渡辺護『少女を縛る!』について1・2(井川耕一郎)



『少女を縛る!』(78)というタイトルを聞いて思い出すのは、『谷ナオミ 縛る!』(77)だ。
当然、これから映画を見ようとする者の関心は、少女を演じる女優に向けられるだろう。
しかし、映画が始まってすぐに映る少女役を見て、たいていのひとは、ええッ、この子が主役?ととまどうのではないだろうか。
京富(シナリオには「置屋兼廓・京富」と書かれている)に売られてきた少女・きくを演じるのは、宮崎あすか――どう見ても地味で、主演女優に必要な何かが足りないような気がする。
谷ナオミにはその何かがあったのだが……。好き嫌いは別にして)
しかも、彼女が演じる役がどうにもぱっとしないのである。
冒頭、宮崎あすか演じる仕込みっ子のきくは、京富の階段で雑巾がけをしているのだが、一生懸命やっているわりにはところどころ拭き残しがあるのが気になる。
きっと、きくは京富の女将に何度も注意されているにちがいない。けれども、愚鈍だから、その注意がなかなか生かせないのだ。
(きくは女将に叱られたということしか覚えていないだろう。だから、いつも首をすくめておどおどしている)
さらに言うと、三分たっても、五分たっても、いや、十分たっても、きくはセリフらしいセリフを口にしない。女将たちの命じることに「はい」と答えるくらいだ。
こんな子が主人公で、この映画は大丈夫なのだろうか……と、出だしを見て心配になった観客が公開当時いたのではないだろうか。
中にはこんなふうに思うひとがいたかもしれない――たぶん、この映画は誰かひとりを主人公にするわけではなくて、『(裸)女郎生贄』(77)のように廓を舞台にした群像劇になるのだろうと。
ところが、映画はきくを迷うことなく主人公に選び、愚鈍な少女が思ってもみなかった道すじをたどって変わっていくのを描くのである。


映画が始まって十分を過ぎたころ、きくは女将(有沢眞佐美)の言いつけで、おゆう(しば早苗)が泊まっている茶屋「志村」に襦袢を届けに行く。
襖を開けたとたん、きくはあッ!となる。おゆうが客の杉田(三重街竜)に縛られているのだ。
「お客さん、乱暴しないで」と言ってすがりつくきくを突き飛ばして、杉田は言う。「おゆうはな、こうされるのが好きなんだ」「ちょうどいい。おゆうが悦ぶところを見ていくがいい」
きくは尻もちをついた姿勢のまま、おゆうと杉田から目をそむける……のだが、しばらくすると前を向く。
縄が食いこむ裸のおゆうのカットと、きくの目のアップが何度もくりかえし映る。
このときのきくの目のアップがただごとではない(撮影は鈴木史郎)。呪われたように釘づけになっていることがはっきり伝わってくるカットなのだ。
すると、突然、シーンが変わり、布団の上で腰紐を使って自分の体を縛っているきくが映る。
『少女を縛る!』というタイトルが予告していたシーンがこんなふうにやって来るとは……!と驚いたひともいたのではないだろうか。
こうして、私たちはきくがマゾヒズムの快楽にとり憑かれていく過程を息を殺して見つめていくことになるのである。
(ついでに記しておくと、『少女を縛る!』はそれ以前のどんな作品とつながりがあるだろうか。
渡辺護は『処女残酷』(67)、『女郎刑罰史』(68)、『情事のあとさき』(70/ただし、向井寛の名で監督している)、『(裸)女郎生贄』(77)というように遊廓を舞台にした映画を何本か撮ってきている。
また、それらの映画では、女郎が折檻されるシーンが売りとなっていたようだ。
だが、マゾヒストの女性を真正面から描いている点で、『少女を縛る!』は、他の遊廓ものとは異なっている。
内容から見て、『少女を縛る!』にもっとも近い作品は『猟奇責め化粧』(77)ではないだろうか。残っているシナリオによると、この作品は芹明香演じる主人公がマゾヒズムの快楽を追求し、ついには死に至るというものだったようである)



