一昨日から断続的に、断続的?『だん‐ぞく【断続】[名](スル)時々とぎれながら続くこと。』時々とぎれながら続いて雪がふっていて、一昨日の夜に雪だるまを作った。10センチは積もったのか。近年まれにみる豪雪だと思う。佐賀では。かなりでかい雪だるまが作れたので、140cmくらいはあるか、つくれたので、ということはけっこうの厚さで積もっているということになる。なので寒い。29日の夜に、風呂で、東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」を読み終える。その後、空港までと飛行機のなかでは引き続き、山本理顕,中村拓志,藤村龍至,長谷川豪「地域社会圏モデル ――国家と個人のあいだを構想せよ」を。飛行機の中では、山本理顕,長谷川豪,原広司の鼎談。雪だるまの下半身になる雪玉を転がしたので、背中が痛い。昨日から。わりとでかかったので。さきほど武雄温泉に行くまえにブックオフオンラインにて、宮下規久朗「ウォーホルの芸術 20世紀を映した鏡」、佐々木俊尚「インフォコモンズ」、古市憲寿本田由紀「希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想」、ジョージ・オーウェル「一九八四年」(新訳版)を注文。このまえ注文した4冊は注文して三日後くらいに来たな。びっくりした。フリードリヒ・A. ハイエク,スティーヴン・クレスゲ,ライフ・ウェナー「ハイエクハイエクを語る」と小林啓倫「AR-拡張現実」とバーナード・クリック「現代政治学入門」と奥村佳史「法人税が分かれば、会社のお金のすべてが分かる」。書名がいっぱい。エアコンをつけていて乾燥してきたので、湯沸かしポットのフタを開けっ放しにしてスイッチを入れる。本棚の半分くらいはまだ読んでない本なんじゃないか。やばい。コツコツいくしかないが。ひょっとすると2/3くらいかもしれない。うわっ、湿度30%だ。ばあちゃんはかつてじいちゃんとばあちゃんの部屋だった部屋でおじさんの隣で寝ている。いまの文に出てきた、最初の「ばあちゃん」は母ちゃんの母ちゃんで、次に出てきた「ばあちゃん」は父ちゃんの母ちゃん。よってこの文章のなかの「じいちゃん」は父ちゃんの父ちゃんということになる。猫はいつものイスで寝ている。あまりに寒いので、一昨日ユニクロで、ライトダウンだかそういうのを買った。けっこう高くて6000円もした。オレンジ色。妹曰く、田舎のヤンキーのごたっ。無印の3枚1000円のTシャツを着て、ヒートテックの9分袖のロンTを着て、ユニクロのフリースを着て、件のライトウェイトなんとかを着て、2年くらい前から実家にあるユニクロリバーシブルの中綿入りジャケットを着る。するとあったかい。今日はもうしばらく起きている。ばあちゃんが起きてトイレに行きたくなったときに、誘導してあげるため。寝起きではどこがトイレか分からなくなるため。というか、いまいる佐賀の家は、いままでいた西宮の家ではないので、どっちみちトイレは分からないだろう。昨日は何回か機嫌が悪くなりそうな場面があったが、なんとかしのいだ。さっき一回、トイレまで誘導したので、まあばあちゃんが寝ている部屋の隣にある応接室に置いた簡易トイレだが、ひょっとしたら朝までもう起きないかもしれないし、そろそろ本格的に起き出す可能性もある。普段ばあちゃんがいる施設の人曰く、0時に寝て4時くらいに一度トイレに起きて、そのまま起きていることもあるし、また寝ることもある、とのこと。年をとるとあんまり寝なくても大丈夫になる、っていうのは本当なのか。とはいえ、ばあちゃんは昼間うとうとしているが。また、こういう記述は分類するならば「日常」の記述ということになるのだろうけれども、そこで思うのだけれども、「日常」っていう言葉によって生じる、日常/非日常の区別ってなんなんだろか。日常/非日常の区別を暗に前提にした日常賛美?という疑問は常に生じてしまう。だから、「日常」と言わずに次々と言い換えていくわけだけれど。ノン・フィクション(事実)/フィクション(虚構)の対立とも言えるのかしら?いや、新旧のフィクション形式の対立のような気もするし、いまの時代のリアル志向の現れだというのがいちばん近いのかな。しかし、リアル志向ってなんだろな。一年の計は元旦にあり。一年の計。4月で自治会の任期が終了。うーん、あと貯金だな。この前、いろんな人が自分の専門や趣味とは別のなにかひとつをやってみるといいんじゃないか、その「なにかひとつ」がどのようなものであるかが重要なのだがなんともいえない。いわゆる一貫した「活動」である必要はないと思う。それだと「仕事+余暇+なにか」のように仕事・余暇と同次元のはなしになる。プラスワン、なにをやるかはその都度の関心や社会の需要にあわせて流動的でいいとは思う。というようなことを、武雄温泉で考えていたら、まさしくその名も「プラスワン運動」というのをそれも佐賀県がやっていた。→http://www.pref.saga.lg.jp/web/plus1.html あと、ブログでプラスワン運動の紹介をしている人がいた。→http://blog.canpan.info/shimanetottori/archive/924 このブログによると、佐賀県のプラスワン運動は『すべての県民が家庭や職業上の役割のほかに社会的役割を一つは持ちましょう!という運動』らしい。