『電撃!! イージス5』(その2)

 谷川流の文章は読みたいが頭と心にあまり負担をかけたくない、というニッチな欲求にピンポイントで応える『電撃!! イージス5』を読み返してたり。こんな趣向でもやっぱり谷川流だなあと思うのは例えば『この数日間、風呂も覗かなければ寝込みも襲わない、暗闇に連れ出そうともしなければセクハラの一つもしないとは、こんなことで一体どうやっていくつもりで?』「平穏に食事当番でもしてるさ」という女の子たちから一歩引いたスタンスで、とこれだけで済ませると誤解を招きそうなのでもう少し説明しとこう。
 逆瀬川秀明については、高崎佳由季よりはキョンかと。語り口は冷めているが行動は熱い。女の子のために体張って傷付く(どころか一歩間違えれば死んでる)ようなシーンはさらりと流される。あと、モノローグでは女の子たちから一歩引いたスタンスだが、行動を見ればけっこう積極的に世話を焼いているようでもある。第四話の行動はいちいち本気で病人を気遣っている人間のそれだし、第五話に至っては内面的にも随分と深刻に悩んでいると思しい(p208〜209)。いいお兄ちゃんだなあ。外見も非の打ち所がないし。シスプリ状態も夢じゃないぞ。そういえばゲーム版シスプリ1の兄も随分と冷めた(達観した、と言うべきか)口調であったとか。イージスも今後きっと『消失』みたいなのが来るね。
 モノローグだって読者に嘘をつく、でなくとも意図的に自分の感情を言い落とすというのは谷川流に関してはいいかげん常識だ。でなくとも誰だって、自分でも認めたくないことはあるし、実は信じていないのに信じているふりを自分に対してしてみせる、という程度のことはするさ。『ハルヒ』でキョンが心中どれほどハルヒに悪態をつこうが、もう誰も額面通りに受け取らないよね?

 科学者の祖父の実験失敗に起因する同居、というのはどうも『So What?』が思い出されてならない。イージスに微妙に好意的なのはそういう理由だったりもする。まあ、似ているからこそ嫌いになったりすることもあるから、理由というのはよくわからないけど。あとひーくんについては、自分の祖父のせいで巻き込んだってのと、知らなかったとはいえ直接的にはボタン押したのは自分なので、女の子たちに負い目だか責任だかを感じているという説はどうか。説も何も当り前の話かこれ。

桜庭一樹『GOSICK』III

 正しい「萌える探偵小説」ではないかと。正しい、というのは、パロディ臭やスカした嫌味(わかるだろ?)抜きで普通に萌える、という意味で。そして、萌え描写と探偵小説的趣向がきちんと融合している点で。
 今回は「電話越しに事件の話を聞いただけで解決」というすぐれて安楽椅子探偵的な趣向なのだが、そこに、電話ごしの会話ならではの萌え描写が絡むわけな。旅先で事件に巻き込まれてやむなく知恵を借りようと電話したのか、ただ声が聞きたかったのか、そんなことはあっさりとうやむやになる。知恵を貸す側にとっても、頼まれて知恵を貸したのか、電話をひたすら待ち侘びていたのか、なんてさ。あと、風邪っぴきヴィクトリカの電話越しの反応の初々しさといったらもう、丼めしの一杯や二杯。

 トリック。おどろおどろしい趣向の割に語り口があっさりしていて、剥ぎ取られるべき神秘がそもそも神秘に見えない、という点が問題か。筆力次第では『ブラウン神父』の一篇ぐらいにはなるだろうに。逆にいえばチェスタトンは語り口で眩惑するタイプなので、これはフォローになっていないわけだが。

 あと、どんな存在であろうとそこではタダの一生徒にすぎない、という意味で正しい学園モノ。ヴィクトリカは幼少の頃からずっと、家族にも屋敷の使用人にも人間の女の子とはあんまり思われてなくて、超自然的な恐怖の対象だったのですが、学園では小さな灰色狼をタダの女の子にする魔法が働いていて、一弥くんにとっては意地悪だけど気になる女の子だし、セシル先生もヴィクトリカを大事な生徒の一人としか見ません。欠けていたものがきちんと埋め合わされる感があります。長年の病が癒えるような。

 とまあ不満要素は見当たらないはずなんだけど、なんか妙に食い足りない。好きだけど。