「文化の驚くべき『変容』」〜『大正ロマン』28号掲載予定。

<お仕事で書いた文章>



高畠華宵大正ロマン館」より、会報誌『大正ロマン』の原稿依頼をいただく。
テーマは「驚いた!」だそうだ。

華宵には、同名の表紙絵があり、それに絡めて、現代の様々な驚きを特集するという。


私のほうは、まだ論文化には慎重な考察を含めて、
最近のポピュラー文化における「驚き」を手短にまとめてみた。

大正ロマン』28号に掲載の予定*1






========以下、本文。=====================


 近年、若者文化について、特に男性たちの文化に関する歴史社会学的研究を進めている。中でも『少年倶楽部』や『日本少年』といった大正〜昭和初期にかけての少年雑誌は非常に参考になる。近代化という時代の要請も感じつつ、男性たちの文化がどのように形成されてきたのかがよくわかる。先日来、大正ロマン館には多大なるご協力をいただき、貴重な資料のいくつかを見せていただいた。
 一方で、「歴史」を描くのに、過去を掘り下げるだけでなく、現在まで含めることを強く念頭においている。社会学の使命は、あくまでも現状の理解と対策にあると思うからである。現在を理解するための「歴史」とでも言ったらよいだろうか。よって、こうした資料分析に平行し、現状のフィールドワークも行っている。今回は、こうした研究の中から感じた、いくつかの驚きを紹介したい。
 まず、もっとも驚いたのは、たまたま東京大学駒場キャンパスで目にした掲示である。そこには、大学生に向けて「反社会的行為を固く禁じます」と書かれていた(図1)。思わず、一緒に歩いていた妻と、「えっ!?大学生って反社会的行為をしちゃいけないんだっけ?それも大学が禁止しちゃうんだ?」と顔を見合わせてしまった。



図1.大学生の「反社会的行為」の禁止

 もちろん「反社会的行為」を称揚するつもりはない。しかしながら、時に社会の問題を敏感に感じ、一つ引いた視点からそれを訴えること。「反社会的行為」をするのが大学生の特権だった時代は、間違いなくこの社会にも存在していたのではないだろうか。
 かつて社会学者の井上俊は、それを「離脱の文化」として論じたことがある。すなわち、現状の社会を「離脱」した超越的な観点から、問題を見つめなおすこと。それは、年若い者たちだからこそできるという主張である(『遊びの社会学世界思想社)。
 確かに、少し話をオーバーにしたかもしれない。この掲示で言う「“これらの”反社会的行為」とは、正確には「キャンパス周辺への住宅・施設などへの自転車・バイクの不法駐輪」のことを指しているからである。
でも、もう少し違った表現もありそうなものだ。学生への警告が目的なら、具体的な行為を書くだけでも十分ではないだろうか。ことさらに「反社会的行為」と強調する必要があるだろうか。それとも、私が過敏に反応しすぎなのだろうか。
だが、あれほど学生運動が盛り上がった東大の構内で、「反社会的行為」を「固く禁じ」るなどという文言の掲示がなされ、なおかつ誰も何も感じないままでいるということなど、かつてならありえなかった。本当に文化とは、時代によって大きく変わるものである。
 同じく、文化の変化という点では、JR秋葉原駅前の光景にも驚かされた(図2)。知られるとおり、「アキバ」は今やオタクたちが集う街となっている。それを、趣味の都として「趣都」と呼ぶ学者もいるほどだ(森川嘉一郎趣都の誕生』)。


