ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

マレー語の神の名をめぐる裁判(2)

というわけで、昨日のマレーシアでの『ヘラルド』裁判で、異教徒、特にクリスチャンが、マレー語のキリスト教文献で"Allah"の用語を使うことに反対していたマレー当局や一部ムスリムの強硬な態度は、ようやく公的な裁判によって覆された結果となりました。もちろん、昨日も書いたように、その結果に対するムスリムからの反論も出ています。
本日の“Lily's Room”では、主にマレー語メディア報道と、それに対するエリート・ムスリムからのコメントを掲載しておきました。ご興味のある方は、どうぞお読みください(http://d.hatena/ne/jp/itunalily2/20090228)。
本件に関する考察の要点は、次の通りです。
(1) 1980年代から始まったこの法規制は、いかなる背景を要因とするものだったのか。
(2) キリスト教側に相談なしに、次々とクリスチャン共同体に対して法規制がなされたが、その具体的な根拠が明らかにされていない。
(3) 「神の名」を共有することで、いかにもクリスチャンがムスリムに‘ちょっかい’を出しているかのような意見が、日本国内のムスリム寄りのマレーシア研究者の中にもたびたび見られたが、その場合、その証拠が提示されていない。
(4) 1980年代後半に、キリスト教の指導者層会議がクチンやクアラルンプールで開催され、その討議結果は、文書にまとめて、当時の首相マハティール氏にも提出されている。なぜ、今回の一連の騒動において、マハティール氏は沈黙を保っていたのか。
(5) 結局のところ、「キリスト教ムスリムの感情を損ねる」という「無知なるマレー人ムスリム」による申し立てにより、約30年ほど繰り返しの議論や同じ抗議が続けられてきたのだが、そのエネルギーロスは、一体誰が責任をとるのだろうか。なぜ、ムスリム指導者は、きちんと「無知なる我が国のムスリム」を教育してこなかったのか。(ユーリ注:「無知」とは、私の用語ではなく、エリート・ムスリムが自ら述べているものです。)
(6) ムスリムは、イスラームをおとしめたり批判したりされた、と感じた場合には、暴力行為を伴っても抵抗を示すことが許されている、あるいは、義務づけられているが、同じく、「異教徒であるムスリム」によって、クリスチャン側が、十字架をミッションスクールから外されたり、教会を破壊されたり、聖書を没収されたり、さまざまな「感情を害する」思いをさせられてきても、マレーシア国内に限れば、暴力行為を伴う抵抗を示した記録が、筆者の知る限り、ない模様である。この相違は、どのように説明されるのだろうか。
(7) この度、20数年前の内務省による規制が、条件付きで撤廃されることになったのだが、1.規制によって、この期間、問題はおさまっていたのか 2.今回の撤廃によって、新たな問題が発生する可能性はないのか 3.ムスリムから不満が再発した場合、別の規制がかかる恐れはないのか、などが不明である。言うまでもなく、規制をかけることで、ムスリム共同体を優位に位置づけようという意図は明らかである。

さて、こんなことをしている間に、学会発表が迫ってきました。今日もこれから、締め切りの原稿を書かなければなりませんし、その他の予定もあります。では、この辺で失礼いたします。

PS:
(3)について、補足説明をさせていただきます。
過去11年ほど、この種のテーマを発表する度に感じていたことの一つは、聖書もまともに読んだことのない人が、研究費を「獲得」したからという理由でキリスト教について研究しようとか、とりあえず「インテリの知的態度」として、宗教に関しては、イスラーム以外は批判や攻撃の対象にしてやろう、鼻であしらい、笑ってやろうという態度が、ちらちら見られたことです。
これに対しては、昨日の朝日新聞夕刊「日々是修行」で、佐々木閑花園大学教授が、仏教の立場から直言されていたので、ここに引用します。
「だがそんな日本でも、宗教教育だけは別扱いだ。」「教育機関で宗教を教えることに強い制限が課せられている。」「世に渦巻く様々な宗教の本質が分からないと、社会情勢を読み解くことも、自分自身の拠り所を決めることもできないのだ。」「必要なのは彼らに、『自分たちは、宗教教育を受けていない人間だ』という自覚を持たせることである。その自覚があれば、『まず学ぼう。いろいろ知って、それから考えよう』という思いがわく。そしてそれが、宗教を客観的に見る目を養うのだ。」
私が言いたかったことも、これに尽きます。「こっちにわかるように発表しろ」「こっちが知らない内容を発表するな」と、まなじりつり上げて怒ってきた国立機関の研究者達は(参照:2007年9月26日付「ユーリの部屋」)、私に不満や鬱憤をぶつける前に、まず「自覚」から持っていただきたかったです。それこそ、マレーシア研究のこの分野に関する、世界水準から見れば恐ろしいほどの遅滞を招くことも防げたのではないでしょうか。今では、もう時遅し、ですが。