『接吻』(万田邦敏)

ネタバレ注意!http://seppun-movie.com/

https://www.youtube.com/watch?v=KMpDB2AdhB8
(3の続き)
差し入れの謎/謎の女
小池栄子仲村トオルを「弁護士さん」と呼び止めて、差し入れを申し入れた時点から、『接吻』は新しい展開を見せ始める。それは小池がテレビ画面の中の豊川悦司の笑顔を見て、豊川に関するノートを書き始めた時以上の構造的変動を作品に導入している、と言ってもいいかもしれない。小池はここで初めて、主要人物のひとりの仲村とじかに声を交わすのだから、報道メディアの映像や記事を介した豊川との関係とは、異なる展開が生じるのは当然かもしれない。
だが、ここで重要なのは、小池とも、小池・豊川が共有する文字コミュニケーションの主題系とも無縁で、また「獄中結婚」というテーマからいえば本来脇役を務めるべきはずの弁護士・仲村トオルの、主役への思いもよらぬ急浮上ぶりである。そのことに一番驚いているのは、仲村トオル自身でもある。傍聴のときすでに、豊川が入廷する前に小池の視線は仲村をまず捉え、彼女の耳は黙秘する豊川の声の代わりに仲村の声を捉えていたが、弁護士が主役を演じられるのは、もっぱら法廷の中だけである。
しかし、何度も繰り返すが、文字コミュニケーションの主題系に忠実に振る舞うならば、小池栄子は、仲村に差し入れの申し入れなどする前に、さっさと豊川に手紙を送るべきだろう。じっさい小池はほどなく、仲村を出し抜くようにして豊川と手紙のやり取りを始め、弁護士として豊川の手紙を閲覧したいという仲村の申し込みを笑顔で拒絶するのだから、ここで小池が口にするの「差し入れ」という言葉には場違いなものを感じる*1
また仲村トオルが率直に疑問を発しているように、差し入れがしたいなら、弁護士を介さずに直接拘置所に申し込めばいいはずだ。それなのに、豊川は見ず知らずの人からは差し入れを受け取らないはずだから、差し入れの申し出があったことと小池について思ったとおりの印象を仲村の口から豊川に伝えてほしい、などという支離滅裂な依頼をする目的が、豊川への差し入れを届けることだとはどうしても考えにくい。こんな回りくどいやり方をしなくても、何事にも黙秘を貫く豊川ならば、どんな差し入れでも黙ってそれを受け取るだろう。
また「獄中結婚」という物語の核となる部分へのつながりでいえば、差し入れの有無に関わらず、ふたりは婚姻届に署名することになるだろう。
ノートから、手紙、そして婚姻届への署名というプロセスは、『接吻』における小池栄子の「左利きのエクリチュール」の3段階をなしているのだから、ここでの差し入れの申し入れは、主題論的な発展にとっても物語の進行にとっても単なる遅延要因でしかない。主題系と説話構造との緊密な構成を誇る『接吻』において、この差し入れの申し入れはある意味、ラストの「接吻」以上に不可解な謎を形成している。
謎といえば、仲村トオルにとって、小池栄子はまったく見ず知らずの謎の女として、ここに登場していることに注意しよう。初対面の仲村トオルにとって、小池栄子は虐げられた地味なOLでもなければ、部屋でひとり文字を書きまくる女でもなく、鋭い声で殺人事件の被告への差し入れを弁護士に申し入れる謎の女(謎の巨乳美女!)として現前している。
自分の素性をいっさい明かさず、弁護士に連絡先のメモだけ渡して立ち去る小池は、ほとんどフィルム・ノワールファム・ファタールであり、その後姿を、半分見惚れたように、いぶかしげに見つめる仲村トオルもまた、フィルム・ノワールファム・ファタールによって破滅する弁護士像の1ヴァリエーションを演じることになるだろう*2
差し入れに関する不可解な申し入れは、小池栄子仲村トオルの前で謎の女に変貌させ、さらに仲村トオルを謎の女に翻弄される弁護士役へと変貌させているのだ。
小池栄子が最初に会話を交わす男性*3仲村トオルであること、その瞬間からフィルム・ノワール的構図が生成すること、これは、小池が最初に視線を交わす男性が豊川悦司であること、その瞬間から、それまでの犯罪モードから一転して恋愛モードが生じたのと同様、『接吻』においては決定的な出来事である。それは作品構造に関して決定的、すなわちこの2つの出来事、この2つの瞬間が作品の構造、ジャンル的枠組みを規定していると言う意味で、決定的なのだ*4
その視線がテレビの再放送の画面を介したものであろうと、その会話の口実が差し入れであろうと、それは重要ではない。重要なのは、小池と豊川、小池と仲村とのあいだに運命的な遭遇が演じられたということ、そしてその瞬間において『接吻』は異なるジャンルの作品へと生まれ変わっているということだ。
そうした瞬間が、主題論的な観点からは、謎めいたものにしか見えないのは、当然のことだ*5。こうしてみると、心理的には納得しがたい部分を多く含みながらも、登場人物も少なく、物語としては決して複雑ではない『接吻』が、なぜこれほどまでに複雑な表情の変化を見せるのか、その理由も納得できるというものだ。それは、このようにジャンルの枠を越境する決定的瞬間が、作品内に、1度ならず2度までも含まれているからだ。
主題論的な観点からみると、不必要な迂回としか思えない差し入れの申し入れは、一瞬でジャンルを越境するためのジャンピングボードとして密かに、しかし確実に機能しているのである。
ファム・ファタールの連絡メモ
だが、この差し入れを申し入れる場面で、小池栄子を真に謎の女たらしめている要因は、本当は何なのだろうか。それは彼女が素性を名乗らないこと、より具体的にいえば、連絡先として1枚のメモを仲村トオルに手渡し、「遠藤京子さん」と、その姓名を相手の口から名乗らせていることではないだろうか。
これは重要なポイントになるが、小池栄子は全編を通して一度も自分から「遠藤」とも「京子」とも名乗っていない。この点は、登場したとたんに「長谷川ユキヒデといいます」とフルネームを名乗った仲村トオルとは、大きな違いだ。豊川悦司も自分から「坂口秋生」と姓名を名乗ることはないが、それは主に黙秘のせいであり、また彼の場合は本籍、生年月日をはじめ、その経歴・血縁関係すべてがマスメディアによって報道されているのだから、本人の名乗りは不要というものだろう。
小池が仲村に差し入れを申し入れる場面では、観客はすでに小池栄子の姓が「遠藤さん」であることを、小池の勤務先の同僚のOLの会話から知っている。しかしながら、そうとは知らぬ仲村トオルは、謎の女が手渡したメモを見て、ついうっかり「遠藤京子さん」とそこに書かれた姓名を読んでしまう(呼んでしまう)。
ついうっかり、というのは、この仲村の失策のせいで、小池は自分から名乗らない謎の女を演じ続けることが可能になったからであり、また文字コミュニケーションとは無縁のはずの仲村を、こっそりと手渡したメモ1枚で、エクリチュールの磁場へ引きずりこむことに成功しているからである。
ここで読まれた「遠藤京子さん」という名前は、豊川悦司にも仲村の口から伝えられる。ここでの仲村の弁護士口調は、小池の「左利きのエクリチュール」がこっそりと書いたメモによって、巧妙に制御されているかのようだ。そしてこのメモに書かれた連絡先は、後半になって、仲村から小池への電話連絡、仕切りなしの部屋での接見と豊川の控訴を伝える留守番電話にも、当然役立つことになるだろう。
こうしてあらためて検討してみると、文字コミュニケーションの主題が連絡先として手渡されたメモ1枚に、しっかりと圧縮されていることがわかる。
しかし、このメモの働きは、エキセントリックな差し入れの申し入れの影に隠れて、じつにわかりにくい。もしかしたら差し入れに関する小池のエキセントリックなこだわりは、このメモの働きを仲村と観客の目から隠蔽するためのミスディレクションだったのではないかという気さえしてくる。
そうだ、小池栄子ならば、そのくらいのことはやりかねない。最後の3人揃っての接見場面で、よりトリッキーなミスディレクション拘置所職員が見守るなかでやってのけた彼女なのだから。
また、ここでも一番「運が悪い」のは、一見エリート風の弁護士・仲村トオルだろう。不可解な仲介役を演じた結果、仲介料を得たわけでもなければ、差し入れのみかんのお裾分けに与ったわけでもなく、手にしたものは結局メモ1枚だけだったのだから*6
そしてこのメモ類だが、すでに暗証番号のメモやタクシー代の領収書がそうであったように、『接吻』のエクリチュールは、ノートや手紙やメールだけではなく、ちょっとした紙切れに書かれた文字や数字が水面下で暗躍しているのだから、その紙切れが小さければ小さいほど、油断がならないのだ。
小池栄子は、最初に視線を交わした男に手紙を書き、婚姻届にまで署名するわけだが、じつはそれ以前に、最初に会話を交わした男にこっそり名前と連絡先を書いたメモを手渡していたということになる。
こうした主題論的なねじれから、最終的には、ふたりの男をともに破滅させるのだから、小池栄子こそ、映画史上最強のファム・ファタールといえるかもしれない。

