ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

帰郷しました

東京へは、用事があれば行きますが、どうみても住む所じゃないですね。昨夜、自宅前に降り立って、そう思いました。毎度のことですが...。
こちらは、広々とした緑多き静かな環境で、毎朝毎晩、深呼吸し、湧き出る名水を飲んで暮らしています。食べ物だって、大阪の方が絶対においしく、量もたっぷりしています。
東京は、人も情報もお金も集まっていて、確かに洗練されているのかもしれないけれども、ホテルの部屋は狭いし、道も狭いし、人は多いし、空気もまずくて深呼吸できないし、単純に用件のためと割り切らなければ、私にとって長期滞在には向きません。
せせこましいところに住んでいると、考え方も狭くなってこないかと心配なのですが、恐らくは余計なお世話、でしょうねぇ。

はい、帰ってきました!今回は、三泊四日の東京滞在です。東京といっても、三鷹周辺でしたので、都内感覚からは、「自然の豊かな」と形容がつくのかもしれません。
今回の「目玉」は、中近東文化センターと多磨霊園にある矢内原忠雄先生のお墓参りでした。行けてよかった、としみじみ思います。
中近東文化センターは、池田裕先生が以前から何度かニューズレターを送ってくださっていたので、(これは、いつか必ず来なさいよ、という意味なのだ)と解して、時機到来をねらっていました。学会発表前の緊張した短時間でしたが、ぐるっと一巡してみると、確かにおもしろかったです。雰囲気が静かで落ち着いていて、非常に学ぶところ多く、展示にはマレーシアのある箇所と似ている面もあり、人間文化の広がりを感じさせられました。
多磨霊園は大公園なみの広さで、天気に恵まれたことが幸いでした。けれども、矢内原先生のお墓を探すのに2時間ぐるぐる歩き回り、文字通り、足が棒のようになって大変でした。新渡戸稲造氏や内村鑑三氏は、すぐに見つかったのですが。近くのお店で買った花束を手にしながらも、もう、今回はあきらめて帰ろうかと何度か思ったぐらいでした。
が、実はそこが矢内原忠雄先生の矢内原先生たる所以だったのです。結論を先に言えば、東大総長という公人でいらっしゃったのに、実に質素簡潔な、しかも気品あふれる控えめな白い大理石のお墓に、ただ奥様(愛子様)のお名前だけが刻まれていたのでした。

清き岸べに
 矢内原家

探している最中、近くでお墓参り中だったご年配の女性に尋ねてみると、国に貢献した人々は「一種」という区画にお墓があるそうです。事前にメモしておいた矢内原家は、「二種」区画に位置していました。そこへ話が及ぶと、突然、声を潜めて「それじゃ、なにかご事情があったんでしょう。でも、そのヤナイハラって人、料理人かなんかしていたんですか?」と、そのおばさん。「いえ、著名人リストにお名前が載っています。東大総長を務めていらした方なんです」と答えると、「はぁ、東大ねぇ....。いえ、ね、有名な俳優でも、家の事情で一種に入れない人もいるから、そういうことなんじゃないですか」とおばさん。
(う〜ん、全然伝わっていないんだなあ)と内心がっかりしつつも、(まあ、世間って案外、そういうものなのかもしれないなぁ)と思い、「でも、今年、東大で、矢内原先生の記念行事があったみたいですよ」と再度念を押してみると、「それは知らないけど、その番号でいくと、この区画にしかないはずだから、もう一度探してみては?管理事務所で案内してもらうといいでしょう」と教えてくれました。
疲れた足を励ましつつ、管理事務所へ歩いて行くと、係のおじさんが、すぐに古びた手書きの帳簿のようなものを出して、「ここが矢内原家です」と指さしで教えてくれました。どうやら、区画の場所は正しかったようです。そこで、「あ、○○さん家はどこですか。その家の方に、さっきお会いしたんですけれど、じゃあ、その近くなんですね?」と、先程のおばさんの家の名前を探してみると、確かにありました、ありました。
つまり、それほど目立たないお墓だったということです。もっとも、お墓の場所は中央にあり、普通の家の二倍の広さが割り当てられてありました。ただ、右側が空き地になっていて、手入れもされていませんでしたので、まさかそのお隣だとは気づかなかったのです。なんと私は、お花を手にしながら、ぐるぐると、その前を何度も何度も通り過ぎていたのでした。墓石の文字も、通り道からは読めなかったですし...。

十字架も聖句も何もなく、ただただ簡素で清潔なお墓石。五つの白い踏み石がまっすぐに並べられていました。大正14年のものだそうです。時折、どなたかが手入れされているのでしょう、草も生えていませんでした。
買った花束が、たまたま愛らしい色調でしたので、ちょうど28歳でお亡くなりになった奥様にふさわしいかもしれない、と、僭越ですが、知らなかったにしては、かえってこれでよかったかも、と...。

