ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

国際聖書フォーラム2007 その2

本論に入る前に、国際聖書フォーラム2007にまつわる感想などを、少し記してみたいと思います。

1.主催者の並々ならぬご苦労とご尽力

どんな分野であれ、海外から著名な研究者を一定数、招聘するのは、大学や学会レベルでも大変なことですが、日程の調整、聴衆に合わせた講義内容、人の集まり具合、会場の選択など、キリスト教人口が極度に少ない日本において、その困難さは並大抵ではありません。では、日本のキリスト教は弱小団体なのか、といえば必ずしもそうとも言えず、知識階層や財界人の中に少なからぬキリスト者や聖書読者が含まれ、一方で、一種のキリスト教批判の文筆家や思想家も目立つことを考えれば、その影響力には慎重にならざるを得ないでしょう。と同時に、日本のキリスト教が危機的状況にあるとしばしば指摘されている昨今において、内容が啓蒙的であると共に、長期的に見て少しでも多くの人々を惹きつける方向を志さねばなりません。特に、昨年の初回が予想以上の大成功だっただけに、よりその成否が問われるという点で、2回目は緊張を伴うものではないか、とも思います。

今回はまた、開催日が平日であったことから、大学関係者(聖書学やキリスト教学などの専門家や研究者)は、恐らく本業もあり、出席が難しかったかもしれません。それに「そういう話なら、海外の学会で専門的に聴こう」という選択もあり得ましょう。他方、一般聴取者にとって、今回の講義者はスコットランドアメリカからの学者5名であったため、去年とはやや客層が違うであろうことは充分予想されました。

企画を知って私はすぐに申し込んだのですが、聖書協会のスタッフがあちらこちらで広報活動を行っているのを見て、これは大変だろうなぁ、と遠くで密かに思っていました。翻訳部スタッフのお一人である高橋祐子さんが、去年と同様、会場でお声をかけてくださったので、お話ししてみると「初めはそう思いました。でも最終的には、ぴったりおさまりました」とのことで、日頃の地道な積み重ねと信頼が、こういう時に物をいうのだろうと思いました。陰ながらの力が働いているのですね。

改めまして、この場を用いて感謝申し上げます。

2.書籍販売と写真パネルの展示

講義は70分で質疑応答は20分という時間は、大学の講義と同じなのですが、英語を聞き取りつつ、時にはスクリーンで日本語訳に目を向けて確認するという作業は、初めての内容をしっかり理解しようとするだけに、疲れるものです。去年もそうでしたが、休憩時間がたっぷりとってあるところが、この聖書フォーラムのよい点です。頭を充分休めることで、理解も深まるというものです。特に、古典中の古典である聖書の詰め込みは、百害あって一利なしです!!

休み時間には何をするか。私の場合、忘れないうちに講義録の注文書を提出すること、それから書籍販売のコーナーで出版物をチェックすることです。今回は、先回よりも小さなコーナーでしたが、それでもさまざまな書籍が所狭しと並べられていました。

やっぱり欲しいな、と思ったのは、ミルトスのイスラエル写真集や日本聖書協会ご自慢の『パノラマバイブル』でしたけれども、上質だけに高い!!研究者なら当然、研究費から購入するのは仕事のうちなのでしょうが、私の場合、それが専門ではありませんので、図書館を利用するしかないですね。その図書館がまた問題で、案外じっくりと眺めて楽しむ機会になかなか恵まれないのが、悲しいところです。

というわけで、今回買ったのはギリシャ語の聖書朗読(といっても抜粋ですが)のCD2枚セット一組(Jonathan T. Pennington, Readings in the Greek New Testament”)と、サンパウロ出版のアンリJ.M.ヌーエン著『両手を開いて』(“With open hands”)という祈りに関する本一冊でした。旅費、宿泊費、食費、講義代金、レセプション費用、主人へのお土産代など、すべて私費だとこの程度で我慢せねばなりません。でも、独身の頃に比べれば、ずいぶんな贅沢です!!