愚鈍であまりしゃべらない少女を主人公にしたドラマをつくるのは、かなりの冒険だろう。
『少女を縛る!』のシナリオを読むと、高橋伴明が苦労して書いたことがよく分かる。
たとえば、客の杉田に責められているおゆうをきくが見つめてしまうところ(シーン15)は次のようになっている。


  見るなと言われても、きくはどうしても目の前の光景に吸い寄せられてしまう。
おゆう「ああ、やめて! イヤ! もっと!」
  いじめられて、うれしさにすすり泣くおゆうが信じられないが、やがておゆうの極みに、きくは美しいものを見ている。


「おゆうが信じられないが」、「きくは美しいものを見ている」といった記述は、一般的なト書きの書き方からはずれている(高橋伴明は他のシナリオではこのような書き方はしていない)。
高橋伴明はきくの内面にまで踏みこんでト書きを書かないと、ねらいが現場に伝わらないと考えたのだろう。
きくの内面を探るような書き方は、続くシーン16にも見ることができる。


  異様な昂奮に眠れないきく。
  おゆうの喘ぎが、脳裏に響きわたる。
  苦しいほどの胸のときめき。
  下半身のわけのわからぬうずき。
  いつのまにかきくの指が花芯にのびている。
  何を思いついたのか、きく、腰紐で自分の足首を縛ってみる。
  そして再び指を使う。先刻よりさらになにか感じるものがある。


きくが自室の布団の上で自分を縛って快感を感じる芝居はこのあとも続くのだが、興味深いのは、高橋伴明がたっぷり二ページ使って書いた芝居が、映画では五秒の短いカットに圧縮されていることだ。


おそらく、シナリオを読んだ渡辺護は自分にこう問いかけたのだろう。
高橋伴明がきくの内面について書いたことにもちろん間違いはない。けれども、内面を説明するような芝居を役者につけて、それを丁寧にカット割りして撮っても、はたして面白い映画になるものだろうか……。
そうして、さんざん考えたすえに(渡辺護は悪あがきと言ってもいいくらい悩みに悩む監督だ)、ある方針にたどりついたにちがいない――高橋伴明がシナリオに書いたことを観客が推測するように誘導する表現を目指すこと。
もう少し具体的に言うと、渡辺護がシーン15〜16で目指した表現の要点は次の三つになるだろうか。
一つ目は、結果的に起きる出来事を圧縮して撮ること。
きくが腰紐で自分を縛って自慰をするシーン16を五秒のカットに圧縮するのがこれにあたるだろう。この極端な圧縮は二つ目、三つ目の要点と連動して意味をもつ。
二つ目は、カットとカットの間に飛躍があるようなつなぎ方をすること。
高橋伴明がA→B→C→Dというふうにきくに起きた出来事を丁寧に追って書いているとしたら、渡辺護は途中を端折ってA→Dという表現を選ぶ。そうすることで、観客にB、Cを想像するようにうながすのである。
渡辺護は、『ニッポンセックス縦断 東日本篇』(71)のときにカットとカットの間に飛躍があるつなぎ方の面白さに発見した、と語っている)
三つ目は、きくの内面を徹底的に排除したカットを撮ること。
シーン15で縛られたおゆうに見入ってしまうきくの目を横から撮ったカットは、見る者に強烈な印象を残すのだが、この目のアップはかなり寄りすぎの感じがする。
照明のせいなのか茶色に見えてしまう黒目や、まばたきするまぶたの動きなど、人体の一部としての目ばかりが気になるカットになっているのだ。
「目は口ほどにものを言う」というが、シーン15の目のアップにはこの言葉があてはまらない。きくの内面を排除したカットになってしまっているのである。
しかし、そのことが逆説的に内面にこだわるきっかけとなっていると言ったらいいだろうか。
つまり、きくの目のアップから内面が読み取れないことが、「一体、彼女の中で何が起こっているのだろう?」という問いを生みだし、その問いが私たちにとり憑くのである。