古本ときどき音楽

2017-05-23

[]:MARCEL SCHNEIDER『LE GUERRIER DE PIERRE』(マルセル・シュネデール『石の戦士』)

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MARCEL SCHNEIDER『LE GUERRIER DE PIERRE』(BERNARD GRASSET 1969年)


 シュネデールの小説を読むのは、『LE CHASSEUR VERT』(2010年3月10日記事)、『LES DEUX MIRROIRS』(2012年3月16日記事)以来これで3冊目。この作品は、シュネデールの数ある小説作品の中で、先日読んだバロニアンの本や、自ら書いた『フランス幻想文学史』のなかでも取り上げられているので、幻想的作品の代表作だろうと期待して読みました。が正直期待外れ。

 カイヨワから「私が驚異と呼ぶものを、あなたが幻想と呼ぶ」と言われたと、『フランス幻想文学史』に書いてあったとおり、幻想というより寓話のような雰囲気があります。起こりそうもないことが簡単に起こり、それを自然体のように書いています。

 まず、簡単にこの物語の全容を紹介しますと:語り手は、崖の上の砦の町の記録係の男で、生まれつき足と肩が歪んでいる。崖下は峡谷で、石の戦士や鬼、それにまだ形になる前の奇怪な石がごろごろしている。噂では、峡谷の向こう側は別世界で、石像はその国を守る戦士たちらしい。実際に、語り手は雷に撃たれた石像が叫びながら武器を振り回すのを見たりする。聖ヨハネ祭の夜に、小さい頃からの友人クノが崖下で石像に踏まれて死んでいるのを発見、傍らに妻のジヴァが寄り添っていた。実は主人公はずっとクノに虐められ隷従を強いられて来たので、内心ホッとする。

 町の領主は司教とともに、クノの死の原因を探ろうとジヴァを尋問する。尋問後司教は言う。「ジヴァは異教を奉じる魔女で、死後石像のなかで永遠の生を得ることができると信じている。放っておくと異教が蔓延しキリスト教は滅びる」と。語り手は砦の文書館に駐在することになり、そこでジヴァから「クノのプレゼントよ」と松ぼっくりを渡される。独りになって松ぼっくりを撫ぜていると、松ぼっくりが歌い出し、クノの霊が眼前に蘇ってきた。クノは君を虐めたのも親愛の情ゆえだったと言い、ジヴァに殺されたと告白、松ぼっくりを手に別世界にいる自分を救いに来てほしいと嘆願する。語り手はクノの救済と、司教の命じる異教との対決の間に引き裂かれる。

 これはまさしくファンタジーの構造をしています。神と悪の対立、魔力を持ったもの(ここでは松ぼっくり)に導かれること、力の弱い者が目覚めて冒険に旅立つことなど。神と悪魔に関する神学問答のような対話も出てきます。結末では、意に反して、悪が勝利を収める物語になっていますが。悪を嫌悪し、神の力にすがろうとしながらも、悪の力に抗いがたく引き寄せられていく主人公の苦悶がテーマでしょうか。

 同じく幻想作家であり、ともにドイツ・ロマン派の影響が色濃いと言われ、また多彩なジャンルの評論活動をしているので、マルセル・ブリヨンとよく比較されますが、資質が異なるような気がします。ブリヨンが夜の彷徨に代表されるような一人称的な自己探求的な幻想を描いているのに対して、シュネデールは二人称的というか、悪魔的な人物など自分以外の対立する存在が登場して、その間に幻想が展開しているように思います。また主人公自体も心のなかでアンビバレントな感情に分裂する場面がいくつかあります。.ノに対する恐れと愛情、∪仭に対する嫌悪と崇拝、女性に対する欲情と諦め、こ惺擦亮業に対する楽しさと苦しさ。もうひとつシュネデールのブリヨンと違った特徴は、前に読んだ2作にも見られたように、幼いころの体験を執拗に語っている点でしょうか。

