日韓合邦がもたらした実学



 李朝時代の朝鮮半島は近代的な学校はなく、書道と呼ばれる寺子屋がありました。習字と漢籍素読を教えるだけで実学を一切無視したものでした。日韓合邦当時、その数は約1万6千で、児童総数は14万人で人口の1パーセントに過ぎませんでした。しかし、韓国では教科書に以下のように書いています。

「1905年以降、普成、養正などをはじめ数多くの学校が建てられ、1910年頃には全国の学校数が5000余となった」

 日韓合法の1910年は官立・公立小学校はあわせて百校ほどでしたが、保護国時代に日本が先導して設置した公立小学校がほとんどでした。5000校というのは昭和20年に日本が朝鮮半島から去るときの数字です。1910年に5000校というのは巨大なウソです。

 朝鮮の近代的「小学校」は1895年、当時の旧韓国政府が四校(壮洞、貞洞、桂洞、紬洞)を開校したことに始まります。四校あわせて187名でした。そして後に九校になります。1905年にはいり、日本の「朝鮮教育代行」という一大国家的規模事業がはじまり、1906年「普通学校令」が交付されます。総督府は可能な限り大規模に朝鮮全土に学校を設置する方針を定め、最高・最良の教育をすすめるための教科書や教師を整備していくことにも腐心しました。資金は日本から持ち出し(借款だが大韓帝国は不返済)官立九校、のほか、各道の主要都市で公立50校がまず整備されました。修身、国語(ハングル)、漢文、日語(日本語)・・・がつくられ出版されました。

 日韓合邦後は明治天皇からの恩腸金(おんしきん)1700万の利子の5分の1.5を初等教育に資することとして、これに総督府からの補助金を加えて小学校の増設をしました。
 
 1911年 136校増設
 1912年 107校増設
 1913年  22項増設
 
 1910年に100校だったのが1915年には410校となりました。総経費は115万円でこのうち恩賜金からの利息は2割を占めていました。
 昭和18年(1943年)には官立・公立の小学校は4271校となり、就学児童は日本人9万8169人、朝鮮人194万26人となりました。このほか就学2年の簡易学校は1853校ありました。
 「普通学校」の経費は朝鮮人に対しては負担を軽くし、在鮮日本人は朝鮮人よりも約8倍多く負担しました。
 
 京城帝国大学は1926年に設置されており、戦前の日本のエリート養成9大学のうち、6番目に設立されています。高等教育としては旧制高校にあたる「大学予科」のほか単科大学にあたる「専門学校」を官立で次々設立し、義務教育を目指していたことから師範学校を大幅に増設していきました。
 
 日帝が愚民化政策したなどというのは韓国の巨大なウソです。「学校に行けなかった人が大変多かった」とか「この地域では中学校は1校しかなかった」「朝鮮には京城帝国大学しかなかった」などといい、愚民化政策だといいます。昭和18年時点で就学率は61パーセントだから、39%の人学校にいっていない、ここだけつまめば学校に行けなかった人が多かったと、知らないひとは刷り込まれてしまいます。日韓合邦以前は何パーセントだったのかは言わない。「一校しかない」というのも人口に対して1校が多いか少ないかを述べずに単に、「少ない」という。大阪と名古屋の帝大より京城帝大が早くできたことは伏せて「大学がひとつしかない」という。こうやって事実の一部をつまんで見せて同情してもらおうと被害者ビジネスをやっているわけです。昭和21年には義務教育を実施する予定で、愚民化政策なら義務教育などしません。戦後の韓国の経済発展は日本統治時代の教育の賜物であり、今日の韓国の高い教育レベルも総督府の教育政策があったからです。
 
朴 正煕(パク・チョンヒ)第5〜9代大統領

「日本の朝鮮統治はそう悪かったと思わない。自分は非常に貧しい農村の子供で学校にも行けなかったのに、日本人が来て義務教育を受けさせない親は罰すると命令したので、親は仕方なしに大事な労働力だった自分を学校に行かせてくれた。すると成績がよかったので、日本人の先生が師範学校に行けと勧めてくれた。さらに軍官学校を経て東京の陸軍士官学校に進学し、首席で卒業することができた。卒業式では日本人を含めた卒業生を代表して答辞を読んだ。日本の教育は割りと公平だったと思うし、日本のやった政治も私は感情的に非難するつもりもない、むしろ私は評価している」


参考文献
 「歴史を捏造する韓国」中川八洋
 「日本の植民地の真実」黄文雄
 「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋著
参考サイト
 WikiPedia「朴 正煕」

添付画像
 京城女子師範学校(PD)