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図2.秋葉原駅前のオタクたち


 特に驚いたのは、ある場所と対比させることで、かつてとはまるで正反対の文化の街に変化したと感じたからである。実は秋葉原を訪れたのも、その場所に行くことが目的だった。それは、中央線高架下の「交通博物館」である。本年5月14日をもって閉館してしまったが、常に乗り物好きの男の子たちの人気の的であった。昔の秋葉原といえば、「鉄道ファンの聖地」というイメージもあった。
 確かに鉄道ファンもオタクの一種ではある。しかしながら、現在のアキバ系オタクたちと鉄道ファンは、その内容において、ほぼ正反対の文化なのである。
 鉄道ファンの楽しみとは、すでに記した言葉で言えば、超越性の快楽である。いわば、「いま/ここ、ではない、いつか/どこか」を思考(志向)することの楽しさ、まだ見ぬ未来であったり、異国の地を思うことの楽しさである。その点で、先に述べた「離脱の文化」とも共通する。すなわち、常に現状から離れた、まだ見ぬ先を志向するのである。
 一方で、アキバ系オタクたちの楽しさは、関係性の快楽にある。『大正ロマン』前号の鼎談(http://www.kasho.org/taisho_roman27.html)で、高畠館長や宮台真司氏とも議論したことだが、その中心は「いま/ここ」に耽溺することである。「萌え」という行動は典型だが、アニメやゲームなどの特定のキャラクターとの関係性の中だけに快楽を見出し、「いま/ここではない、いつか/どこか」への関心は示さないのである。
 もちろん、「普遍的に」どちらがいいとか悪いとか言うことはありえない。むしろ、近代過渡期の急な成長期を過ぎ、安定期に入った社会においては、「いま/ここ」意識に特化した文化のほうが、時代への適切な対応と考えることも可能である。
 だが、文化がそれだけに特化していくことは、やはり問題ではないかと思う。「いま/ここ」意識だけに耽溺することは、現状を相対化し、問題を見つけ出す視点を失わせてしまわないだろうか。やはりどこかで、一つ引いた目から社会を見つめなおす、超越的な視点を確保しておく必要がないだろうか。
 そうした点からすると、かつての少年雑誌は驚くほど超越性の快楽に満ち満ちていることがわかる。いま、我々が当たり前のように使うものでさえ、かつてでは「ありそうもない」、憧れの対象であったことがよくわかる。
 例えば、地下鉄である(図3)。この写真は、『日本少年』大正7年新年号の付録「少年未来旅行双六」の一部である。いろいろな乗り物が、憧れるべき「未来」のものとして描かれている。そこには、この「地下鉄道(米国にも容易に行ける、と付記されている)」や「空中電車(現在のロープウェー)」、あるいは「エスカレーター」なども登場する。


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図3.地下鉄道〜『日本少年』大正7年新年号付録「少年未来旅行双六」より


 今では、当然のように存在するこれらのものが、当時では「いま/ここではない、いつか/どこか」を思考(志向)させるものであったということ、そしてそこに超越性の快楽を覚えていた年若き男性たちがいたであろうことがまざまざと知らされるのである。
 もちろん、当時のこうした超越性の快楽が、のちにファシズム的な国家権力へと結びついていったということは、疑いもない歴史上の事実である(『お国のため!』という意識)。
 だからこそ、繰り返し強調しておきたいのは、文化の楽しみが偏ることへの警鐘なのである。すなわち、かつての少年雑誌の文化は、超越性の快楽だけに特化してしまっていた。逆に、今日のアキバ系オタクの文化は、関係性の快楽だけに特化してしまっている。いずれにせよ、そのように、文化が極端に偏ることは、決して実りある成果をもたらさないのではないだろうか。
 これからは、多様な快楽が同時に存在し、多様な視点から社会を見つめなおすことできるような、そうした文化が発展していくことが望まれよう。その意味では、これほどに極端なほうから極端なほうへと、文化が変化してきたことが最大の驚きでもある。
今後も、現在と過去をつないで考えることのできるような、歴史社会学的なアプローチを継続していきたいと考えている。本稿で論じたことは、冒頭で述べたように、男性たちの文化に限定した議論である。よって今後は、女性たちの文化についても同様に掘り下げていけたらと考えている。(以上)

*1:詳細は、大正ロマン館のHPを参照。http://www.kasho.org/kashokai.html