に「翔」という字が入っているのが共通しているところでしょうか。張競の本は中国の幻獣一般について総覧し、林俊雄はグリフィン図像に限定してとくに古代西アジアを中心とする伝播を追っています。

 『天翔るシンボルたち』は石像や彫刻、絵画など豊富な図像資料にもとづいて形態の変遷を見ているところが類書になく貴重。写真図版が多く楽しい。とくにカラーページは美しい。何点かお気に入りの図像を無断で紹介します。

f:id:ikoma-san-jin:20170207073903j:image:w200麒麟f:id:ikoma-san-jin:20170207073901j:image:w180鎮護獣

f:id:ikoma-san-jin:20170207073900j:image:w190人面犬f:id:ikoma-san-jin:20170207073859j:image:w190人面魚

 図像を多く載せているのは、幻想動物を神か妖怪かという抽象的な観点で見るのではなく、奇怪な身体を持つ動物の図像的特徴や身体的象徴性に注目しようという著者の姿勢の現れです。鳳凰や麒麟、龍などの姿が時代とともに変化していくのがよく分ります。

 ただ形態的特徴に関心を寄せながらも、「幻想動物であるだけに、制作者によってある程度自由に想像されたのであろう」(p66)とか「辟邪像はそれぞれに異なる・・・けがれをはらうことができるなら、造形的特徴に必ずしもこだわる必要はない」(p72)とかそっけないところもあり、造形の影響関係にとても神経を使っている『グリフィンの飛翔』との違いを感じさせられます。


 いくつかの重要な指摘は、

‘或∧を分類するのに、中国古代では、外見の類似性や、人間にとっての効用、地域ごとの特性に着目してみたりしている。徐々に西洋の博物学の知識がもたらされたが、近代科学の分類法が入る以前は、実在の動物と幻想動物が一貫して混在している。

⇔兇聾諺枡以の原型ともいえる古い存在であり当初は聖なる存在ではなかったが、陰陽五行思想の影響下に漢代以降は皇帝の象徴となり、龍の紋様は皇帝にしか許されない禁制のイコンとなった。違反した場合は死罪になったとのこと。

諸動物の特徴を多く持つほど全能に近づくということから、鳳凰は、鶏、燕、魚、亀、龍の特徴をすべて併せ持つ存在となっていたが、晋代になって龍のイメージが分離し、鳥類の王者として認識されるにつれ鳥の形に近づき、似たような存在の鸞を吸収して現在のような姿になった。

け⇒杆濤垰彖曚呂發箸發伴然認識の科学の芽生えの要素を持っていたが、社会のあらゆる領域で拡大解釈されるようになると、科学思想の発展を阻害し、非合理を合理とする迷信をはびこらせることにもなった。

ヨーロッパでは近代に入ってからも、一角獣は文学や芸術の領域でよく表象されているが、近代化を目指した中国では、科学の名のもとに幻想動物は後進性の象徴として文芸の領域から追放された。しかし市場経済の進展に伴い、幻想動物たちはまた注目を浴びるようになっている。



 『グリフィンの飛翔』には、よくこれだけ集めたと思われるほど、グリフィンの図像が添付されていて(おそらく500点以上)堪能しました。時代別地域別に厳密な考証をしておりたいへんな労作です。非常に専門的で細かいところが却って大局的な視点をぼんやりさせてしまい、平板な記述になってしまっているのが残念です。最後の「まとめにかえて」を拡大するような形で、もう少し分量を少なくしてもらった方が私のような者には読みやすい。

 いろんな問題点が提示され、それぞれについて回答が示されています。.哀螢侫ンはいつどこで生まれたか。▲哀螢侫ンはどういう役割を果していたのか。グリフィンの形の特徴と図像的モチーフにはどんなものがあるか。だこΔ粒特楼茲悗匹ε舛錣衒儔修靴討い辰燭。ノ犹の合成獣、神話の図像との比較。


 私なりに理解した概略を述べますと、

ゝ元前4500年〜4000年ごろにメソポタミアで合成獣が誕生。そのうちグリフィンが、前3500年〜3100年ごろ、メソポタミアに隣接するスーサに登場する。

▲哀螢侫ンは、神殿や宮殿の守護、神殿に奉納される神酒を守る魔除け、墳墓の死者の安寧を守る鎮護、神を乗せたり車を牽いたりする神の下僕、神の護衛として描かれた一方、悪獣としての一面もあり人間や神と闘っている図像もある。これは、神=英雄との闘いの結果、負けて神=英雄の下僕となるという神話を反映している。

グリフィンの形は、基本的には獅子(ライオン)と鷲の組み合わせで、頭が獅子か鷲化で大きく二つに分けられる。最初は前足が鷲、後足が獅子だったのがメソポタミアで逆転し、エジプトではハヤブサかハゲタカの頭だったり、ペルシアでは角を生やし翼が捲れ上がり、前6世紀以降のギリシアでは背びれがあり翼は真直ぐ、アルタイではペルシアとギリシアの形態が融合するなど地域によって特徴が分かれる。13世紀以降ヨーロッパでは貴族や都市の紋章としてグリフィンが愛好されるが、すべて前足が鷲で後足がライオンの形となる。図像としては、ナツメヤシ(生命の木)の左右に対となって描かれたり、神殿への参道に対となって配置されたり、騎士に剣で胸を刺されていたり、2頭のグリフィンが別の獣を両側から襲いかかるという形など。添付されていた写真のいくつかを紹介しておきます。

