'11読書日記78冊目 『熱狂』リオタール

熱狂―カントの歴史批判 (叢書・ウニベルシタス)

熱狂―カントの歴史批判 (叢書・ウニベルシタス)

185p
総計23278p
トンデモ本かと思ったら、そうでもなくてむしろ面白かった。カント哲学の諸能力の間の移行を中心に扱いつつ、歴史哲学のなかの「導きの糸」と「徴候」を論じている。カントの批判哲学の中には様々なメタファー/類比が登場してくるのだが、それらは諸能力間を連関させる機能を果たしている。例えば、美は道徳的善の象徴であるとか、自然法則は道徳法則の範型であるとか。

[批判哲学の]審判者は、妥当性に対する諸々の権利要求の正当性を、互いに切り離すのである。こうしながら、彼は超越論的主観を島国的な諸能力へと分かち、あらゆる可能的対象の領野を群島へと分割する。しかしながら彼はまた[...]幾多の「移行」を探求しもする。

つまり、象徴や類比を用いつつ、カントは諸能力の間の関連を探りだしているのだ。本書の白眉となるのは第三章「熱狂を通じて何が打ち明けられるのか」である。そこでは、第一批判の認識論、つまり経験的な領域に限られて正当に用いられる悟性認識と、批判にはまとめられなかった歴史哲学との「移行」の問題が取り扱われる。中心になるのは『普遍史の理念』と『諸学部の争い』である。前者では、カントの歴史叙述が「導きの糸」であり実際の経験的な歴史学とは異なるとカント自身が言うことについて、また後者では、ドイツ市民がフランス革命に熱狂するということが歴史の進歩の徴候であるという表現について、考察が及ぶ。カントが進歩の徴候として認める熱狂は、興味深いことに、フランス革命の渦中にある人々の熱狂ではなく、それを専制的なプロイセン国家で見つめる市民が示した熱狂である。熱狂は、カントによれば崇高な感情である。崇高は美と違って対象に宿るのではなく、途方もないものや無秩序なものを見たときに、見た人の心の中に引き起こされる感情なのだ。崇高な感情を引き起こす対象は、道徳法則-自由の換喩なのである。つまり、途方もないものや無秩序なものを見ると、自分の中にある道徳法則-自由が持つ峻厳さをむしろ想起することで、おぞましさを覚えるのである。もちろん、そのおぞましさという否定的な感情は、むしろ道徳法則-自由への畏敬を引き起こすものとして肯定的に転換されるのであるが。それゆえ崇高は美と違って、あらかじめある程度の道徳的素質を開花させたものにしか去来しない感情である。

趣味の場合と違って、崇高の感情の要求する疎通可能性は、感性のもしくは想像力の共同性をではなく、実践理性、倫理の共同性を必要とするのである。ここでは、自然の並外れた大きさや力も、われわれの道徳的使命・自由に比すれば何ものでもないことを、名宛人[鑑賞者]に納得させねばなるまい。そして名宛人がこの論拠を理解すべきだとするならば、彼が自由のこの理念をおのれの内ですでに涵養しているのでなくてはなるまい。それゆえ、崇高に対する感受性はどこまでも審美的なものではあるが、倫理的教養における、すなわち「より善き状態への」人類の進歩の指標[徴候]として役立つことが出来るのである。

このようにフランス革命がもたらす熱狂は、歴史の進歩の徴候として機能している。ここにリオタールは、経験的認識としては進歩も進歩もない世界=自然と、道徳的理念に到達した世界=自由との間の移行を見出すのである。
第四章では歴史哲学がカントに言わせれば「小説」であることと、判断力批判での「小説」の評価の低さなどを比較していて、こちらも興味深い。ただ、第五章の極めてアクチュアルなパートは独自の関心に貫かれているのかなんなのか、よくわからなかった。あと、リオタールは基本的にウィトゲンシュタインの用語を使ってカントの再解釈を行なっているのだが、どうしてそないなことをする必要があるのかわてには分かりまへん。むしろちゃんと書いたほうがわかりやすかった気がするのだが。更に言えば、基本的に訳もよくない。カント哲学の用語がちゃんと踏襲されていなくて戸惑う。この訳者はドゥルーズ『カント哲学』も訳していて、それも法政大学出版局から出ているのだがひどかった覚えがある。解説はカントの(リオタールのではなく)「熱狂」について基本的な解説をしてくれて有益なのに、どうしてなんだろう・・・。悲しい。