今ここの奇跡 Every cloud has a silver lining.
仏教でいうところの「苦」は duhkha (ドゥフカ)というサンスクリット語に由来します。 原義は「思いどおりにならない」ということです。
私達は、様々な「思い」・(生理的な)欲求・(精神的な)欲望を抱き、目標や予定を立てて生きています。
身も心も、快を求め、不快を避けるというのが、私たちのよくある姿です。
あるべき姿、あって欲しい姿と、今ここの現実を較べ、今ここを否定し、
怒り、焦り、こころは未来へ向かいます。
あるいは、理想と現実に大きな差を感じ虚しくなり、
今ここの快楽に執着したりします。
仏教では、苦の滅に至る六波羅蜜の修行を説きます。
後世になって、仏道者達によって「南無阿弥陀仏」という帰依という道も示されましたが、基本的には仏教は、修業し「一切空」を認識する「成仏」の教えです。
私の聖書には、「あなたの十字架を背負いなさい」と述べられています。
ゴルゴタの丘に建てられた三本の十字架
マルコ伝、マタイ伝には、両端に架けられた二人の盗賊もイエス・キリストを罵ったと書かれていますが、ルカ伝には、
一人の罪人は、イエス・キリストに「貴様は救世主(キリスト)じゃないか。自分と俺達を救ってみろ。」と罵り、
それに対してもう一人の罪人が、
「俺達は自分でしたことの報いを受けるのが当たり前だが、このお方は何一つ、道に外れたことをなさらなかったのだ。」
それから、イエスに言った。
「イエス様、今度あなたのお国と共においでになる時には、どうか私のことを思い出して下さい。」
イエスがいわれた、
「アーメン、私は言う、その時を待たずとも、あなたは今日、私と一緒にパラダイスに入ることができる。」
とあります。
世の中にはいかんともしがたい「不条理」があります。すぐにはほぐれそうにもない複雑に絡み合った「誤解」があったりします。そんな中で、過ちを犯したりします。
この一人の罪びとは、イエス・キリストの復活を見たのではありません。復活の前に、イエス・キリストを信じました。
例え、十字架に架けられた状態ででも、パラダイスにいることができる、と私も思います。
仏教の智慧は、快刀乱麻、複雑に絡み合った糸をほどくのでしょう。
聖書は、私に、複雑に絡み合った誤解の中での安らぎを示してくれます。
棍棒でたたかれた膝から血が流れ続けているままで。