ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

信頼と幻滅と

先程、合衆国の合同メソディストの2004年の聖礼典の本が届きました。早速、気になる箇所を読んでみると、なるほど、ロバート・ハント先生が教えてくださった通りのことが書かれてありました(参照:2011年6月5日・6月12日付「ユーリの部屋」)。ほっと安心。アメリカらしく、誰にでもわかるような、さまざまな配慮のうかがえる文章でもありました。
と同時に、本件に関する日本側の主張に対しては、誰が本当のことを述べているかが明らかになり、またもや、ある人々に対する信頼感が消えてしまいました。
前から感じていたのですが、本当に自分達の見解や立場に正当性や自信があるならば、経験談などを通して、言葉で相手を情緒的に納得させようとするだけではなく、確固たる客観的な証拠を、原語の文書や文献で提示することで説得してほしい、と。不思議だったのは、引用されている証拠としての文献資料でさえ、図書館で調べても全部が揃っていなかったりしたことです。文献複写で請求すると、なんと‘対立’していると言われた側の大学図書館から資料が送られてきたりするのです。
ドイツ語圏スイスの教会の教理と実践に関する文書(2009年)をドイツ語で読み、(ほら、やっぱり、スイスでもそうじゃないの!)と、上記の合同メソディストの文献のような安心感が生まれました。ここまできっちりと検討され、明解に文書化されているならば、たとえ外国人の身分であっても、その教会に連なる人々に対する態度決定ができますし、何よりも信頼できるからです。
今回の一連の調べ事で感じたのは、「差別」だとか「排除」だとか、「粘り強い対話を通して互いを認め合う」などという、主観的な内部論争に終始するのではなく、「誰のための聖礼典と職務執行なのか」「本当にそのようなあり方が、人々を惹き付けることにつながるのか」「そのような争い事を見て、教会離れがさらに加速度化されたとしたら、それは誰の責任なのか」「それがキリスト教の真髄なのか」「なぜ神の恵みや招きにあずかっているはずの人々が、そのような態度なのか」ということを、よく考えていただきたいということです。
はっきり言って、ある地域の会合は、どうでもいいことに論争エネルギーを費やしているようで、口で言っている割には、実態が伴っていないような気もするのです。
少なくとも私自身は、繰り返しになりますが、すっかり幻滅。もう、献金依頼が来ても、払う必要なんてない、と思っています。