 誤植が多く、文字(とくにn)がひっくり返っていたり、ひどいのは1頁分まるまる逆さまになっているところがありました。

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2017-05-18

[]:俳句の本二冊

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坪内稔典『モーロク俳句ますます盛ん―俳句百年の遊び』(岩波書店 2009年)

秋山竹英子ほか『酔眼朦朧湯煙句集』(「酔眼朦朧湯煙句集」編集委員会 1998年)

                                   

 最近頭がふにゃふにゃになってきたので、「モーロク」「酔眼朦朧」という言葉に惹かれて読んでみました。『酔眼朦朧』のほうはそれに近い句も見受けられましたが、『モーロク俳句』のほうは、題名とは違い、中身はまっとうな俳句論や俳句史解説で、いたって真面目で硬い雰囲気。裏切られた感じがしました。とくに「戦後俳句のゆくへ」は生硬なくらい。


 『モーロク俳句ますます盛ん』を読んでいて、書いてあったことと、刺激を受けて考えたことを合せて少し書いてみます。まず、俳句の最大の特徴は17文字という短さなので、いかに広がりを作るかがポイントになりますが、そのことに関して:

,劼箸弔諒向は、「非特定の他者」が読む場合、一語の単語にどれだけの広がり深さ重さを籠めるかという手法で、その代表が季語の利用である。季節感というのは日本人の集合無意識のなかに形成されているもので、その一語で季節全体を引っ張りこむ力がある。

同様な働きとして、この本では、遠い昔に思いを馳せる言葉を導入することで俳句の時空を広げる時代俳句を提唱している。そうであれば、共通の土壌ができているワイドショー的な関心を取り上げる時節俳句というものも考えられる。

F票圓「非特定」からマニア的小グループに狭められるが、本好きならピンと分かるブッキッシュ俳句(本当は古本俳句と言いたいが)、鉄道マニアには言わずとも伝わる鉄道俳句等々の同好俳句もありえるだろう。

い發Δ劼箸弔諒向は、をさらに狭めて「特定」のある閉じられた仲間うちの空間に限定し、共通の題目あるいは風景をもとにした作り方がある。それが句会とか吟行ということだろう。

ソ秧茲頁亢腓箸靴討麓抛擦世隼廚Δ、また別のやり方として、句の前に前書きをつければ句以外の世界が広がるのは当然である。それと似たものとして連作で同じテーマを続ける方法もある。エッセイのなかで句を披露するのは、エッセイが主体で句は従となるが、広がりは充分保証される。


 また、自由律と定型の問題に関連して:

 崗造呂△箸ら私について来た。背なかが青くそまるのを感じた」という前田夕暮の自由律の口語短歌が引用されていたが、これはもはや短歌ではなく短詩。

⊆由律は今日ほとんど忘れられており、大正から昭和戦前に存在した特異な詩歌として終るのだろうかと書かれていたが、自由律は海外俳句として逆に世界に蔓延したと言えるだろう。

8語という場合にも、喋り言葉の口語と書き言葉の口語の二種類があり、上記の夕暮の短歌は書き言葉の口語を使っている。「愛人でいいのとうたう歌手がいて言ってくれるじゃないのと思う」(俵万智)というような喋り言葉でないと口語の意味がない。


 上野千鶴子との対談が収められていてこれがなかなか面白い。というのは、上野千鶴子が放哉や山頭火など自由律を高く評価していて、その理由として表現の贅肉がないと指摘しているからです。私も以前詩の究極の姿はため息と書いた覚えがありますが、彼女も、言葉の究極は「呼吸(いき)」であるとし、さらに放哉らの句を評しながら、そこに気合とか、ためいき、愚痴が見られると言っています。また短い詩型の中で調べを歌っている点にも着目しています。

