かもしれないブログ

月一更新です。

インドネシアのこと。

昨年の3月にインドネシアに行っていた。

実はその前に仕事を辞めていて、インドに行ってみようと思っていたのだった。

でも、それは今考えても結構無謀な事だった。海外はおろか、沖縄にも行った事が無いし、それに飛行機に一人で乗った事も無かったからだ。チケットの取り方から分からなかった。

正確に言えば、今もチケットの取り方が分からない。ビザの事、パスポートの事、一年前は何となくわかっていたのかもしれないけれど、今はもう完全に分からなくなっている。

そんな状態の僕が、どうやってインドネシアに行けたのか、という話から始まる。

インドネシアには一人で行ったのではなくて、実はもう何度もそこに足を運んでいる先輩と一緒だったのだった。そこには、先輩と親しくしているインドネシアの方も沢山おられて、いろいろな事をお世話して頂いたのだった。

僕は、初日から鞄を外出先で忘れてくるなどして、彼らから「のび太」のあだ名を付けられるタイプの人間なのだけど、本当に彼らの助けが無かったら僕はもしかしたら日本に帰ってこられなかったかもしれない。(それはそれで良かったかもしれないけれど)




海外に出るのは始めてだった。人生の殆ど全てを日本海側で過ごした僕にとって、インドネシアはとても過ごし易い所だった。インドネシアと言っても、東西にとても長いので、ここでは滞在したデンパサールという所の話をしようと思う。

デンパサールというのは、バリ島にある街で、国際空港がある。オランダ領時代の建造物が街にあって、そこは市民の憩いの場となっていた。



気候は、日本で感じていた9月下旬から10月頭くらいの感じで、湿度が低いせいか赤道が近いはずなのに滞在中殆ど汗をかかなかった。風もさらっとしていて気持ちが良い。夜は少し寒いくらいかもしれない。

デンパサールはバリ島にあるだけあって、観光地化されていて治安も比較的良いらしい。でも、夜に外食に行った際には、現地の人から「絶対に離れたらいけないよ」と言われた。それは、多分僕の注意力を知っての事だと思うのだけど、それでも日本人が一人で夜に歩くのは危険なのかも、と感じた。

夜に一人で歩いても大丈夫な国って、日本以外にどこかあるんだろうか。

それは良しとして、僕の印象に残っているのはジャカルタだった。



(ジャカルタで泊まったホテルから見えたアンテナ。めちゃくちゃでかい)

デンパサールは平和な感じなんだけど、ジャカルタはごったまぜで、何ともジャカルタジャカルタしていた。都市という無機質なものと、人間という生物がいっしょくたになっていた。

あー、人間はこういう風にも生きれるんだなー、と感じたのだった。

印象的だったのは、車の交通量の多さ。デンパサールも交通量は少なくはないけれど、走っている車は殆どが新車ばかりで、しかも改造をしているものは殆どいない。皆どノーマルな新型に乗っていたのだ。皆と言っても、車を購入できるのは市民の中の少ない人達だと思うのだけど。それでも、車のマナーが悪いなと感じる事はあまりなかったように思う。

ジャカルタは、もうそれはそれは様々な車というか乗り物が走っていた。バイク、四輪、やたら音と煙を出す三輪、あと、二階建てバスくらいの高さまで干し草か何かをリヤカーの荷台に積んで、それを引っ張って歩く人もいた。

片側2車線、3車線あるような広い道を、車や大きなバスが走る中を、一人の男性(年齢は多分40代前後で、すらっとしていて長身だった)がそのリヤカーを引く姿は、何故か今も僕の眼に焼き付いている。

あの人は、一体どういう生活をしているのだろう。どこで生まれ、何をしてきて、普段はどこに住んでいるのだろう。あの山のように積まれた干し草をどこに運んでいるのだろう(そこはジャカルタの街中で、田畑のある所からは遠く離れていた)。普段、何を考えているのだろう。何語で喋るのだろう。友達はいるのだろうか。奥さんは。子供は。

僕が仮にジャカルタに生まれていたとしたら、まず間違いなく車を運転する人、させる人ではなくて、彼のような人生を送っていただろう。彼はもしかしたらもう一人の僕だったのかもしれない。

今、日本に帰って来てからも、時々彼の事を思い出す。もう、おそらく二度と見ないであろう彼の事を。

遠く海を離れた場所、土地、人、生活。そこに思いを馳せる時、僕は何とも言えないじんわりとした気持ちになる。

あー。あれはほんとだったんだなあ。と。




交通量の話が出たついでに、交差点の話もしておく。

驚いた事に、交通量の多い交差点でも信号を設置して無い場所が多い。じゃあ、どうやって交差点で車が交差するかと言うと、人が交通整理をするのだった。

それも、警察官とか警備員のような制服を着た人ではなくって、路上生活者のような人や、若者。僕が見たのは皆男性だった。

年齢は若いと17歳くらいから40代くらいまで。若者はグループを作っているようで、交代交代で交差点に出て来ては、片手でクルマを停め、べつの手で曲がりたい車、道を横断したい車を通していた。そして、車のドライバーが交差点を渡る曲がる際に、彼らにチップを渡すのだった。

ジャカルタでは交差点を渡るのにもお金がかかるのだ!(全てのドライバーが払っているようでもなかったけれど)

クラウド化とかあらゆるものの電子化、ID化が進んでいて、それでコントロールしようという流れになっているなーと僕は勝手に思っていたのだけど、それはやっぱり日本と言う特殊な環境の中にいるからなのかもしれない。

日本は特殊だったのだ。


向うでは、スポーツカーや車高を低くしたセダンなどは見なかった。よく見るのはコンパクトカー(デンパサールではFITがめちゃくちゃ多かった)と、あとはCRーVとかJUKEとかいったSUVタイプ。(エクストレイルはあまり見なかったなぁ。)

最初どうしてだろうと思っていたけど、クルマで移動してやっとわかった。

道がガタガタなのだ。場所によっては、畑の畝のようにわざと道を盛り上げて、車がスピードを出し過ぎないようにしていた。

ジャカルタでは、裕福な人たちは、そういう人たちで集まって住んでいて、その周りをゲートで囲っていた。ゲート内にもそういった畝的なものがあったから、そういった畝には、もしかしたら防犯的な意味もあるのかもしれない。

日本に居る時は、なんで各メーカーがこぞってSUVを出すのだろう。しかも、JUKEとかCR‐Vとかいった車高が高い(だけ)のような車を。と思っていた。

何でああやって車高を上げたがるのか不思議でたまらなかったけれど、あれは日本だけで売ってるんじゃなかったのだ。当たり前だけど、日本より海外市場の方が販売台数は多くて、しかも今伸びている新興国は道路が日本みたいじゃないのだ。

日本みたいなぴたーっとした道、なんて、世界ではめずらしいんだな、と思ったのだ。

行ってから約一年が経つ。

やっと、少しずつ、読み解いていけるようになったのかもしれない。

そして、またいつかインドネシアに行きたい。

というか、住みたい。