高橋悠治高橋悠治 | コレクション70年代」音楽の学習のために より

大衆は現代音楽を聞かないからこれを大いに啓蒙しなければいけないというような結論をすぐだしたがるひとがいるが、よくないことである。この場合啓蒙といっているのは相手は何も知らないという前提にたって、わかっていると自分では思っているひとがその意見を相手に押しつけるわけで、どこまでいっても一つの偏見のかわりにもう一つの偏見を押しつけることにすぎない。それではどうすればよいのか?いったんある偏見をうえつけられた人はなかなかそこから出るのがむずかしい。そこに別の偏見を持つ人がきて、自分の意見をわからない相手がまったくの白紙であるときめこむのもおかしい。子どものころから家で聞いている音楽があり、学校へ入るとそれとはちがう音楽を教えこまれる。そこから複雑なかたよりが生じる。ほんとうの教育は、そうしてかたよっているものにまた別なかたよりを与えてよくしてやろうというのではなく、無意識に身についているものについて自分で考えることをうながす方法ではないだろうか?

いろいろなものを聞くうちに、自分のものがわかってくるということは別ないいかたをすれば、自分の求めるものがあるからこそ、いろいろなものがそこで意味を持ってくるということである。音楽の永遠の定義をどこかに求めるよりは、一曲の音楽を自分がどういうふうに聞いているか、この音楽と自分がどういうふうにかかわっているかということから逆に、その音楽の意味を見つけ、またそれに写してみて自分の位置をはっきり知ることがたいせつなのだ。


私の知る即興というとやはり音響的即興のことで
それ以外の即興は全く知らないか全く知らないのと同じくらいで
ここになにを求めていたかというと
いま批判的に言われているようなテクスチャーではなく
奏者の気合いとかやる気とか集中とか才能とか能力とか魅力とか
そういう曖昧なファクターばかりではない解釈が可能で
なおかつ計算(コンピュータ)とは別の原理による運動性だったように思う。
だから佐々木敦(だけではないようだが検索してみると)のいう
即興演奏とアフォーダンスという組み合わせで考えることは面白いと思っている。
あといつも思うことだが
テクスチャーが批判的に問題にされたからといって
テクスチャーがまず目につくようなものはすべて最初のふるいで落とされてしまって
思考の範囲にも入らない(入れない)というようなことがなされていたりするのは
まあごく狭い範囲ではあるかもしれないが一体どうしてなんだろうか。
音楽ジャンルとしての音響的即興に見切りを付けるのは勝手だが
それと同時にひとつの人間的現象としての即興にも見切りをつけてしまうのは
とてももったいないような気がするがどうなんだろうか。
「即興」なんてキーワードはなんでも当てはまるから
それだけ広く考えられるものだと思うのだが。
そう思うと吉村さんはそういう磁場(シーンではなく)の近所にいながらも
流されることなく自分の思考を続けているのがすごいと思う。
というようなことがユリイカ大友良英特集の杉本拓さんの文章を立ち読みして思ったことで
いつもながらこの人の考えていることは面白いと思った。
宇波さんの文章も立ち読みだがその語り口も含めて面白いと思った。
吉村さんの文章はなんだか立ち読みではしんどい気がしてやめた。