 読んでいていいなと思う句は、何度も読んで半分覚えかけているような句が多い。例えば、「咳をしても一人」(放哉)、「冬蜂の死にどころなく歩きけり」(村上鬼城)、「白牡丹といふといへども紅ほのか」(虚子)、「うしろすがたのしぐれてゆくか」(山頭火)、「鈴が鳴るいつも日暮れの水の中」(中村苑子)、「水枕ガバリと寒い海がある」「緑蔭に三人の老婆わらへりき」(三鬼)というような句。初めて出会った(と思う)句でいいなと思ったのは、

いま人が死にゆくいへも花のかげ

静かなるさくらも墓もそらの下(以上高屋窓秋の連作「さくらの風景」より)

雷一過青と金とに孔雀濡れ(草田男)

かくれんぼ三つかぞえて冬となる

枯野ゆく棺のわれふと目覚めずや

母を消す火事の中なる鏡台に(以上寺山修司


 『酔眼朦朧湯煙句集』は、種村季弘ら温泉好き酒好きの面々が温泉宿を中心に開催していた句会の10周年の記念句集。メンバー30名強のうち23人がそれぞれ自選20句ずつを寄せています。名前を知っている人は、秋山祐徳太子池内紀田之倉稔舟崎克彦ぐらいか。

 なかでは、秋山竹英子(祐徳太子)、小川透明人(とめと)の句が私の趣味に近い気がしました。秋山氏の作品は、テレビとかで見た印象に似て、破天荒な大胆さと演劇的趣向がほの見える作風。小川氏の作品は抒情的で幻想的、具象にやや欠ける点がもったいない。他の人の作品でも、抽象語を安易に使っている句は底が浅く感じられました。種村陶四郎(季弘)の作品も型破りの面白さがありました。

                                   

 面白かった句を引いておきます。

踏みはずす春の階段海坊主

この夏を素足で歩く十面相

清流や怪しき鮎の下心

コオロギの屍笑うペルシャ猫(以上、秋山竹英子)

水すましいつか触れなん鯉の髭(安藤二庵)

夕櫻まどへる魄(たま)の寄り集ふ

下闇の息する気配に導かれ

月出でてまぼろしの町路多し(以上、小川透明人)

カーネーション束ね持つ手や小指無し(高砂塊団児)

マスクしてドラキュラの居る歯科醫院

こら空を剝がすな空の裏も空(以上、種村陶四郎)

花火果ててけだるき月の黄色かな(平賀さち女)

冬の灯を消して一人の闇となる(復本鬼ケ城)

柘榴食ふ尼僧は薄き目をあけて(松崎水屯)

2017-05-13

[][]:ボルヘス『幻獣辞典』ほか

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ホルヘ・ルイス・ボルヘス/マルガリータ・ゲレロ柳瀬尚紀訳『幻獣辞典』(晶文社 1983年)

荒俣宏編『妖怪・怪物』(平凡社 1989年)

Véronique Willemin/Joëlle Rodoreda『Les animaux fantastiques―Sculptures de Rêve』(Réunion des musées nationaux 1999年)(『幻想動物―夢想の彫刻』)

                                   

 幻獣シリーズを続けてきましたが、だんだん麻痺して普通の幻獣では驚かなくなってしまったので、この辺でいったん切りあげます。今回は、いろんな幻獣や妖怪の紹介がある三冊。

 ボルヘス『幻獣辞典』では、序文の一行目でいきなり「誰しも知るように、むだで横道にそれた知識には一種のけだるい喜びがある」という言葉(p13)、しばらくして「夢の動物学は創造主の動物学よりずっと貧しい」(p15)というようなフレーズが出てきて、しびれてしまいました。さらに本文冒頭に置かれた一篇、「勝利の塔」の階段に潜み階段を上る人間の影とともに盛衰する幻獣を語る「ア・バオ・ア・クー」で、完全にノックアウトされてしまいました。ボルヘスはこの本で本当は散文詩を書きたかったのに違いありません。無駄で冗長な説明を省いた見事に凝縮された文章です。一部を抜粋しても傷つけるだけなので、実際に本文にあたってくださいとしか言いようがありません。

