村上春樹とノーベル賞

2016年の文学賞は、ボブ・デュランに決定したが、彼は沈黙している。

受賞がふさわしいかどうか、受賞を辞退するかどうかが関心の的だ。

一方で、村上春樹がまたも取り逃がしたことだが、それは当然だと思う。

専門的にいろいろ研究している人がいるだろうから、ここではシロートの乱暴な意見である。

あるときからまったく彼の小説世界に入り込めなくなってしまった。

その理由は、他の(祖国を捨てた作家も含めた)ノーベル賞作家の作品との違いだったような気もする。

彼の小説には、母国がない。その土地に宿る記憶がない。血のつながった親がいない。

だからこそ、彼の作品は翻訳され、世界中の故郷喪失者=都市生活者に行き渡ったのだろうが。

賛否両論のあるボブ・デュランの背後には、星条旗がはためいている。


 「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ。」

 鼠はカウンターに両手をついたまま僕に向かって憂鬱そうにどなった。

                       ─風の歌を聴け─より


この作品を彼は翻訳許可していないそうだ。本当だろうか。



ほぼ千日ぶりの更新。パチン。

雪の朗読会

8日の雪の中、日本近代文学館という所に、初めて行った。

雪の駒場東大前駅に降りたのも初めて。朗読会というものも初めてなら、

絲山秋子氏、阿部日奈子氏、伊藤比呂美氏に生で会うのも無論初めて。


絲山さんは性別不祥な声で、ニイタカヤマノボレを淡々と朗読された。

鉄塔のある土地の、男と女と預言者アスペルガーのいとこ、

あらすじよりも、映像が目に焼きつくような小説だ。

終わってみると、バラバラの写真が数枚手元にあるものの何もなかったような…

そんな感覚はどうしてだろうか。小説の朗読だから?


詩の朗読を荒川洋治さんは否定なさっているが、阿部さんの「朽ちなむ名こそ」の朗読を聞き、

詩が立ち上がるというか、詩を聞くうちに、人物が登場するという感じがあった。

文楽が下書のせいもあるのだろうが、芝居小屋にいる気分がした。

思いもかけない新鮮な体験だった。


司会の伊藤比呂美さんの詩の朗読も聞いてみたいものだ。

だた今回、詩と小説の垣根について話すのなら、伊藤さんに

沖で待つ絲山秋子 芥川賞受賞作品は読んでおいてほしかったな。

あれはPCに残した詩のようなものを消しに行く話ではなかったか。


雪の中をゴム長で歩きながら思った。

近代文学館には、まったく女の作家の匂いがしない。

現代は引き伸ばされ、今近代は埋もれてしまいかけている。

近隣の豪邸がまた妙に現代建築ばかりだ。存続の寄付金を募ってはどうか。


雪の中、絲山さんは猟銃を担いで、犬と獲物を探しに行く。

阿部さんは、寒い道場で、はだしに白い鉢巻でナギナタを構えている。

伊藤さんはフットワークを止めることなく動いていて、空手あるいは少林寺

そんなふうにも見えた、現代文学の戦う女たち。


そうそう、中のBUNDANのコーヒーは、ここ数年味わったことのないおいしさだった。

ジャワコーヒー、鴎外。また飲みたい。