ヘブライ語のCDは、ミルトスの「創世記」「詩編」「イザヤ書」を持っていて、暇をみては朗々たる音の響きに身を浸しています。(本当は、日課の勉強として毎日継続的に10分ずつ聴く計画を立てていました。ところが、そういう勉強法は、学生時代ならともかく、細切れなので機械的になってしまい、味わうところまでいかないのです。)ホームページを探すと、ギリシャ語でもヘブライ語でも無料で聴ける聖書朗読サイトがあり、一応はダウンロードしてありますが、場所を取るようでもCDの方が、セットする間に「よし、聴こう!」という気分になれますから…。(ちょっとした手間暇をかけるかどうか、というのは、多忙な現代にあっても,勉強に向かう姿勢に違いが出ます。昔、鉛筆をナイフで削ることで、勉強への心構えを整えていったのと同じです。)

ギリシャ語は、もちろん聖書も参考書も持っていますが、なかなか勉強できないので、音声だけでもと思い、今回ようやく入手できてうれしいです。少なくとも去年7月までは、京都大学近くの某キリスト教書店ですら、ヘブライ語はあってもギリシャ語のCDがなかったからです。

本は、表紙がシンプルで上品だったので、思わず買ってしまったのですが、後でAmazon.com.で調べると、当たり前ですが英語版がありました。残念!でも、日本語訳がすばらしいので、充分意味があります。この本の良さは「黙想のための問い」のセクションにあります。概してカトリックの本は、黙想や霊性に関するものが特に優れていると思います。長い伝統の蓄積からくる経験知でしょうか。

さて、書籍チェックと買い物が終わると、パネルを眺めて過ごします。去年は、エマニュエル・トーヴ先生の奥様が描かれた聖書物語に基づく絵画展でした。今年は、写真家の横山匡氏の写真パネルが数十点、展示されていました。イスラエル、トルコ、ギリシャなどの遺跡や風景や自然などで、イエスの生涯とパウロの宣教をテーマに、聖書引用と共に簡潔な説明が添えられていました。はじめは時間の許す限り一通り眺め、その後、メモをとりつつ再度見て回ります。今年3月上旬にイスラエルを旅行しましたが、自分が訪れた場所が、そのままパネル写真になっているのを見て、一種独特の感慨がわいてきました。

子どもの時から一流のものに触れなければならない、とよく言われます。その点、私は後悔が大きいです。育ててもらったのに酷な話で、親はあれでも精一杯だったとは思いますけれど、生育環境の違いというものは、この歳になるとその差を歴然と反映します。ですので、こういう写真を拝見できるだけでも僥倖ですが、そのすばらしさに感動するとともに、中原中也の「あゝ おまへはなにをして来たのだと……吹き来る風が私に云ふ」(『山羊の歌』「帰郷」)を想起せざるを得ません。

ちなみに、横山氏の写真は、日本聖書協会のホームページでも見られます。
http://www.bible.or.jp/common/photogallery/index.html.

余談として…。聖書を書き写して味わう『写教聖書』という本が、去年と同様、隅っこで売られていたのですが、これ、売れるのでしょうか?アイデアは奇抜ですけれど、同じ事なら、聖句で掛け軸の書でも練習していた方が実用的ですし、果たして最後まで使えるのかな、などと思ってしまいます。私の聖書は、あちらこちらに書き込みがいっぱいあって(聖書関係の本を読んだ時に、参考になる説やヘブライ語ギリシャ語を記入するので…)、写教どころではないのですが、それ以上に、翻訳の改訂版ができる度にこの本も改訂しなければならず、コストが無駄になるかと思います。もったいないなぁ…。

明日は、レセプションでお隣の席だったヴァイオリニストのお母様との会話と、アジア各国からの聖書協会総主事との再会と新たな出会いについて書く予定です。