2012-01-02
2011-11-05
東北を巡った
たった数時間で現場に行ける京都にいながら、結局僕は一度も現場に行かなかった。
時を経て、震災の話が出るたびに、「なぜ自分は現場に行かなかったのだろう」と思うようになった。
恐らく何かに忙しかったんだろう。
しかし今考えみれば、それほど重要な用事があったとも思えない。
新聞記者をやっている友人が現地の取材のためにしばらく仙台勤務になった。
転勤の挨拶メールに、「そのうち必ず行くので会おう」と返事をした。
同僚のYさんが東北の海岸を車で巡った。
南三陸のホテルは元気に営業しているからぜひ行くと良い、と会社のみんなに紹介をしていた。
大学時代の友人が仙台の近くの被災地を巡り、写真を送ってきた。
みんなにも知って欲しい、と訴えていた。
東北大学の学生チームが、TEDxTohokuを立ち上げた。
「10月にイベントをやるので近藤さんも来ませんか」とご招待を頂いた。
行かなくちゃ、と思った。
空港のそば、レンタカーの営業所のとなりの飲食店の店舗は、ボロボロに壊れていた。
レンタカーの店員さんは、まるで何もかもが平常時と変わらないかのように応対をしてくれた。
名取市の高校の校庭には、つぶれた車が何百台も積み重なっていた。
どうして車が、波でここまでぐちゃぐちゃにへしゃげてしまうのか不思議だった。
高校の校舎には泥やがれきがそのままになっていた。
当時学校にいた人々は無事で、今は別の学校に移っていることを知った。
名取市閖上(ゆりあげ)に行くと、街がまるごと無くなっていた。
かつて家があった場所には、家の土台がまるで遺跡のように残っていた。
家の敷地は、家が立っている時よりも随分狭く感じるんだ、と思った。
閖上で営業を再開したコンビニの女性店員さんが、震災の事を話してくれた。
自宅の3階から、船や家が燃えながら流れてくる様子を見ていたこと。
その中には人が含まれていたこと。
おじいさんを亡くされたこと。
時たま涙が止まらなくなるので、我慢せずに泣くようにしていること。
そんな話を、明るく、気丈に話してくれた。
「みんな吹っ切れて明るく振る舞ってるのよね。『全部なくなっちゃったからね』、ってね。」と彼女は言った。
石巻市に着くと、水が引いておらず、壊れたままの建物が残っていた。
臭いが鼻をついた。
「壊れた日常」の中で、少しくらい普通に振る舞えるようになるには、半日かかるんだと思った。
南三陸町のホテル観洋は、ホテルとして完璧なサービスを提供していた。
真っ暗な夜道を走り、明かりが灯るホテルに着いた時、竜宮城に着いたのかと思った。
スタッフの方が、プロとしての仕事をてきぱきとこなしている様子に、大きな安心感と幸福感を感じた。
翌朝訪れた南三陸町も、街ごと無くなっていた。
がれきが残る荒野のような街で、ぽつんとガソリンスタンドとコンビニだけが営業をしていた。
最初に必要になるのは、人間の食事と、自動車の食事なんだな、と思った。
屋根もないガソリンスタンドから、「いらっしゃいませー」という威勢の良い声が聞こえてきた。
人は強い、と思った。
気仙沼市は多くの部分にまだ水が残り、壊れた建物もたくさん残っていた。
港も壊れていた。
壊れた港に船が着けられ、魚が水揚げされていた。
壊れかけの建物の中で、魚がさばかれていた。
舗装がはがれた砂利道の上を、魚を運ぶ車が忙しく走り回っていた。
修復がすんだ魚市場では、たくさんの人が魚を買っていた。
漁師たちの、強い意志を感じた。
両親や同僚に向けて、魚をたくさん買って送った。
陸前高田市も街ごと無くなっていた。
陸前高田市は広かった。
荒野がどこまでも広がっていた。
何もかもまだこれからだと思った。
東北を巡った。
街がなくなるとはどういうことなのか、自分で見るまで分かっていなかった。
2日間かけて走り回っても回りきれないほど、壊れている街は広かった。
何よりも元気を与えてくれるのは、人間の活動だと思った。
震災が、「どこか遠くの街のこと」から、「自分が関わること」に少し近付いた。
