ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

夏休みの自由研究レポート?

改革長老教会の季刊誌『教会』の話が続いたので(参照:2011年8月22日・8月24日・8月26日付「ユーリの部屋」)、ようやくここで締めとして、これこそが最も重大だと思い、これまでぼかして綴ってきたことと併せて(参照:2011年5月31日・6月3日・6月4日・6月5日・6月12日・7月11日・8月2日・8月8日・8月10日・8月14日・8月17日・8月18日付「ユーリの部屋」)、まとめとしたいと思います。
今頃になってブログなんかに書くと、ご本人は、(しょうもないことで、いじめられた。傷ついた)などと、また(!)声を詰まらせるかもしれませんが、ここは堂々とフェアプレーで。一度活字にして公にされたものは、やはり責任を持っていただきたいですし、研究者倫理というものがありますから。
私みたいに、今年になって初めて知ることになった「リマ文書」に関する件で、しかも飛び入り素人の立場で見ても、(それはおかしいのでは? でも、まさかねぇ...)と、ここ数ヶ月、悩まされることになった問題だからです。
実を言えば、『教会』の2008年夏季号(No.71)が、前から最も読みたかった号でした。
2011年8月8日付「ユーリの部屋」でご登場いただいた楠原博行先生による「聖礼典執行の諸問題:各国の現状と我々の立場 ①ドイツ連邦共和国の場合」(pp.20-26)は、同じく2008年に教文館から発行された『まことの聖餐を求めて』にも(参照:2011年8月9日付「ユーリの部屋」)、少し手直しされた形で掲載されています。そして、残念なことに、私自身、独自で調べたドイツ語ネット情報でも、ほぼ同じ結果が出てしまっています。
いっそのこと、ドイツ人の友達に尋ねてみようかとも思ったのですが、そこまでしなくとも、エルランゲン大学で神学博士号を授与されたドイツ人のお母様を持つ友人が、以前送ってくれた(ドイツ語と日本語の)家庭信仰誌にも、「村の教会で礼拝に出た時、無教会だということで、自分は聖晩餐に与れず、与らなかった」という意味のエッセイが掲載されていたことを思い出して、支えとしていました。
また、小室尚子先生の「聖礼典執行の諸問題:各国の現状と我々の立場 ②アメリカ合衆国内の教会」(pp.27-32)に関しても、同感するばかり。そもそも、たまたま合同メソディストの宣教師でいらしたロバート・ハント先生(南メソディスト大学パーキンス神学部)から直接、「リマ文書は手元にないが、そんなことは書いていないはずだ」と、今年の6月5日付メールで強く断言されたご回答をいただいたのがきっかけ。(こういう点、アメリカ人の先生って、ものすごくはっきりされているんですね。信頼感を覚えました。)確かに、2011年8月18日付「ユーリの部屋」でも書いたように、Gayle Carlton Felton,“This Holy Mystery: A United Methodist Understanding of Holy Communion”, 2005/2007にも、参考文献リストに「リマ文書」が掲載されていますし、記述の随所に「リマ文書」の影響が見られます。(これは、8月の「自由研究」によってわかりましたが、少し遅すぎました!)
さらに圧巻だったのが、田中かおる牧師の「リマ文書(BEM)とその応答文書を日本に紹介した人達の問題」(pp.33-41)。世俗領域なら、どの分野であっても、公表され次第、即刻、非難轟々のはずなのに、随分、のんびりした間隔を置いての指摘、批判だという点にも、今回、ひどく驚かされました。
実際には、私の調べた限りでは、最初に「リマ文書への諸応答」の日本語紹介が出たのが、1989年夏号(No.62)の『礼拝と音楽』(pp.44-49)。続いて、1989年秋号(No.63, pp.48-53)と1990年冬号(No.64, pp.52-57)の連載となります。全部を原書に当たって検討したわけではありませんが、一番気になった「未受洗者の陪餐」と「聖餐の物素と杯」の問題については、Max Thurian (ed.),“Churches respond to BEM: Official responses to the "Baptism, Eucharist and Ministry" text”, Vol.I-VI, World Council of Churches, Geneva, 1986-1988の該当箇所を全て読みました。
そもそも、この『応答集』に関心を持った理由は、私のことなので、マレーシアやシンガポールの教会がどう述べているか知りたい、というものでしたが、どうしたことか、サバ州プロテスタント教会という、当時、それほど組織化が整っているとは言い難い、「20年前に存在するようになったばかりの」と自ら述べている教会だけが、第6巻に掲載されているのみです(pp.132-133)。組織化という点では、もっと充実しているはずの、「戦略地」シンガポールや半島部の都市の教会が、ごそっと抜けています。それに、アフリカは含まれていても、アラブなどの中東地域の教会は、それこそキリスト教史上、「先輩格」のはずなのに、まだまだです。冷戦期だったので仕方がなかったとはいえ、本当にどこまで全体を反映しているのか。ということは、「世界の」「アジアの」と言ってはみても、それほど機会均等とも呼べないのではないか、と。
それはともかくとして、訳に完全な間違いがある、というよりは、全体として、平面的、一方的な部分選択のように見え、明らかに前後の文脈が抜けていたり、実は「洗礼」の項目で述べていることが、あたかも「聖餐」の問題として述べられているかのように、取り換えが行われていたりします。物素と杯の件でも、正確な訳かどうか疑問だったり、全体としては必ずしもそのように述べていないとか、同国の別の組織は、まったくそのように言及していない、などの指摘ができそうです。
いろいろ問題を感じた中から一つだけ、私にとって、1990年代初期のマレーシア滞在中から親しみがあり、同時に、昨今の日本の教会の一部で、問題提起の根拠の一つとされている、アメリカ合同メソディストの事例を引用してみましょう。