 同様な衝撃は、底なしの宇宙論を展開した「バハムート」、鏡の世界は呪いをかけられているだけでそれが解ける日がくるという「鏡の動物誌」にもあり、時間とともに次々に変身する幻獣の「バルトアンデルス」、想像を絶する怪獣の「C・S・ルイスの想像した獣」、無限の時間を感じさせる「エロイとモーロック」にもありました。またボルヘス的な印象の濃い幻獣幻人としては、「合衆国の動物誌」のハイドビハインド、「ちんばのウーフニック」のウーフニック「過去を称える者たち」の東洋の一種族、「形而上学の二生物」のコンディヤックの感覚の立像とルドルフ・ヘルマン・ロッツェの仮説動物など。

 他の幻獣本に見られない特徴は、そうしたボルヘス的な存在が多数登場することと、また世界中の文献渉猟から、これまで聞いたことのない珍妙な幻獣の数々が紹介されていることです。名前だけ挙げれば、ヘブライの伝説的幻獣ベヒーモス、イスラムの幻獣ブラク、チリの幻獣アリカントとチョンチョン、アメリカの幻獣グーファス鳥とギリーガルー、釈迦伝に出てくる百頭、ミルメコレオ、ニスナス、ペリュトン、スクォンク、タロス、まだまだあります。

 訳者の柳瀬尚紀については、これまで言葉遊びを面白がっているだけで幻想風味と無縁な人だと若干敬遠気味でしたが、なかなかきりっとしたいい訳をしているし、解説も面白く、見直しました。

 

 『妖怪・怪物』は平凡社の宣伝シリーズ「東洋文庫 ふしぎの国」の一冊。東洋文庫のラインアップのなかから、「妖怪・怪物」に関連した文章を抜粋したもの。文語体はまだしも、ところどころ漢文が出てくるので辟易、飛ばし読みしました。

 なかでは、『屍鬼二十五話』の四兄弟が骨の一片からライオンを再生する術を順番に披露し最後はライオンに食べられてしまう話、夫と兄の首を取り違えてつけてしまった後どちらを夫とするか決断する妻の話が紹介されていましたが、頓智が冴えて圧巻の出来栄え。学生の頃読んだことがありますが、何度読んでも面白い。次に『酉陽雑俎』『明治日本体験記』でしょうか。『東西遊記』も面白く読めました。『甲子夜話』の幻獣の羅列には少々食傷気味。


 『Les animaux fantastiques』は、ルーヴル美術館かクリュニー中世美術館かのショップで購入したもの。上記二冊がひろく文献を渉猟したものであるのに対し、彫刻作品や建物に貼りついている幻獣を写真で紹介しています。子ども向きの本なのでしょうか、絵本のような体裁で、見開きに写真頁と説明頁があり、説明文は大きな字で10行ずつぐらいの分量です。簡単な文章だったので、辞書なしであっという間に読めました。

 これまでにあまり見なかった変わったところでは、Actéon(鹿に変身させられたアクタイオン)、Capricorne(磨羯、上半身は羊下半身はイルカ)、Le Cochon jouant de l’orgue(オルガンを弾く豚)、L’Homme-grenouille(蛙男)、Un Monstre sans nom(名前不明の怪物)。

 掲載されている写真はいずれも魅力的で、現地へ行って現物を見たくなってしまいます。いくつかの幻獣を載せておきます。

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鹿に変身させられたアクタイオン     オルガンを弾く豚

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グロテスク               蛙男

2017-05-08

[]:Jean-Baptiste Baronian『PANORAMA DE LA LITTÉRATURE FANTASTIQUE DE LANGUE FANÇAISE―Des origines à demain』(ジャン−バティスト・バロニアン『フランス幻想文学展望―起源から明日まで』)