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*1:拘置所で差し入れが場違いというのは変な話だが、これは主題論的に見て「場違い」ということである。

*2:ただし「ノワール」というには、この場面は昼間で、空も曇天とは程遠い、明るい画面になっている。

*3:コンビニの男性店員も小池に対してていねいな応接をするが、小池は無言で代金を支払っている。

*4:なおテレビモニタに映った存在と「無理心中」を図る小池栄子は、日本映画史を遡ってみると『ゴジラ』(1954、本多猪四郎)で、ひとり芹澤科学研究所のテレビ画面で東京を破壊・炎上させたゴジラの映像(たぶんはめこみ合成)を見たために、オキシジェンデストロイヤーで初代ゴジラと運命を共にした平田昭彦の遠い末裔に当たると言えるだろう。映画におけるテレビメディアの活用という点で『ゴジラ』は偉大な先例である。

*5:誤解のないようにお断りしておきますが、ぼくは主題論的批評=テマティスムが万能だとか、最も方法論的に優れているなどとは、まったく思っていません。ぼくがテマティスムにこだわるのは「神は細部と細部のあいだに宿る」「テマティックとはシステマティックであると同時にサイバネティックである」といった、テマティスムの闘将ジャン=ピエール・リシャールの「喧嘩口上」に痺れた経験があるからです。なお、リシャールのいう「細部と細部のあいだ」とは、システマティックな変換関係であることは、いうまでもありません。

*6:そのメモには小池栄子の電話番号が書かれてはいるようだが、その電話は常に留守電の設定になっているし、しかもその音声入力を促すメッセージは小池栄子自身の声ではなく、既成の吹き込みによるものだ。残念!