不安が伴なう信仰

 六甲教会説教箇条書き、08・08-10、年間19主日、不安の伴なう信仰

 海の上を歩くペトロ。これは忍者みたいな話しでしょうか。
昔の中国にはある有名なお坊さんが完全な最高の悟りを得ると湖の上を平気に走り出すという不思議な技を行ったと伝えられました。その不思議な力のことを神力と呼ばれてそのように古い仏教の経典に書いてあります。

 ところで、マタイとマルコとヨハネ福音書に書いてあるこの話は不思議な力の話しではありません。湖の上を歩くペトロ、自信を失うと沈み、湖の上を歩けなくなるペトロ。この話しは奇跡物語でもなければ、起こったとおりの出来事でもなく、例え話しです。

 最初の頃の教会を指導するペトロは兄弟たちの信仰を支える役割を担っているペトロですが、そのペトロこそ動揺したりするものです。そしてそれを遠慮なしに描くマルコやマタイやヨハネはペトロの弱さを隠しません。それこそ私たちを励ますところです。信仰には疑いが伴うのは当然です。信仰者の心の中には信仰が弱くなったり強くなったりし、死んだり蘇ったりします。

 この話しは奇跡物語でもなければ、起こったとおりの出来事でもなく、例え話しです。この話しの中で、一番歴史的な事実のところはその前置きです。

 23節には次のように書いてあります。「群集を解散させてからイエスは祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になってもただひとりそこにおられた」。ひとりになって祈っているイエスはなんとさびしい気持ちになったのでしょうか。 

 群集からも弟子からも理解されていないイエス。群集は利益を求め、パンを増やしてもらいたい。弟子も不思議な奇跡を持って神様の力を借りて権力をにぎりたい。しかし、イエスが伝えようとしているのは別なことです。

 イエスが引き起こそうとしている運動は別なものです。父なる神に対する信頼に基づいて兄弟姉妹の世の中で天の国を作ろうではないかというのはイエスの夢ですが、それが理解されません。

 昔も現代も誤解がくりかえされます。民間宗教では利益や奇跡が求められ、教会の指導層は権力にあこがれてしまいます。このようにイエスの計画が誤解されます。

 天の父にむかってひとり山で祈っておられるイエスの姿を仰いで私たちは考えさせられます。