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Jean-Baptiste Baronian『PANORAMA DE LA LITTÉRATURE FANTASTIQUE DE LANGUE FANÇAISE―Des origines à demain』(La Table Ronde 2007年)

                               

 フランス幻想文学の基本文献として、M・シュネデール、P・カステックスと並んで、よく名前が出てきていた本。ようやく入手したので読んでみました。320頁ほどですが、細かい字でびっしりと印刷されていてかなりの分量。でも今回は音読もせず要約もせず、辞書を引くのも最小限にとどめたので、一日20頁ほどのペースで読み進めることができました。幸い知っていることも多かったのでその部分は早く読めたし、辞書的な感じで具体的な作家名や作品名が次々出てきて、あまり抽象的な議論がなかったので、読みやすかったというところはあります。

 特徴としては、時期を18世紀以降に絞っていること(中世を渉猟すると限りない)、1999年刊の本まで取り上げていて現代にも強いこと(この本は2000年の再版で、「1978年刊の初版にかなり改訂を加えた」と序文にある)、バロニアン自身がベルギー生まれとあってベルギー幻想文学に一章を割いて詳しく紹介していること。

 また冒頭(第犠蓮砲如幻想文学の定義について概観があり、併せてフランスで出版された主要な幻想文学論についても概要が紹介してあること。巻末にはさらに詳細に、幻想文学を論じた文献がリストアップされていること。フランス幻想文学を研究する人にとってはたいへん便利。こんなにたくさん幻想文学関係の本が出されていたとは知らなんだ。


 ここで簡単に、バロニアンの幻想文学の定義を紹介しますと(間違ってるかもしれません)、

仝諺枴験悗猟蟲舛曖昧で、いろんな意見があるが、一般的にはあまりいい評価はなく、文学としてはマイナーな存在、娯楽である。すでに流行遅れでSFなどにとって代られつつあるとも言われる。時代とともにどんどん変容を遂げていて定義は難しい。

幻想という言葉には、平穏な日常に突如現れた突拍子もないものという意味がある。現実に起こっているがそれが説明できず、説明できるものと説明できないものの矛盾が存在する。また宝くじや瓦が落ちてくるような偶然も幻想(fantastique)と言われる。

それが文学に適応された場合、説明できない、非合理、超自然、恐ろしいものといったニュアンスになる。が実際の作品には一括りにできない多様な性格があり、幻想文学というより変格文学と言った方がいいかもしれない。

の拈椶靴箸には融合するジャンルとして、妖精物語、驚異譚、熱狂文学、寓意譚、SF、ユートピア小説、ナンセンス物語、シュールレアリズムがある。


 といろいろと書きましたが、何と言ってもこの本のいちばんの特徴は、「パノラマ」というように、一人の作家を深く掘り下げるというよりは、群小作家も含めて網羅し時代の流れの中に位置づけていること、でしょう。作家名索引をざっと数えてみると700を越え、作品名リストは1250ぐらい。知らない作家や作品がたくさん出てきて実に有益な読書となりました。


 というわけで、新たに読んでみたいと思ったのは、次のとおりです。名前を知っていた作家はカタカナ、知らない作家はアルファベット表記、作品名はいちおう日本語に移してみました。

18世紀およびロマン派前期(第蕎蓮砲任蓮Jean-Pierre Claris de Florianの「ヴァレリ」(話者の女性が実は幽霊)とJean Galli de Bibbiénaの「人形」(陶器の人形が変身する)、P・ボレルの熱狂文学の傑作「ピュティファル夫人」、A・エスキロスの「魔法にかけられた城」、Léon Gozlanの「悪魔の未亡人」「130の女の物語」、ミュッセの兄ポール・ミュッセの「ナイトテーブル」「悪魔の生活」。

ロマン派(第珪蓮砲任蓮Ch・アスリノーの「快い響き、音楽の町」(ベルリオーズと共作『オーケストラの夜』所収)、Jules de la Madelèneのホフマンの音楽小説に似た「ロジータ」「ストラディヴァリウスの最後の時」、G・サンドの「ローラ、旅と印象」と象徴主義的な作品「穹窿」。

