『死なば諸共』に関する覚書1(井川耕一郎)

 ある男が吉原の遊女と深い仲になり、身請けすることを約束する。だが、その後、男は遊女に手紙を送る。「自分は財産を失い、約束が果たせなくなった。どうか私のことは忘れてほしい」。遊女は着物と金を男のもとに届けさせ、会って話し合うことを求める。すると、男は吉原に来て遊女に言う。「二人で一緒に死ぬことができたら、思い残すことはないのだが」。しかし、男には身請けするだけの金は十分にあった。彼は遊女の本心を見ようとして嘘をついていたのだ……。
 これが井原西鶴『諸艶大鑑』の中の一篇「死なば諸共の木刀(きがたな)」の大まかなすじである。四百字詰め原稿用紙で八枚ほどの短い作品だが、底無しの疑念にとり憑かれた男の姿が不気味な印象を残す。しかも、『諸艶大鑑』の序文にあたる部分には、「登場人物は仮名にしてあるが、その道に通じているひとには誰がモデルか分かるであろう」というようなことがもっともらしく書かれている。実録小説が持ついかがわしい生々しさ。一体、この物語をどうやって低予算の自主映画で実現すればいいのか。
 現代に置き換えて映画化するという手が、まず考えられるだろう。しかし、身請けできないので心中するという部分をどう翻案すればいいのか。『曽根崎心中』の最後に「恋の手本になりにけり」という一文があるが、江戸時代の心中が持っているそういう輝きを現代を舞台に描くことはとても難しい。
 この映画化に関する問題を解くために西山洋市が参考にしたのは山中貞雄だった。西山は、山中貞雄は「江戸の人々にとっての現代劇」をコンセプトにして映画を撮っていたのではないか、という仮説の上に立ってこう書いている(注1)。「そして、それが『現代的』に見えてしまうほど江戸の人々のセンスは現代人より現代的だったのではないか」。これは一見、山中に対してよく言われたという評言「ちょんまげを着けた現代劇」を曲解した屁理屈のように見える。だが、本当にそうだろうか。山中貞雄が生まれたのは一九〇九年。江戸時代は四十数年前までのこと、つまり、祖父母の時代のことなのだ。山中にとって、江戸時代は、想像力を働かせれば、自分との連続性が感じ取れるような時代だったはずである。
 以上のことをふまえて、西山は脚本の片桐絵梨子の助けを借りながら、映画化に向けてアクロバットを演じる。『死なば諸共』を撮るのに、江戸時代の完全な再現は必要ではない。必要なのは、山中貞雄のように過去に向けて想像力を働かせることだ。となると、ぎりぎり連続性が感じ取れる過去は、大正か昭和初期あたりになってしまうだろう。だが、それでかまわない。昭和初期の風景の上で江戸時代(刀、手紙、筆)と現代(キックスケーター、自動車)を出会わせればいいのだ。ちょうど手術台の上でミシンとコウモリ傘が出会ったように……。こうして『死なば諸共』は、現代への翻案でもなければ、江戸時代の再現でもない、ユニークな歴史感覚に基づいてドラマを展開することになる。

注1:http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20060826

注2:1898年生まれの伊藤大輔は自作『下郎の首』について論じた文章の中でこう書いている。「それは、遠い遠い昔の出来事ではない。現代とは遠からぬ、しかし、遠過ぎてはいけない。現代に接続している過ぎしある時期=われらの時代に血肉の感じを失わないでつながっている、ちょっとした昔=という狙いから、およそ百年あまり以前のこと、としたのであって、詭弁でも遁辞でもない、そうした意味の百年であったのだ。これには拠りどころがある。自分の父は安政の生まれだ。だから、それを基準として、それよりもちょっと以前、およそ我が祖父の時代と目安を立てたのである」(「花中舎独語・その三・喧嘩を買う」より)