ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

私家版「夏休みの自由研究」

何だか、本筋とは離れたところで、勝手に「夏休みの自由研究」に取り組んでしまった感のする一連の調べ事。あまり高級ともいえない内容ですが、ほんと、レポートにでも仕上がりそうなぐらい。
このところ毎日、同じことばかり書き連ねているようでも、昨日一日で新たに、1970年代からの複数の専門誌掲載の計37本の記事を読んだのです。換言すれば、それほどまでに同じ事柄が重複して繰り返し出現している上、もっと専門的に深い議論や反論などがあるにも関わらず、それらがまるで無視されている、ということです。振り返ってみれば、私のテーマも、30年以上、同じことが何度も発生しているので、いい加減、飽き飽きしていたのですが、これでは、マレーシア顔負け。
もちろん、全体から見れば、ほんの小さな一部分でしかありません。やはり、長年、気になっていたのみならず、自分と関係があると思う部分だったからこそ、このように時間やお金をかけて調べたのです。当然のことながら、他にも、さまざまな分野での活動があります。そちらについては、全く門外漢の上、追及するつもりもありません。
ただ、いなかる理由があってのことではあれ、信条や主張とは別に、基本的に研究者倫理に反することをしてはならないと思います。しかも、それが過去一度のことではなく、しばらく置いて、同じ内容が別の出版物(と呼べるのか?)にほぼ反復転載されたらしい上、その数年後には、その資料(?)の存在を、みずから宣伝のように散りばめた書籍まで公表されているのです。
それだけで済むなら個人の問題ですが、その書籍出版の後、十数年経った現在でも、あちらこちらでご自身が話を広められるばかりか(私自身も、今年に入ってから、少なくとも二ヶ所で二回、聞きました)、その元で教育された若い人々(および、客観的にそれほど若くはない人々)が、毎年、社会に出て行かれるわけですから、単純に考えれば、素直に影響を受けた人が増える計算になります。思想や立場は自由とはいえ、その部分に関する限り、根拠となる元の土台が不正確で偏りがあるならば、悪影響しか残りません。
まったくよそ者ながらも、私が、ここ数ヶ月、何らかの不審さに気づいて、事の深刻さを密かに案じているのは、まさにそこなのです。