リアリズムの幻想としては(第絃蓮法Ch・バルバラの音楽小説「エロイーズ」(『9つの感動的な話』所収)、エリファス・レヴィの妻C・ヴィニョンの「怖い話」、デュマ・フィスにも「銀の箱」「赤毛のトリスタン」という幻想作があった。シャンフルーリの「蝋顔男」、A・ドーデの「金脳男」と植物の反乱を描いた「木石」。Léon Henniqueの「性格」(17世紀の過去を懐旧し亡霊と交流する男の話)、Jean Mornasの二重人格を扱った「妄想、我と他者」、Jules Claretieの良質な吸血鬼小説「蝋の手を持つ男」。

世紀末の幻想としては(第江蓮法▲薀轡襯匹痢サド侯爵夫人」、C・マンデスの「ゾハール」、O・ミルボーの「ジュール神父」「神経衰弱者の21日」、Edmond Haraucourtの「日記帳」「作品に閉じ込められた男」、J・リシュパンの「形而上的機械」、レニエの義兄Maurice Maindron「箙(えびら)」、G・ダンヴィルの「あの世の物語」、Antoine Monnierの珍妙な詩「銅版画と空っぽの夢」、Laurent Montesisteの「眩暈譚」、Victor-Émile Micheletの「超人譚」など。

大衆幻想小説としては(第詐蓮法▲蹈坤法七擦竜朷豕簡験悗侶羣遏崋磴さ朷豕粥廖⊆分の分身を殺す「超自然的殺人」、G・ルルーの真剣味に溢れた「盗まれた心臓」、ホフマン調で手に汗握る面白さのある「悪魔を見た男」、それに想像文学の傑作「テオフラスト・ロンゲの二重人生」、Jean Josephe-Renaudの短篇集「呪われたピアノ」、エジプト神話を題材にした「生きている針」、André Couvreurのエロティックな幻想小説「アンドロギヌス」、Maurice d’Hartoyの「青い男」、Pierre Frondaieの幽霊が語ったという設定の「運命」、Ernest Pérochonの丹念に作り上げられ雰囲気のある「幽霊」、M・サンドの説明不能の狂気に満ちた「ツァンツァ」、恐怖劇作家A・ド・ロルドの短篇集「悪夢」「震え」「蝋人形」。

詩的幻想としては(第讃蓮法Pierre Bettencourtの奇妙な妄想短篇集「狂気が勝つ」、Gilbert Lascaultの幻獣が登場したりする神話的諸作、Alexandre Arnouxの器物の怪が出てくる「変奏曲」、J・カスー「サラ」「星から庭へ」、André Beuclerの「三羽の鳥」、Ladislas Dormandiの「バベル通りの幽霊」「船長の幽霊」、Yve Régnierの「幽霊」、Robert Lebelの「千里眼」、A・ドーテルの「ジュリアン・グレヌビの幻想旅行」「神話年代記」、Lise Deharme「悪魔の400打擲」「すぐ近く」など。

民話的想像力としては(第湿蓮法Jean de La Varendeの「魔女」、R・クノーが絶賛したJean Blanzatの「偽造」「イグアナ」、Claude Avelineの「本当だが信じてはいけない話」。