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ぅ哀螢侫ンはスーサで誕生した後、エジプトとシリアの二系統に伝わった。新アッシリア帝国はギリシア世界に大きな文化的影響を与え「オリエント化様式の時代」をもたらした。ギリシア世界に開花した新しいタイプのグリフィンは、当時勃興しつつあった北方草原地帯のスキタイ系騎馬遊牧民に伝わる一方、アケメネス朝ペルシアのグリフィンも中央アジアに伝播し、スキタイ系遊牧民のサカはそれを独自なものに変容させた。中央アジアのアルタイはギリシア、ペルシアの双方のグリフィンを受け継ぎそれを東の方に伝える役割をした。中国からはアルタイ出土の合成獣とそっくりな怪獣が出土している。さらに南朝の有角獅子は日本にまで来ていて、島根県の御崎山古墳から出土した大刀の柄頭には、直接的には中国南朝の有角有翼獅子、はるか遡ればアケメネス朝ペルシアから伝わった文様が見られる。インドには、ヘレニズム期にバクトリアからグリフィンが入った痕跡が認められ、ガルーダやマカラの図像の成立にグリフィンが関与した可能性もある。

ゥ哀螢侫ンに近い合成獣としては、アッカド時代に獅子頭で身体が鷲の怪獣イムドゥグドゥあるいはアンズー、前足が獅子後足が猛禽の蛇ムシュフッシュ(蛇グリフィン)がある。身体が人間のものはグリフィン魔人で、これにも獅子魔人、鷲魔人の別があり、図像としては右手に松かさ状のもの左手に小バケツを持つ場合が多い。ほかに有翼獅子、スフィンクス、中国の天禄や辟邪が登場する。人間の顔と獅子の顔をあわせ持つ旧約聖書のケルビムについてもグリフィンとの共通性を見ている。写真はグリフィン魔人。

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 その他、本筋からはずれたいろんな知識として下記のようなものがありました。

仝殿紊砲論哨▲献△砲皀薀ぅンや象が棲息していたこと。

貨幣が誕生したのは、前7世紀のリュディアだと一般に言われるが、金や銀の小塊にハンマーで文様を打刻する方法。ほぼ同じ頃に中国でも貨幣が登場していて、こちらは鋳造による。

アラビア語で「あなた」のことを「アンタanta」ということ。

 グリフィンと言えば、我が家にグリフィンの大きなお皿があります。昔イタリア旅行のときに、たしかアッシジの土産物店で買ったものです。手提げ袋に抱えて大事に持って帰った記憶があります。

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2017-02-02

[]:たにまち月いち古書即売会ほか

 大阪で昔の同僚との新年会の途上、30分ほど寸暇を惜しんで、標記古書即売会を覗いたところ、珍しい本を購入することができました。まず矢野書房のコーナーで。ここはいつも私好みの文学関係の本が比較的安価で出ています。

丸山薫詩集『一日集』(冬至書房、昭和44年9月、300円)→限定500部。紙質といい印字の鮮やかさといい、冬至書房の復刻のほうがほるぷ出版のよりも質感がいい。もちろん詩もすばらしい。

村井英夫譯『グウルモン詩集』(聚英閣、大正14年12月、300円)→村井英夫という人は知らないが落ち着いた訳のよう。「シモーヌ」のリフレインの訳は「シモオヌ、おまへの髪毛の森には/たいへんな不思議がある」。

中込純次仏蘭西譯詩集『海の墓』(文園社、昭和17年6月、500円)→シャルル・ゲラン、レルベルグ、レニエ、ヴェルアレンなどに惹かれて。

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 寸心堂という書店も安い値付けで嬉しい。

ROGER CAILLOIS『L’écriture des pierres』(Albert Skira、70年、300円)→訳本は所持しすでに読んでいるが、原版の写真が美しかったので。それにしても安い。訳本はいま1万円ぐらいしている。

矢野目源一譯『ヴォルガ浮かれ噺』(アソカ書房、49年4月、200円)→裸本。ちらっと読んだかぎりでは、イタリアのノヴェッラやフランス中世艶笑譚と同一系統の話もあるみたい。

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 別の日、麻雀会の途上、堺筋本町の天牛堺書店船場店にて、480円均一。

笹間良彦『人魚の系譜―愛しき海の住人たち』(五月書房、99年1月、518円)→幻獣本のひとつとして。

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 オークションでは、

黒田辰男『ロシア・シンボリズム研究』(光和堂、79年10月、1000円)→700ページほどもある。ロシアの詩人たちは、フランスのサンボリスト以上に熱心に象徴主義の本質について論じているようだ。

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 アマゾンの古本で、

森豊『古代人と聖獣』(六興出版、昭和50年1月、70円)

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