【小説】『天使がラブソングの』 第二章
と言う訳で第二章です。
……あー色々とやっちゃったなぁ。
どうしてこうなったし。
『天使がラブソングの』
第二章
この世の中で起きる全ての出来事にはなんらかの意味がある。
私はそう信じて生きてきました。
全ては神の御心のままに、大いなる意志に導かれているのだと。
だとすれば、私に宿ったこの想いは果たしてどんな意味があるのでしょうか。
何故、どうして彼なのでしょうか。
よい恋をしなさい、とお父様に言われています。お父様は晩婚でした。仕事一筋に生き、このまま一生を独身で終えると覚悟していたその時、お母様と出会ったのだそうです。
そうして初めて、この世に生きる喜びを、その意味を知ったそうです。仕事しか知らなかったお父様は年の離れた当時のお母様に人生の全てを賭けてアプローチをし、その恋を実らせたとのことです。そうして、私や弟が生まれ、生きる幸せを実感したのだと。
けれど、その幸せな夫婦生活は母の急逝によって、十年足らずで幕を閉じました。
だから、お父様は告げます。
自分たちのようにはなるなと。
なるべく早いうちに相手を見つけ、幸せな家庭を築いて欲しいと。それが父の願いであると。
だからこそ、私はずっと運命の相手を捜し求めていました。
家庭を持つにふさわしい、素敵な殿方と巡り会うのを心待ちにしていました。
けれど、私の前に現れたのは美しくも粗野で、純粋ながらも野放図で、なによりも男性なのに女性の格好を好む変人です。
もしも、神の声が聞こえるのならば、私は問いたい。
――何故、彼なのですか、と。
あらゆる運命を受け止め、神の御心のままに生きてきたこの私ですが、こればかりは自らの信仰を疑います。
どう考えたって、おかしな話です。セクシャルマイノリティが認められる自由な時代とはいえ、世間一般の常識に鑑みれば、彼――天戸游真は変人です。
別に、変人だから悪いと言う訳ではありませんが、しかし、彼は規則も守らないし、自分の気に入らないことは平気で言うことを聞きません。
忍者のように木に登ったり、塀の上を歩いたりすることは何度言ってもやめませんし、つまらない授業はサボるし、おおよそ褒められた人間ではありません。
それでも、そんな彼に私は心惹かれている。その事実が私を奇妙に惑わせるのです。
あんな奇行を繰り返す人間なのに、私の理想とは大きくかけ離れた人間なのに――それでも、私の中で彼の存在は日増しに大きくなっていくばかりです。
だと言うのに私が彼に対してできることは――。
「何度言えば分かるのですっ! そのような格好で逆立ちなどはしたないですっ!
やめてくださいっ!」
教室に私の怒声が響き渡ります。
授業の合間の休み時間、どういう訳か突然逆立ちをし出した天戸くんに対し、注意をします。彼と来たらスカートを履いているのに平気でこういう行為を繰り返します。もっとも、彼がズボンをはいていようと、教室でそんな埃の立つ真似は注意するところです。
「えー、いいじゃんか。別に誰が困る訳でなし」
思わず彼の下着に視線が行き、顔が真っ赤になるのを自覚します。彼は下着までもが女物です。それでいて男性らしい股間のふくらみがあり、とてもではないですが、直視できません。
「埃が立っていい迷惑です。なにより、そんな下着が丸見えになるような行為、公共良俗に反します。節度を持った学生らしい行動をしてもらわないと困りますっ!」
彼に対する羞恥を怒りに変えて言葉を放つと彼はうるさいなぁ、と言って逆立ち状態からバク転し、近くの机の上に立つと、そのまま机の間を跳び移り、教室から出て行きます。
「どこに行くのですっ! そろそろ次の授業が始まりますよ!」
「どこだっていいじゃない」
そう言って彼は姿を消します。こうなれば昼休みまで彼が帰ってくることはないでしょう。
――このように、私は口を開けば彼を叱るばかり。出会うだけで緊張して口もきけない状態からようやく脱出したかと思えば敵対行動しかとれていません。
最初のうちは彼もごめんごめん、と言いながらその場その場は言うことを聞いてくれてたのに、今では完全に嫌われてます。
クラスメイトなど周囲の人間も、堅物の私が彼を嫌っているという認識で固まったようです。
なんとか意を決して仲良くなろうと思うのですが、彼の行動は注意せざるを得ないくらい目に余りますし、象子がいる時は彼女も加わって彼を叱るので、私たちの仲はますます悪くなるばかりです。
どうしてこんなことになってしまったのでしょう。
かくて、彼が転校してから、二週間が過ぎました。
結局、私は自分の気持ちに整理が付かないまま、どんどん彼と険悪になっていくばかりなのでした。
彼が好きになった理由も分からないし、仲はどんどん悪くなっていくし、全くいいことがありません。
だから私は、状況を打開するために、放課後ある人物の元を訪ねることにしました。
「どうぞ」
ノックの音に返事が返って来る。
「失礼します」
と私は断り、進路指導室に入ります。
「そろそろ来る頃か、とは思っていた」
立派なお髭をたくわえた中年男性――佐久間鴻造先生がそこにいました。
「……進路の相談ではありませんよ」
高校二年生の秋です。進路相談にくる生徒はそれほど多くないですし、私は既に志望を決めて学校側に伝えています。
「お堅い生徒会長様がウチの野生児に振り回されているのはこの学校で知らない者はいない。そろそろ、保護責任者である俺の所に抗議が来ると思うのは当然だろう」