ベルギー作家としては(第従蓮法G・エクーの「トニー・ワンデルの心臓」(『村祭』所収)、J・ロラン、ワイルドが絶賛した「絞首自転車」、晩年作「ルツェルン橋の死の舞踏」、F・エランスの初期短篇集「風の向こう」「目立たない光」「夜想曲風」、後期の「夢の眼」「世界の終り」、Marcel Thiryの「アンヌ・クエのための協奏曲」(『ありそうな話』所収)、R・プーレの呪われた家にまつわる短篇集「もう一度多く」、J・ド・ボシェールの「暗闇の悪魔」と短篇集「雪と夜の物語」、画家でもあるAlbert Dasnoyの幻想作「時の長さ」、劇作家Claude Spaakの異常な短篇を収めた「鏡の国」、André-Marcel Adamekのマジックリアリズム的で農村が舞台の「黒い庭の主」、Irène HamoirのH・ジェイムズを思わせる作風の短篇集「地獄の桶」、J・ステルンベルクの幽霊も死者も出てこない短篇集「不可能な幾何学」「恐怖の幾何学」「凍った物語」「あなたのせいで死ぬ物語」など、G・プレヴォの死の直前に書かれた長篇「落下点」、Jean Munoのベルギー文学の最高作「ブラバントの英雄の最低話」と枠物語の技法で人物が喜劇のように入れ替わり最後に背筋がぞーとなる長篇「サイコドラマ」。詩人としては、現実と夢を同一化する「夢を点す人」のRobert Guiette、ネルヴァルを思わせる「太陽の影響」のFernand Dumont、「亡き画家エミール」のÉric de Haulevilleらがいる。

現代の幻想小説(第松蓮砲任蓮Claude Louis-Combetの長篇「町の中心への旅」、N・デルヴォーの抑制が効いて創意に満ちた「空虚」、Patrick Ravignant長篇「幽霊の皮」、今日最高の幻視者と評されたMarianne Andrauの「義手」「驚きの光」、女流作家Yvonne Escoulaの追想に満ちたドイツ・ロマン派的な世界、F・トリスタンの千夜一夜風の味わいがある「無名の男のまじめで滑稽な物語」、G・O・シャトレイノーの「果樹園」、H・アダの「鏡の夢」「ミラビリア」など。

SF、思弁小説との境界線上にある作品としては(第Ⅺ章)、Jean-Pierre Andrevonの「夜から来る者」「死を待ち望む少年」、Daniel Waltherのカフカボルヘス的世界を描いた「蠍の夢」「顎と歯」、Serge Brussoloの「墓地」「骸骨博士」「毒の夜」「氷原通り」「幽霊を夢で見る人」など。


 探求書がどっさり増えて嬉しいのか悲しいのか。

2017-05-03

[]:四天王寺春の大古本祭りほか

 今年も四天王寺の春の古本市に、2日目に行ってきました。午前中は均一台を中心に回り、デジコレクションという店の3冊500円均一で、早々に出物2冊を発見。が2冊だと600円になるので、何とか残り1冊を見つけようと苦戦、時間を取ってしまいました。

F・ゴンザレス=クルッシ野村美紀子訳『五つの感覚―イタロ・カルヴィーノ追想』(工作舎、93年10月、167円)→五感を種にしたエッセイ集。文章が面白そう。

眞鍋呉夫『霧のきらめき―昭和期の文人たち』(KSS出版、98年11月、167円)→矢山哲治、種村季弘佐藤春夫石川淳、那珂太郎ら。

内田樹街場の文体論』(ミシマ社、12年7月、166円)

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 次も、私にとってはまずまずの買い物。一冊堂というお店(だったと思う)で。

金原礼子『ガブリエル・フォーレ詩人たち』(藤原書店、93年2月、1000円)→フォーレ歌曲の原詩、主としてフランス象徴詩について書いている。フォーレの歌曲は私にはまだ難しいので、この本を眺めながらゆっくりと聴いてみよう。裸本なので安かった。

 午前中はここまでで、古本仲間6人で中華料理屋の2回で昼宴会の後、いったん解散。私はしぶとく会場に残りました。3時ごろに強風が吹いてテントが飛ばされそうになっていました。

野見山朱鳥『曼珠沙華』(書林新甲鳥、昭和29年3月、300円)→処女句集。箱は壊れそうだが中はきれい。

丸山薫編『日本の名詩』(集英社、昭和45年9月、150円)→「恋と愛」「夢想と幻想」「旅」「鳥・獣・虫・魚」「音楽とスポーツ」などテーマ別の編集が面白い。幅広い詩人が収められている。

