ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

キリスト教がマラヤに伝えたもの

昨日の「ユーリの部屋」に関連して、もう一点、是非とも書き記しておきたい私なりのエピソードがあります。
マレーシアとの関わりは、プロフィールにも簡単に書いたように、大学院修了後の1990年4月に、国際交流基金の派遣により、マラヤ大学予備教育課程でマレー人学生のべ300名ほどに3年間日本語を教えたことがきっかけです。私自身の希望というよりも、当時それほど日本でよく知られていなかったアジアの国で若い時期に仕事をするのも、一つの経験になるかもしれない、程度の気持ちでした。それ以上に、大学に残って本ばかり読んで勉強していても、これ以上の新しいアイデアや発想は自分からは出てこないという思いが強かったためです。マレーシアという国の選定は、従って、先方(国際交流基金)の意向によるものでした。
当時は、マハティール政権下で1981年から始まったルックイースト政策が進行中で、日本側も、アジアの新盟主としてのマレーシアの存在感が上昇しつつあることに注目し、かなりの経済的技術的投資を行っている最中でした。ですから、2003年にある国立大学の名誉教授がおっしゃった「あなたは、一番いい時にマレーシアにいたんですよ」という言葉は、まんざら間違ってもいないかと思われます。問題は、マレーシアを1960年代から研究されていた先生ならそう言えても、私の出身大学では、派遣前も帰国後も、「もうこの人駄目だね。あんな国にいたんだから」と言わんばかりの雰囲気が一部にあったことです。世の中は流動的で、特に基盤のまだ脆弱な面も少なくはない東南アジアに対しては、決して日本の価値観だけで見くびるものではないと肝に念じているのは、そういうギャップに私自身が遭遇してかなり悩んだからでもあります。
それはともかく、1990年前半期に、マレーシアの首都圏にあるメソディスト教会で、私が大きなカルチャーショックを受けたのは、教会で配布されている印刷物を通して、中高生に対する学習支援がかなり高度なレベルで具体的になされていたのを知った時です。この教会には、大臣や有名な国会議員も所属していて、ボルボやベンツに乗って教会に来るような裕福な人も含まれていました。ですから、この教会で実践されている教育プログラムは、必ずしも「第三世界の貧しいアジアの子ども達への学習支援」ではなかったのです。むしろ、アメリカやカナダやイギリスなどへ留学するのが当然だという子弟も、少なからずいました。日本で読んでいた東南アジア向けの援助活動とは、対象も内容も大違いで、本当に驚きました。

驚いたもう一つの理由は、最近は凋落しているものの、少なくとも私のいた頃には、マラヤ大学はマレーシアで最古で最高の大学だと言われて、人柄も学力も家庭環境も、政府によって選抜されたマレー人学生が集まっているのが予備教育課程だと聞いていたのに、それでも、試験になれば消しゴムを持ってこない学生が必ず何人かはいて、こちらの監督もよそに、手をのばして隣の人から消しゴムを黙って借りて使う有様だったからです。「それはカンニングと見なされるから、自分の消しゴムを持ってくるように」と何度注意しても、それがどうして問題なのかすらわかっていないようでした。(これが「政府派遣留学生候補か」)と呆然としたものです。

ここで私は、マレーシアの首都圏中上層の英語使用のクリスチャンとカンポン出身の多かったマレー人との間で、通俗的かつ単純平板な比較をしようとは思いません。しかし、そのメソディスト教会に置かれていた印刷物を見た限りにおいては、同一国内でこれほど異なる観点からの教育理念と哲学があるのかと、そちらの方に大変なショックを受けました。勤勉であれ、身の回りをいつも整理整頓し、規則正しい生活をせよ、授業はよく予習復習をして試験も早めに準備せよ…。ここまでは、マレー人学生もよく従っていたことですし、日本でも同じです。しかし、その先が違いました。「物事は批判的に創造的に考えよ」「何事もその場で鵜呑みにせず多方面からよく判断せよ」「人前で発言する時には、証拠となる論拠をきちんと挙げよ」「異なる立場や反対意見にもしっかりと耳を傾けよ」「感情に流されるな、論理的に思考せよ」「たとえ少数派でも勇気を持て」「自由には責任が伴うが、恐れることはない」「人々に対しては公平に接しなさい。宗教や民族や出身地や立場などで差別してはならない」…等々でした。(私が接しているマレー人学生に欠けているものは、これだな)と即座に思ったのですが、それをどのように醸成したらよいのかもわからず、結局は、日々の業務をこなすのに精一杯の毎日でした。
とどのつまり、ミッショナリー達がマラヤにもたらした教育は、実はこういう‘近代的思考’だったのでしょう。教会で出会う人々との方が、仕事で出会うマレー人より、遥かに話が通じやすく、付き合う上で気分的にもかなり楽だったのは、単に英語が通じるからとか、信仰を同じくするから、という次元の問題ではなかったと思うのです。これは重要なポイントです。特にメソディスト学校は、マレーシアの教育において顕著な貢献をしました。ここから有為の人材が多数輩出されたのも、当然といえば当然でしょうか。

当時、日本でマレーシアのキリスト教の話をしようとしても、どこかひっかかって通じにくかったのは、一方的にキリスト教だけでマレーシアの事情を判断しようとする熱心なクリスチャン達に戸惑っていたことがあります。または、「援助の対象としての貧しいアジア」という図式も根強かったと思います。あるいは、宗教一般に対する誤解や無知が広まっていたその頃の日本社会の実情もさることながら、キリスト教会といえば「悩みの深い人々が行くところ」「トラクトを道端で配り歩く人達のいるところ」という偏った認識を持つ人々もいたからなのではないかと思われます。本来、キリスト教は強い社会的原動力を有するため、脅威に感じたり怖れたりした為政者が、信徒を弾圧したり迫害したりしたのに、です。

ところで、最近のWCC(世界教会協議会)総幹事コビア師の進退問題についてのニュースには驚きました。
コビア師は、CCM(マレーシア教会協議会)主催のマレーシアでの会合にも出席されたことがあります。また、アブドゥラ首相に対して宗教的少数派への理解を求めるよう書簡を送ったこともあります。会合の冊子は、CCM総幹事が2005年11月6日、来日の際に直接手渡してくださいましたし(“Another World is Possible”Berita CCM Special Issue, (n.d.))、首相宛書簡の写しは、CCM月報に掲載されていたので、手元にあります(CCM Newslink, September 2006, p.2)。
アフリカ出身とのことで、いわゆる白人前任者とは異なった第三世界での活躍が期待されていたらしいのですが。ニュースによれば、どうやら博士号取得の件にも疑惑が持たれているようで、もしそれが本当だとしたら、相当深刻な問題です。
とにもかくにも、何事も正直が一番、そして、人も自分も裏切るような行動に出ないことですね。それと、分をわきまえて誠実に任務を果たすこと、これに尽きます。
こういう事態になると、私自身、やはりカール・ヒルティの著述が身に沁みてきます。私事ですが、2003年までは、ノートに抜書きしたヒルティ名言や英語や日本語での短い祈祷文などを、繰り返し読み返す日課を持っていました。先程、その頃のノートを読み直してみて、いささか懐かしくなりました。2004年以降は、格段に視野も交際範囲も広がったのですが、一面、それ以前の落ち着いて慎重に取り組む姿勢も、自分からは大幅に欠けてきたようにも思うのです。