有徴化 われわれは普通であり、特別で異常なものとしてマーク付けされ名づけられるべきは彼らである。
という主張はどの陣営もするものであって、このような主張について中立的な決着は、よほど数に大差がついてでもいない限りつけられない。そしてそういう意味での自己の相対化ができていない人は十年前には左のほうが多かったのだろう。
あと、ネット上でのわらわらとコメント欄にあつまってくる現象について、オフラインでの背景があると仮定するのはよほどの根拠がないとほとんどの場合で間違いだろうと。ゲートキーパーとか例外はあるけど、例外は例外だから目立つわけで。
http://d.hatena.ne.jp/another/20050210/1108049186
はい。あると思います。ただ、それは段階としては、まずくくりだされ、マーク付けされるという第一段階を経て、この第一段階で、「普通」の地位を獲得するのに負けた側が、この(与えられた)マークを肯定的に引き受けなおす、という第二段階のカウンターとして起きる現象だと思うわけです。まず、第一段階としては、かならず、「普通」でしるしなし、の状態を目指す、といっていいのではないかと。もっとも有名な例では「Black is beautiful」があったりとか。
追記 ああ、でもことはそんなに単純ではないか。むしろ与えられたマークを肯定的に引き受ける戦略をとるか、相手にマークをつけ返し、自分たちを再び透明化(普通であると主張する)する戦略をとるかという選択肢が存在し、個々の状況によってどちらかが選択される、ということなんだと思います。
法外の正義と制度としての正義
id:mojimojiさんやおおやさんのところの議論はまさしくデリダあたりの議論なのだろうし、アクチュアルでもあるんだろうからたとえばid:hazumaさんとかid:shinichiroinabaさんとかが介入すると面白いのかなあと無責任に思ったりするわけだけども、一方でこれは正義を社会的関係性によって産出される対象として考えると社会学の領域となるわけでid:contractioさんあたりも関係してくるのかなと、まあここまでは単なる連想。
本来の法廷の問題となるともう法廷と名乗ることの波及効果というかコミットメントはどこまで及ぶか、ということにつきるんだろうと思う。手続き的な連続性において法廷でないものが法的権威を要求するのは問題外だし(とはいっても独立宣言や革命とかいった法創設の場面では話が違うんだろうけど、これは遡及的なかなり強い同意による正当化を多分要求するはず)、そこまでは擁護側も別に認めてはいない。だから、そこではあの法廷がそうしたものを要求したかどうか、という事実認定の問いが重要になると思う。ただ、法廷と公的に名乗るというだけで、たとえ法執行にかかわる法的効力がなく、そうした効力を主張していなくても、法にのっとった判決であると主張することは、法秩序に関して侵犯的な効果をもつといえるか、というのは議論になりそうなところ。ぼくは事実認定に関しては詳しく関知していないのだけれど、法廷であると名乗ること、法に従って、これが法が求めているはずの判決であると主張することは、実定的な法的権威に対立し、挑戦する対抗的な法的権威を設立することにはならないのだから、法秩序の一貫性と自己完結性、あくまで手続き的に正当化されるべきことが結果としてもたらす法執行の安定性が、正義の現実的保証のためには必要であるという議論と矛盾しないと思う。すなわち、私設の擬似法廷が、厳密に法を模擬し、実際の判決というか法関係と異なるものを、これが本来法が求めているはずの、法に正しく従えばもたらされるはずの判決であると主張することは、それだけでは、現実の法のもつべき権威と強制力、そこからもたらされる法的安定性への挑戦や侵犯にはならないと考える。ここでの条件は、あくまでも、その「判決」が、判決ではなく、判決が正しく行われていたとしたらそうであったとわれわれが考えるものである、という資格を明確にすることで、それ自体として何ら法的ステータスをもつものではないということが明確なことだろう。つまり、そのありうべき判決と、この模擬法廷の「判決」は、「主張内容」において同一だが、形式および法的ステータスにおいて異なる、という立場。だから、ぼくには、おおやさんの議論はよくわかるけれども、そこで懸念される危険を、法廷と名乗っているということだけから読み込むのは読み込みすぎなんじゃないか、と思わずにはいられない。ただ、実際に、判決に、実効的な法的権威を要求している、というような事実があるのかもしれない。そうであれば、それは違う、というのはよくわかる。