まだまだこれからだ、と思った。
2011-10-11
スティーブ・ジョブズ
木曜日の朝、僕は自宅で新しくAppleのCEOになったTim Cookはどんなプレゼンをするんだろうか、と思って前日行われたキーノートスピーチをビデオで見ていました。
それから会社に移動し、30分も経たない間にスティーブ・ジョブズが亡くなった事を知りました。
既に痩せ細った姿が報じられ、いずれは、という事は感じていたものの、実際にそれが起こってみると、体の力がすーっと抜けていき、うまく体に力が入らなくなりました。
正直なところ、なぜ自分がそれほどまでにショックを受けているのか、最初は分かりませんでした。
アメリカのとある会社の社長が亡くなったことで、どうしてこんなに自分はショックを受けているんだろうか。
最初に思ったのは、自分が毎日Apple製品に触れているということです。
ここ数年、電話はiPhone、パソコンはMacbook Airです。
以前にPower MacやMacbook Proを購入したときは、結局Thinkpadに戻りました。
iPhone 4、Macbook Airあたりからは、ジョブズのものづくりもいよいよ極まってきたな、という感じで、一度触ると他の製品をメインで使う気がしなくなりました。
この頃から、ジョブズの経営スタイルは独裁的過ぎるとか、ジョブズがいなくなったらおしまいじゃないか、という批判はどうでもよくなり、少しでも長くジョブズの時代が続いて欲しいと願うようになりました。
僕は朝から晩までインターネットに接して生活していますが、その活動のほとんどを、スティーブ・ジョブズの意志が反映された製品を介して行っていることになります。
美しさ、使いやすさと、技術の高さをこれだけのレベルでバランスさせた製品を作ることができる才能。正確に言うと、それだけの製品を作る組織をmanageできる才能を永遠に失ってしまった事に、大きな喪失感を感じました。
さらにしばらくして、ショックを受けている要因はそれだけではない事に気がつきました。
2006年にシリコンバレーに行った頃、僕はスティーブ・ジョブズ-偶像復活を読みました。
読んで感じたのは、彼の人生が全く順風満帆ではないということ。
30歳で自分が創業したAppleを追われたのは有名ですが、そこに至るまでも社内で製品開発の方向性を巡って対立があったり、社員と対立したり。
そんな中、社員を連れて海辺に合宿に行ったり、新製品を開発するチームを別の建物に集めて密かに開発をしたり、といつも反逆者のような事をやっている生々しい姿がそこに描かれていました。
そんな波瀾万丈の道のりに刺激を受けて、僕は東京に戻って開発合宿を始めたり、新規プロジェクト用にマンションを借りてみたりしました。
自分が経営の仕事をする中で、これまで何度も壁にぶつかりました。
少人数で勢いよくサービスを作っていた頃から、規模を拡大し、組織でサービスを提供する体制へと変遷するのにも随分苦労をしました。
そんな時に、ものづくりの先頭に立つ経営者であり、30歳の時には経営に失敗して会社を追われながら、最期には世界最高の会社を作り上げたジョブズの存在が、自分の心の支えになっていたことを、彼を失って初めて深く感じました。
これは僕がシリコンバレーに行った最初の頃に、Computer History Museumで撮影したジョブズとウォズニアックです。
コンピュータの歴史に貢献したたくさんの人の写真が飾ってある中で、僕はこの写真だけをカメラに収めていました。
当時僕は、世界に通じるサービスを作ろうとシリコンバレーで3人で挑戦を始めたところでしたし、創業の頃も3人でした。
そんな自分をどこかで重ね合わせていたのかも知れません。
人と違う事をやることを恐れず、自分の直感を信じて、世界を変えるようなものを作る。
彼が示した生き方を、自分もまた少しでも体現できればと思っています。
あなたは最高でした。