で、公務員から率先してやっている模様。はてさて、働くことが生きていくための金銭を得る苦役だと理解されている社会でこういうのはどのように受け入れられるか。「役割」概念の説明をまずきっちりやっていかないといけないやろなー。うーん、そして、どうしても「役割」ベースになるのは分かるが、つまり他者からの承認がベースになるのは分かるが、そっちの方が分かりやすいしやりやすいからだけれど、とはいえゆくゆくは、持っている技術と、それに加え、自由に使える時間・いま持っている関心をベースにしてやっていけないか。というのも、「役割」というのは集団における関係を前提にしているわけで、ひとりぼっちでは役割など生じない。自分のことをやっていればよい。役割:自分。職業:自分。ほいで、集団における関係を前提にするからには、集団の運営にかかわるもろもろのうだうだが絶対につきまとってくる。そしてそれはやっぱりストレスなわけで、そのストレスをどう処理するかが問題。それを個人に押しつけるのはちょっと無理があるので、たとえばそれぞれの意識を高めよとかコミニュケーションスキルを高めよとかそういうの、まあそれはそれで分かるけれども、個人レベルでの改善に加え、いや、「加え」ではなく、個人レベルの関心や意欲の喚起とかいうやつは集団の運営方法というかプラットフォームの稼働の過程で生み出せないか。そもそも佐賀県の「プラスワン運動」も、なんというかいろいろな社会問題に当事者として意識的に接している人でなければぜんぜん興味もなければむしろやりたくないんだろうなと想像できるわけで、なし仕事以外になんかせんぎいかんとや、めんどくさか、ってなるわけで、それはやはり自然なことだろう、いまの状況では。で、別にその状況に対してなんか言ってもしょうがないというか、これはいまの私たちの生の条件の結果でしかない。なので、仕事と余暇(趣味)とプラスワンなにかをやることになにかしらのメリットを感じられる、それもより多くの人が、プラットフォームの設計はどうしたらできるのか。そもそもそのようなプラットフォームは実現可能なのか。気になる。ひとつ可能性がありそうなのが、いままで対価を払って受けていたなんらかのサービスを物々交換ならぬ事々交換にしてみること。もうあると思うけど、人と人の関係というより、もすこしドライな互酬関係のプラットフォーム(ある物理的な圏域を土台にした)を設計することで実現できないかしら。仕事と余暇(趣味)とプラスワンなにかをやることの動機付けに、社会貢献とか承認欲求とかを使うのは、なかなか難しかろうと思う。だって、その方法だと、意識の高い/低い、みたいな対立がぜったい起きるでしょう。じっさいそこここで起きてるし。敷居が高いわけです。別にそんな「意識」ないし、っていう人には。そうなってしまっては、多くの動員が見込めないし、動員が見込めなければ多様性も流動性も望めない。敷居について考えることは、たまたま不幸な条件が重なったために世を拗ねてしまった人について考えることになる。語弊があるのかもしれんけど。といっても、世を拗ねた人を救いたいとかではなく、ただ手と頭が足らないのでなんとかお願いしますよってことだと思う。別に拗ねたままでいいから手伝っておくれというか。つまるところ、「救う」とかじゃないということ、「宗教」になったらいかんやろということか。社会貢献とか承認欲求を軸にすると宗教の構造に似てくる気がする。宗教は神の名の下に個々のパフォーマンスを最適・最大化し、かつ個々のパフォーマンスを連結・集約する。社会貢献は善やら正義やらという名の下に個々のパフォーマンスを最適・最大化し、かつ個々のパフォーマンスを連結・集約する。承認欲求は相互承認の名の下に個々のパフォーマンスを最適・最大化し、かつ個々のパフォーマンスを連結・集約する。いやそれでもいいんだけれども、その宗教から排除される人も当然でてくるし、その排除された人の持っている手と頭がもったいない。意欲や意識は目的でも属性でもなく単に条件なのであって、条件であるからには、私たちの生きる上でのもろもろの条件・約束事と連動するだろな。あとはまあ、世を拗ねてしまうのは自分の生得的な「性質」ではなく、そのような条件の下にいままさに置かれている、もしくは置かれてきた、というだけなので、あまり気にする必要はないと思う。だから拗ねててもいいし、拗ねることはまさに「拗ね」を通じて様々な問題を提起していることでもある。まあでもそこで「拗ね」を盾に、オレは拗ねの当事者やぞ!どうにかせい!みたいにクレーマー的行動に出ることもあるが、うーんまあこれはこれでアリだとしないと成り立たない。ひととおり苦情は聞かないといけないだろうが、そこから先の「どうしたらよくなるか一緒に考えましょう」が成り立つところまでいかないとどうしようもなかろうな。でもなかなか成り立たんやろな、たぶん。お前がどうにかするんやないんか!って怒られると思う。クレーマー的行動って責任の所在をはっきりさせるのが目的で、誰のせいか決めたいだけで、クレーマー的行動に出た当人は別に解決を求めてないというか、解決は自分の仕事じゃないと思っているフシがないか。ないか。どうやろか。あと、山本握微さんの言う「普通芸術家」ってまさにプラスワン運動だよね。佐賀県の目論見とはずれるんかもしれんけど、「家庭や職業上の役割のほかにもうひとつ社会的役割を持つ」という定義には合致する。