で、法外の正義については、しかし社会学的には、何が正義であるかというのは、一定の記述可能な規則によって社会的に産出される判断である、という立場もあるわけで、ここでは客観的な記述的視点と、主観的な実践者の視点の乖離があるんだろう。正義がどのように決定されるか、そしてそういうものでしかない、という認識を有している人物であっても、その人物が、正義が何であるかを決定すべき立場に陥れば、その認識は何ら助けにはならないわけで、仮に正義の社会的決定ルールを知っているから、それにしたがって判断したとしたら、これはまさにその知識ゆえに、その決定ルールからは逸脱していることになる。実践倫理的な判断のフェーズにおいては、どうしたって、正義は、超越的なものとしてあらわれるほかない。正義を実在的な共同体規範とみなすという決断でさえ、その実在的規範を、正義を体現するものとして、二重化して体験することになるだろう。そのかぎりでは、超越的な法外の正義の観念は排除できない。つうか、法的判断には公序良俗なるものも関係するし、法が正義に関する期待と一致していることは、法の言外の大前提であること、法的判断において法規定にかんする相互参照が一義的に判決を決定(いわば計算)できないとき裁判官は正義に関する信念に従って(規定の相互参照の観点だけからいえば等しく正当な判決のうちひとつを)判断するということ等は、やはり法が前提にし期待していることだと思う。その意味では、法外の正義は法によってインプリシットに予定されているはず。
参照。
http://d.hatena.ne.jp/using_pleasure/20050206#1107633259
あとこれ。読んでないけど。

“法”と“法外なもの”―ベンヤミン、アーレント、デリダをつなぐポスト・モダンの正義論へ
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あの戦争の肯定論を
きちんと批判するには、どうやらいわゆる「ABCD包囲網」にかんしてきちんとした議論を提供することが必要らしい。しかしあれが中国侵略への経済制裁であったなら、とりあえず中国侵略の是非を論じるだけでよさそうだけど、どうなんだろう。封鎖の動機が権益の対立であったとしても、封鎖の建前が中国侵略の不正であったなら、それに反駁できない限り、「本当の動機」をもって封鎖を不当とみなすのは筋違いだろう。人口過剰による植民地獲得の正当化という議論に関しては、一般的に当時の植民地主義一般について議論が成り立ちそうだけど、そのへんどうなのか。単純に考えれば、過剰人口や流出人口を、本国政府が支配する必要や正当性があるという議論はおかしい。ドイツの生存圏の議論とか。アウタルキーとか。あとインドネシアなどの独立派と日本軍の利害の複雑な交錯はたしかに単純ではない。しかし、日本軍は基本的には独立派と提携、あるいは利用したのであって、できれば支配しつづけるつもりであったことは疑いないのだから、独立の達成には、むしろ、「日本が負けた」ということが必要条件だったとはいえる。敗戦前に独立が約束された場合でも、明らかに、背景に劣勢が明らかになったことがある。日本軍が優勢の状態で講和に持ち込むことが可能であったとして、その場合、欧米を駆逐したあとのアジア諸国に、市民的自由、集会結社の自由を与えただろうか、あるいは、日本人を副官政治のような形で属国として支配するような以外の、実質的な独立を与えただろうか、という問いは、ぼくには、非常に疑わしく見える。二十年とかたったあとなら話は別だろうが、それはもはやぜんぜん別の話だろう。自己統治能力をそなえるまで、かわって統治する、という論理を持ち出すならば、まさしく典型的な植民地主義的言説だろう。
追記。
じつをいえばぼくは、あの戦争を、自分がしたことのような意味で、後悔し反省すべきだとは思わない。しかし、目の前で今誰かがそういうことをしようとしたら非難し、とめようとすべきだ、という意味では否定すべきだと考える。で、それでいいのではないか。
土地調査
朝鮮総督府の行った土地調査は土地関係を近代化(排他的で個人主義的な所有関係を確立)したため、近代化に貢献した、これは事実。