c. 未受洗者の陪餐
(略)
メソジスト教会でも、アメリカ合同メソジスト(Ⅱ)は、「誰が招かれるべきか?洗礼を受けた者だけか?....キリストへの信仰を求めているが、それを見いだしていない者をも全て招く正当な理由があると主張する者もいる」と、教会の現実を反映して語っている
。  (『礼拝と音楽』1989年夏号(No.62)p.48)

この紹介の根拠に該当するかと思われる原文の箇所(あずき色)が、次になります。

PARTⅠ:BAPTISM(p.179)
3.Guidance for the United Methodist Church(p.181)


c) Baptism and holy communion
United Methodists are not of one mind concerning access to the Lord's table. Who should be invited? Only those baptized? Only the baptized and confirmed? Or any who sincerely desire to come?
John Wesley spoke of the eucharist as a "converting ordinance". Some find that to be a warrant for inviting all who seek faith in Christ but have not found it.

(“Churches respond to BEM: Official responses to the "Baptism, Eucharist and Ministry" text”, Vol.Ⅱ, p.183)

ここでも、冒頭の「合同メソディスト達は、主の食卓への接近に関して、一つの心ではない」(直訳)が抜けていて、後半部の、ウェスレーがユーカリストのことを「改心儀式」と評していた、という肝心の文が無視されています。これこそが、些細なことではなく、メソディストとしての重要な神学的観点ではないでしょうか。
ただし、もっと重要なのは、その後続部分なのです。

On the contrary, Wesley, as an Anglican priest, tried to be obedient to the canons, even in a century of sacramental carelessness. He proabably assumed that all people in Great Britain were baptized, and could thus come to holy communion to find conversion. In fact, in early British and American Methodism the altar was often "fenced" for reasons both moralistic and doctrinal. The ecumenical dialogues today on the theology of baptism and eucharist are causing United Methodists to reconsider, for example, the admission of baptized children to holy communion. BEM challenges us to consider the pastoral and liturgical implications of the continuity and consistency of the two sacraments for the wellbeing of the church (commentary, 14.b).
(op.cit.)

あずき色の部分が特に強調したいところですが、後半部の流れからすれば、これは、合同メソディストが「未受洗者陪餐」をリマ文書によって再考させられている事例としてではなく、あくまで、例えば「洗礼を受けた子ども達の陪餐」をどうするか、という文としか読めないのではないでしょうか。ちなみに、日本の全国連合長老会の出版物では、1980年の段階で、「幼児陪餐」については、「次第に一般化するかもしれません」と、いずれ認められる方向に行くのではないかとの示唆があります。(松井敏郎現代における聖餐の問題」(全国連合長老会聖餐』1980年11月発行(p.19))

....ということが、そもそもの出発点のようなのですが、その後、上記のような調子で、恣意的に選んで訳されたらしい「リマ文書への諸応答」を含めた、B5版36ページの『資料ガイド』というものが、1990年か1991年に出版されたとの由。「使用に耐えない」とも酷評されているようですが、不思議なことに、このガイド、大学図書館では見つからないのです。それにも関わらず、1997年に出版された書籍では、自ら何度も引用されているという奇妙な現象。そして、その書籍の一部は、今年も紹介されています。ついでながら、2006年には、さらに「未受洗者陪餐」に関して、「アメリカ合同メソディスト」を含めて、根拠の曖昧な「世界の教会」の事例が記述された事典も執筆されたというおまけつき。

すっかり、夏休みの自由研究レポート風になってしまいましたが、こんなところです。私がなぜ、ここまでこだわったかと言えば、やはり地域的に、身近で何やら騒がしい問題になっていたこと、特に2004年頃から、経験上、何らかに気づいていたことが大きいと思います。それに、ご自身が、神学の博士論文に関して、「‘dignity’を伴う」「最大限の誠実さを発揮する場」という表現を使われたことも、非常にひっかかっていました。
結局は、モラルの問題なのです。政治問題じゃありません。