今、上記に関連して、最後の課題として借りてきた2冊の本が、手元にあります。二人の著者は、いずれも80代でほぼ年齢を同じくし、専門分野も同じ。かつては同窓として共に学んだ間柄で、若い頃、国は違えども、海外に出られた経験をお持ちです。また、両者共に、翻訳を含めて著作がたくさんおありです。ところが、その専門の本質的な部分で、ベクトルが、まるで綱引きのように正反対なのです。
仮に、A先生とB先生としましょう。A先生は、日本の状況に鋭い問題意識を持ち、海外(文献上はドイツ語圏で経験上は英語圏か?)および現代先端と考える一傾向を日本に紹介し実践しようとされる方。反対にB先生は、海外(と言っても主にドイツ圏)から多くを学びつつも、何もかも無批判に取り込まず、むしろ、伝統に沿って、日本の土壌にふさわしいやり方を求めて長年、精力的に実践され、むしろ、ご自身の教会から生み出されたものがドイツに紹介された方。
B先生の方は、数年前に一度、ご講演をうかがったことがあります。とにかく真剣勝負で、時間も発する言葉も無駄にされず、静かながら燃えるような迫力がにじみ出ていらっしゃいました。質疑応答でも、どんな質問にも丁寧に率直にまっすぐお答えになっていました。また、B先生の教会員だったという日本人女性と、これまた1990年代初期のマレーシアで知り合ったことがあり、間接的にご評判はうかがっています。
A先生には、お目にかかったことがありませんが、冒頭の「夏休みの自由研究」に関する方の共著者ということで、思想に触れる機会がありました。
それだけならば、手法の違いということで、むしろ(A先生もB先生も、両方の考えがあっていいんじゃない?)と言えそうなのですが、問題は、B先生がA先生の思想実践に、一種の危機感のようなものを感じて、1990年代から公にそれを表明されているということです。(余談ながら、ご高齢ながらも、お元気で活動を続けていらっしゃるからこそ、生き字引のように語れることをお持ちで、従って、私にとっても、今回の件でとても参考になり、そのことが非常にありがたく思われたのです。)
これまでの経緯からも、ご著作を全部読んだわけではなくとも、私自身は、長年、B先生のお仕事やお考えには、高く見上げるような尊敬と信頼を寄せていたので、昔の同級生A先生に対する、温かくも悲痛な叫びのような文章を、ここ2ヶ月ほど、何度も何度も読み返していました。心理的にどうにも落ち着かず、朝晩、本棚から取り出しては、繰り返し読んだのです。(これは、単に考えが違うということではなく、どちらかが、何か基本的なところで誤っているのではないか)と。
そうこうするうちに、思いがけず全く別の方向から、購読中の雑誌の編集長氏が、冒頭の課題にまつわる派生で、「神学が間違っている」とご自分のブログで、指摘されたのです。タイミングとしては、こちらの心中を見透かされたようで、驚きましたが、B先生も、「やはり無批判に受容できるものではない」というお考えだったことを併せて、反芻させられるものがありました。
「反体制の進歩・革新をよしとする」「自分は賢い進歩派、改革派に属すると自負」「品性、常識があらわになって」などというB先生の指摘から、一時期の私の混乱の原因が、にわかに判明したのです。つまり、ある場所での講師紹介の際、「当時、先生は反体制派の中で大変な思いをされて」と聞いたのを私が鵜呑みにしてしまったことに由来するのです。一体、どちらが「反体制」側に立っていたのか、今では、段ボール一杯に詰まった資料の検討によってはっきりしたのですが。
昨日見ていたキリスト教専門雑誌の論考からも、やっと明確になったことがありました。わかる人にはわかるとはいえ、ここに引用すると、これまで曖昧に綴ってきたことがあからさまになってしまうので控えますが、ある故人による1977年の掲載記事で「虚構性」「権威」「社会の階級性」「上部構造」「抑圧」などの用語が含まれていたことに気づき、はたとひらめいたのです。おなじみのマルクス主義的な思想です。日本でもよく引用されているある神学者が同系列だとのことも、その記事には書かれてありました。
当時よりも徐々に人口に膾炙しつつある現状だからこそ、危機感を覚える人々が、数年前から思い切って声を上げ始めたのですね(参照:2011年8月9日付「ユーリの部屋」)。しかし、その淵源が既に1970年代に始まっていることは、しばしば私も繰り返してきました。
誤解なきよう、念のため申し添えますと、A先生の主張や思想について、全面的に間違っていると私は思っているのではありません。ある部分では、考えさせられる指摘も含まれていますし、ある時代、ある社会、ある地域、ある人々にとっては、必要だったばかりか、魅力的でさえあることでしょう。ただ、読み進めていくと、(あれ?そうかしらん?)(別に、誰も普通、そんな風には考えていないはずなんだけど、どうしてそう書かれるのかしら?)というような齟齬が、あちらこちらで散見されるのです。そればかりか、借りた著書の一章は、まさに上記の「不正確で偏りのある土台」を、参考資料として援用されています。そして、全体的に非常にわかりやすい。そのわかりやすさ、口当たりの良さが、何だかかえって、深みや神秘性や意欲を削いでしまっているようで、そこがどうも気になるのです。
最後に一言。この相違がどこから生じたものなのかを、少し愚考してみました。失礼ながらも大雑把に言ってしまえば、出身地と力量の差なのではないか、と。善し悪しを別にして、首都圏と地方の違いは大きいと思います。(ちなみに私自身は地方都市出身者なので、自分は田舎風だとずっと思っていたのですが、主人に言わせると「そんなこと言ったら、ほんとの田舎の人が怒るよ。名古屋は大都市。小さい時から、無意識のうちに触れているものが違うのは確か」と。)
B先生は、伝統に沿った考えと実践とはいえ、幅広く深いお考えの持ち主ですし、お歳に反して、若々しい情熱で、今も各地で、後進の育成や指導にも励んでいらっしゃいます。A先生に関しては、1970年代の座談会などを拝見する限り、元々はそれほどラディカルでもなかったようにお見受けするのですが、ほぼ無検討に、「世界の潮流」および、海外のある国でのある教会の実践をそのまま受け入れているらしいところがあります。
ところで、海外の翻訳輸入というのは、実のところ、オリジナリティ発揮の上では、比較的、楽なのではないでしょうか。その歴史的背景、経緯、前提文脈を吟味すれば、いくら世俗化したとはいえ、歴史的にキリスト教の長い伝統を持つ地域、または、混交移民社会の中での教会実践と、比較的同質性が高い非キリスト教圏の日本社会での教会実践とでは、形を真似してみたところで、深く通じ合うとは言い難いと思うからです。卑近な例では、各国の原語でそれぞれの讃美歌を歌うならともかく、高低アクセントで、ほぼ常に母音を伴う日本語にわざわざ訳してしまうと、メロディと歌詞のアクセントが合わない箇所が出てきます。それゆえに歌いにくいものも、現行の讃美歌集に含まれていないとは言えません。
それはともかく、「その神学者やその思想は、全体から見て、どのような位置づけにあるのか。それでは、対極にある神学は何なのか」という説明や吟味なしに、あたかも自明のごとく紹介されているのが、非常に気になっていました。
あと十年したら、状況はどうなっているでしょうか。