しかし前近代的土地所有に配慮しなかったため、とくに共同所有であったもの、個人の所有権が明確に証明可能な形で整理されていなかったものについては容赦なく没収、あるいは有力者への払い下げ、国有化などを行い、(もちろんすべては合法的であった、この場合、不当性は立法論の領域に属する)、その過程で、土地を不当に奪われ貧困化する農民が広範に出現し、やすく市場に出た土地を資金を持っていた日本人が買い付け利益を得たのも事実。
その点では、イギリスの産業革命で囲い込みで農民が土地を奪われて労働者に転換したのと少し似ている。資本主義の成立のための原始的蓄積という近代化の「原罪」とでもいうべき行為を日本が担当したのは歴史の偶然だが、好きでやったことなのだから、非難をよそにもっていける、というのも変な話で、産業革命当時の資本家の横暴が非難されるべき程度には非難に値するだろう。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/shazai/2shou.html
日本人が朝鮮人を蔑視し、差別したことは否定しない。それは彼らの大半が文字を読めず、貧しく、不潔だったからである。特に両班は貧乏なくせに、気位だけは高く、働こうとしなかった。これでは差別されても仕方がない。しかしまじめに働き、栄達した人には惜しみない拍手を送っている。その代表が力道山であり、元衆議院議員・朴春琴であった。
ところでこの言い草どーよ。貧しく不潔で不遜な態度の人物は差別されて当然だろうか。
はてなブックマーク
http://b.hatena.ne.jp/
うわ、おもしろそう。でもたしかにどうつかうのかいまいちイメージしにくいな。
北朝鮮の核兵器保有
殺戮兵器をもっているといばって宣言するな、バカ。
自由主義 リベラル のはらさんのところ
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050209#p3
善に対する正の優越
http://plaza.umin.ac.jp/~kodama/ethics/wordbook/priority.html
ところで、大学の教員の方の大学ドメインの個人ページって、移動のたびにページも転々と移動・消滅するので勘弁してほしい。できればもう少し何とかならないものか。
法律事務所 グレシャム
ひたすら、金持ちはいいなあ、という感想。あと、FBIを信用しないところがいかにもアメリカ人的。
富豪刑事
は見てないのだが、考えてみれば、莫大な金と権力があれば、名探偵の推理に凡庸な人物でも確かに匹敵できるなあ、と。いや、単純に高度な科学力でもいいんだけど。その限りでは、推理というのは、あっけないものである、という面もある。逆にいえば、推理合戦が機能するためには、犯人が予想している科学捜査の水準を実際の水準が上回らないこと、という条件は必須。
ハリ・セルダン
人間の社会的行動って、ミクロの不確定性がマクロにはならされて一定の枠内に原理的には予測可能な形で収束したりするんだろうか。それとも収束しないんだろうか。そのへん、社会科学者はどう考えてるんだろう。経済学者的には予測可能であってほしいだろうけど。ああ、でも不況になれば不満がたまるとか、記述の細かさに依るのか。
なんでもかんでも権力だ、という件について
http://d.hatena.ne.jp/pavlusha/20050209#p3
ちょっと物まね。それはともかく、フーコーの議論についての(多分)ルーマンの、でもそれだと分析が拡散して意味のあることいえなくなるよね、という批判のほうがよくわかるんですよね。なんでもかんでも権力の現れであるという議論が意味を持つためには、しかし原理的には権力の表れでないこともありうる、ということが前提にあるはず。だから、フーコー的な問題設定において本来核心にあるべきなのは、では、いかなる場合に、どのような基準で、関係は権力的であるか、という区別が解明されることだと思う。つまり、なんでもかんでも五十歩百歩で権力なんだよ、という話ではなく、五十歩と百歩の距離はいかに、そしてどのような形式で存在するか、ということ。あるいは、許容可能で不可避な、あるいは必要でさえある権力作用と、容認できない権力作用の区別はどのようにして設定可能であるか。そういう意味では、フーコー御大がというより、専門外で引用する人が、(念のため、リンク先のことにあらず)たとえば監禁は悪だ、とか、精神医学は悪だ、というような形で使っていて、じゃあ、監禁や精神医学をいっさいなしの公正な社会を構想可能か、という問いには目をそむけているという気がする。