ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

「無限の可能性」論の陥穽

「子どもの可能性は無限だ」と唱えつつ、教育に当たる流れがあります。
実は何を隠そう、この私でも記憶に鮮明なのが「無限の可能性を秘めている」という小学校から高校ぐらいまでのおだて言葉。
ところが、それを聞きながら「無限の可能性」の持ち主であるはずの当の子どもたる私が何を感じたかと言えば(じゃ、こんなところにいたら駄目じゃない?)
昨日、主人にその話をしていると、「理屈っぽいなぁ」と。でも、確かに小学4年生ぐらいから、気がつくと理屈っぽくて小難しい、堅苦しい本を読むのが好きでした(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071107)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080301)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091221)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121021)。誰と比べて競争するでもない、自然な成り行きとしてです。だから、今の状況は結構満足でもあります。
実のところ、「子どもは無限の可能性を秘めて」いるのではなく、要するに「蛙の子は蛙」であって、たまに例外的な突然変異が起こることもあっても、大抵は、受け継いだ遺伝的なものと、その組み合わせの度合いと、生育環境でほぼ決まっていて、「無限の可能性」なんてユートピア的発想ではないかと思います。
その罪悪の一つとして、子どもを「あなたは無限の可能性を秘めているのだから」とおだてた挙げ句、大人になってからも夢想のうちに漂い、「いつかはきっと檜になる」と、『あすなろ物語』を地で行く人生になってしまったら、その責任は誰にあるのか、ということです。
では、なぜそのような突飛なスローガンが出て来たのか。恐らく、想像するに、自分がたまたま気づかなかった、無知が故の子どもらしい自由奔放な発想を、現実を知る大人の枠組みで文字通り受け止めてしまい「無限の可能性」と美しく飾り立てて表現してみただけではないか。つまり、そう言っている側が単に「私は知りませんでした」と告白しているに過ぎず、それを「無限の」と言い換えているだけではないか。
確かに、とらわれがないために柔軟でおもしろい発想をする。訓練次第で、できそうもないと思われたことができたりもする。思いつかなかったような新たな考えも飛び出してくる。しかし、それはどの世代でも現実にあり得ることであって、何も「子どもは無限の可能性」と飛躍した表現をすべきではない。「将来は未知数」とでも言い留めておけば済むこと。子どもだって生まれた瞬間から時間の制約の中で生きている以上、有限の中にいて「無限の可能性」なんて、形容矛盾も甚だしい。一つを選んだら他方は捨てざるを得ないのが現実。「無限の」と言い出したら、これもあれも、となる。
「異なる者同士、お互いを認め合って」というのも、その「無限」路線内にあるように感じられます(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111217)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120712)。世の中には、相手を認めたら自分の核となる部分が否定されてしまう考え方も少なくはないのに、どうやって「認め合う」のでしょうか?
昨日書いたこと(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130923)の派生として、今でも「イスラエルパレスチナ問題」は、宗教の問題ではない、民族の問題ではない、土地の分配問題だ、水問題だ、国境線の問題だ、英国の二枚舌外交の問題だ、経済格差の問題だ、いや「お互いを認め合う寛容の精神」が重要だなど、わさわさした議論を出す人がいるようです。ただ、まっすぐ見てみると、どれも「○○の問題ではない」と斬って捨てられるほど簡単な事柄ではなく、かといって「○○が問題だ」と一つに絞り込めることでもないと思います。宗教の問題でもあるし、民族の問題でもあるし...と、長い歴史の中でさまざまに複雑に絡んでいることは明白。
複雑なものは複雑だ、と明言することから始めないと、それこそ「無限」路線の陥穽にはまってしまいそうです。