正直なところ、疲れと予想以上にかかった時間のために、(こういうことなら、どなたか知り合いの人に案内してもらうべきだった)(今日じゃなくてもよかったかもしれない)という思いが、ふとよぎったことも事実です。でもすぐに、そこが実は重要なポイントだったのでは、と思い直しました。
管理事務所に再びお礼に戻ると、最初の時には極めてビジネスライクだった係のおじさんに、女性の係の人も加わって、応対してくださいました。
「戦後の東大総長として国家に尽くされた方だから、てっきりもっと目立つのかと勝手に思い込んでおりました」と私が言うと、「いや、学者ってそういうものですよ」とおじさん。「お墓に見栄を張らないんですな、学者は...。一般人の方が、見栄えを気にするんじゃないですか?」
そこへ、女性の係の人が、「個人情報があるので、あまり言えないんですけど、公人の場合、子孫の方が嫌がる場合もあるんですね。または、子どもは拒否しても、孫は喜んでする、とか、いろいろありますよ」と説明に入ってくださいました。「偉いお父さんを持つと子どもが苦労する、とよく言いますもんね」と私が相槌を打つと、「まあねぇ、私には関係のない話ですけれど。ここの墓地は広大で、購入するにもとても高いので、他の普通の墓地にはない問題が発生するんです。例えば、生前は裕福でお墓はここと決めていても、歳をとってから老人ホームに入ってしまい、子孫に手入れをする人がいなくなった、とか。だから、何かと苦情が多いんですよ。こちらも時々見回って気をつけていますけどね」。

へぇ、そういうことなんですか。でも、矢内原家も内村家も、とても清潔でした。特に、内村家の場合は、大きな桃色がかった百合の花などが供えてあり、どなたかが来られたばかりだとわかりました。
それにしても、花屋さんで地図をもらって、ぐるぐる歩き回っているうちに、さまざまな人間模様が垣間見えるような気がしました。
気づいたのは、恐らくは明治時代あたりのクリスチャンなのでしょうか、十字架があっても、単独あるいはご夫妻のみの名前で、草ボウボウになったお墓がいくつかあったことです。これは、復活信仰からお墓そのものにあまり配慮しないという習慣がなせる業なのでしょうか、ちょっと考えさせられました。あるいは、明らかに仏教の家で、戒名が並んでいる中で、最後のお一人だけ、十字架が名前の上に刻まれていたケースもありました。また、霊南坂教会の墓地も見つかりました。大きく「信・望・愛」と墓石に彫ったものもありました。救世軍のお墓もありました。
仏教や神道の家の場合は、どこも比較的よく手入れがされているようです。ちょうど祝日でもあり、家族連れないしは一人で、桶とお花などを持って、お墓参りに来られていました。
なるほど、こういうことなのか、と勉強になります。結局、「イエ」の問題とお墓守の問題があるので、宗教に関して日本人はこういう風にしてきたんだな、と。一般の墓地では、なかなかここまで見ることができません。
しかし、お花がきれいに供えられ、きちんと清掃されたお墓は、しっかりした家のように見えますし、荒れ放題のお墓を見ると、家の内情が透けて見えるようで、考えさせられます。財団法人東京都公園協会が管理者なので、毎月の管理費は安いかわりに、お寺などが面倒をみてくれる墓地とは違った側面があらわにされているのかと思いました。お金があるのもなにがしだなあ、と。

疲れたので行くのをやめたつもりだった外人墓地に、出口近くで、ふと足を踏み入れることになりました。初めて見るムスリム墓地には、カタカナの名前表記に、アラビア文字などの表記も加わり、区画も割合に狭いものが多かったです。ただ、その中でも大きいな、と思われたのが、スルタンなどの称号付きのお墓でした。その向かい側がロシア正教のお墓で、十字架の形に特徴があるので、すぐにわかりますが、興味深い配置だと思いました。こちらも、子孫がわざわざ飛行機に乗って東京まで来てお墓の手入れをするわけにもいかないようで、結構、草ボウボウのところもありました。華僑のお墓は堂々として立派です。どこにお金をかけるかにも、人生観が現れていて、非常に感じ入るところ多い半日となりました。

実は、駅のコンビニで、お墓参りの後に外で食べようと買っておいたおにぎりとお茶でしたが、矢内原家のお墓を探すのに疲れてしまい、仕方なく、途中で霊園内のベンチに座り、休憩することにしました。そのことを帰宅後に主人に話すと、(とんでもない!)と呆れ顔。でも、あの時、ああしなければ、どうにもこうにも、という状態でしたよ。これも、今回の東京滞在の一つの思い出となりました。