龍野忠久『パリ1960』(沖積舎、91年10月、600円)→山内義雄の教え子で、ちょっと変わった人のようだ。留学時代の面白いエピソードが書かれていそう。

小林惠子『解読「謎の四世紀」―崇神、ヤマトタケル神功皇后、応神の正体』(文藝春秋、95年9月、300円)→空白の4世紀が気になって。類書のなかでは読みやすそうだったので。

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 上本町の一色文庫で、ふたたび仲間3名が集合。いつもの百円均一棚で。

世界ユーモア文庫03『田辺貞之助訳エドモンド・アブー「山賊株式会社社長」/ベルナール「二ペンスの切手」』(筑摩書房、昭和52年12月、100円)→アブー作品は生田耕作が「フランス小説ベスト」にあげていたもの。翻訳が出ているとは知らなかった。

立木鷹志『女装の聖職者ショワジー』(青弓社、00年9月、100円)→ルイ14世時代の畸人の伝記。

坪内稔典『モーロク俳句ますます盛ん―俳句百年の遊び』(岩波書店、09年12月、100円)

乾正雄『夜は暗くてはいけないか―暗さの文化論』(朝日選書、04年1月、100円)

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 今月はオークションでたくさん買ってしまいました。

吉川順子『詩のジャポニスム―ジュディット・ゴーチェの自然と人間』(京都大学学術出版会、12年7月、2050円)

「ラ・メール 特集:わたしの詩論」(現代詩ラ・メールの会、90年10月、300円)→多田智満子以下女流詩人たちが自らの詩法について書いている。

デイヴィッド・ゴードン・ホワイト金利光訳『犬人怪物の神話―西欧、インド、中国文化圏におけるドッグマン伝承』(工作舎、01年3月、578円)→幻獣本の一環。

山宮允譯『紅雀』(内外出版、大正14年4月、500円)→「愛蘭新詩鈔」「英米新詩鈔」「寫象派詩鈔」「後期印象派の詩」「立體派の詩」「東邦詩鈔」、巻末に詩人の紹介がついている。

アンリ・ド・レニエ川口篤譯『深夜の結婚』(三笠書房、51年2月、1038円)→これでレニエの翻訳は全部入手できたと思う。

シギズムント・クルジジャノフスキィ東海晃久訳『弾犬里燭瓩瞭枯箪検戞河出書房新社、13年5月、1000円)

「別冊FAUNE 第3号」(村松定史、88年9月、330円)→村松定史氏主宰の同人誌。小さい雑誌だが銅版画を巻頭に添えた洒落た翻訳誌。ローデンバック「ヴェール」、フルニエ「肖像」ほか。

「別冊FAUNE 第4号」(村松定史、88年11月、510円)→ローデンバッハ「臨終の町―ブリュージュ」、レニエ「指環」、J・フェリー「中国の占星術師」ほか。

「別冊FAUNE第 5号」(村松定史、89年5月、300円)→ローデンバッハ「墓」、ネルヴァル「考察」、J・フェリー「カフカ、または『秘密結社』」ほか。

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 店頭では、大阪駅前第3ビルの永井古書店で、面白いものを見つけました。

『酔眼朦朧湯煙句集』(「酔眼朦朧湯煙句集」編集委員会、98年12月、108円)→種村陶四郎(季弘)、池内黙念(紀)らの楽しい句が満載。

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 奈良日仏協会の用事で、奈良へ出向いたついでに、もちいど商店街のフジケイ堂に入ったところ、ばったりと古本仲間と出会いました。相手は奈良に勤めてる人間なのでそんなに不思議ではないが・・・。

H・ジェイムズ蕗沢忠枝訳『ねじの回転』(新潮文庫、昭和59年11月、54円)