さすが進路指導の先生――というべきなのでしょうか。普段、へらへらとしてまともなことは言わない癖に、色々と考えているようです。いや、それは私が他の先生方を見くびっているだけでしょうか。この学校の教師達は頭でっかちで、自分が楽に仕事をすることしか考えてない――少なくとも私にはそう見えていたのですが、考えを改める必要があるようです。
「まあいい、そこに座りたまえ。ついでにお茶もいれようか?」
「結構です」
私は断りを入れつつ、席に座ります。
「ふむ。では、用件を聞こう」
同じく対面の席に座った先生の鷹揚な声。
「単刀直入に言います。彼――天戸游真くんは何者ですか?」
私の質問に先生は大げさに驚きの声をあげる。
「何者ですか? だって。これはまた大きく出たもんだな、高山。
あいつは見ての通り、ごく普通の謎の転校生だぞ」
「謎の転校生がごく普通だという事実はありません」
私はぴしゃりと言ってのけて先生の韜晦を退けます。
「彼が普通な訳ないでしょう」
「見た目のことか? そんなことで人間を判断しようなんて小さな人間のすることだ」
「見た目が全てではありませんが、判断材料の一部ではあります。
けれど、彼は見た目以上の問題を抱えています」
冷静な私の言葉に佐久間先生はふむ、とこめかみに指を当てます。
「聞こう。その問題とはなんだ?」
口調は相変わらず鷹揚で、とても力強く頼りがいのある声。けれど、その表情は先ほどまでの微笑みを交えたものから、苦笑に変わっています。今までの経験からすると、こういう時の佐久間先生は「めんどくさくなってきたぞ」、と思っているに違いないでしょう。今までも、私がなにか案件を持ってくる度に先生はこんな顔をしていました。
「まず、彼には社会通俗の常識というものが欠けています」
「まあ、ターザンみたいな生活してたからな」
先生の言葉に私は首を傾げます。
「ターザン?」
「え? 知らない? ほら、有名な映画だよ」
何故かとてもびっくりして先生は聞き返してきます。
「その、申し訳ありませんが、私、映画には疎くて」
私の発言に先生はひどく落胆したようでした。
「そうかー、最近の子はターザンとか知らないんだな。ああ、いや、なんかショックだなぁ、うん。これがジェネレーションギャップと言うヤツか。俺も歳を取ったもんだ」
本題に入る前に佐久間先生は非常に落胆してしまったようです。たいしたことはしてないはずなのに、非常に後ろめたい気分で一杯です。
「ええっと、ともかく彼は一般常識を知らず、精神年齢も非常に幼い――少なくともそう思わせるような行動をとっています」
「ああ、そうだな」
気を取り直して先生が返事します。
「まあ、それは彼が転校してきた時に先生が言っていた野生児、ということで説明が付かない訳でもありません」
野生児がどんなものか、あまりその手のフィクションを知らないのですが、栗栖ちゃん曰く、だいたいは天戸くんのような行動を取るそうです。
「けれど、それでは彼の知性について説明がつきません。
彼は、この学校の転入試験を通過してるのですよね?」
「ああ。少なくとも、転入するに足る学力があると学校側は認めている」
彼が本当に野生児だとするなら、そはとても奇妙なことです。野生児とはその名の通り、人間社会を離れ、非文化的な環境で育ったはずです。
――けれど。
「彼の知性は平均どころか――異常です」
彼がその異常性を発揮させたのは数学の授業でした。
数学の戒田(かいだ)百々吉(とどきち)先生はお歳を召した方です。御歳七十を迎えており、公立高校を定年退職後、年齢制限のない私学である我が校にやってきたそうです。そんな方ですから、キャリア同様に話がとても長く、どちらかというとつまらない授業をする先生です。
特に昼食後などに戒田先生の授業があった場合、先生の声が非常によい催眠音波になり、授業中に寝てしまう生徒が続出してしまう有様。先生も自分の授業について自覚しているのか、はたまた長く生きたゆえの慈悲なのか授業中の居眠りを黙認しています。
しかし、さすがに転校してきたばかりの天戸くんが堂々と寝ているのを見とがめたのか、戒田先生は天戸くんを起こしました。
「えーと、天戸、かー。転校してー次の日にはーもう居眠りとはー、なんともー、実にー、余裕綽々だなー。……こらー、話している時に寝るなー。
あー、あれだ。
お前、ここのー、百二十四ページのー、そのー一番上のー問題をー解いてみろ。ほれ」
間延びした声で教科書を開くように強要する戒田先生。
天戸くんはあくびをしながらも体を起こし、隣の席の子に教科書を見せて貰います。
そして、即座にこう言い放ちました。
「7、5、3、2、2、6、6、7、2、0、2、sin=2、cos=1、以上だね」
教室が静まりかえりました。
戒田先生は何を言われたか分からず、聞き返します。
「えーと、きみー、今なんてー?」
「だから、答えだよ。
上から順番に、7、5、3、2、2、6、6、7、2、0、2、sin=2、cos=1、でしょ?」
彼の言葉を聞きながら、戒田先生は自分のテキストを睨みます。
「……あー、これはー、………………合ってる」
呆然とする戒田先生を尻目に天戸くんはまたぱたん、と体を机の上に倒します。
「じゃ、また何か聞きたいことがあれば聞いて。答えるから」
そう言ってそのまま彼は堂々と居眠りを再開しました。
その様を戒田先生はあんぐりと口を開けてみていましたが、やがて咳払いと共に授業を再開しました。
「天戸くんは戒田先生に起こされて問題を解かされましたが、見た瞬間に答えを言い当てました。
しかも、教科書のページを見て、上から順に回答を全部言い当ててます」
今思い出してもそれはとても異様な光景でした。天戸くんは複雑な連立方程式をまるで文章を読み上げるように淀みなく回答していました。
「後で戒田先生はソロバンでもしてたのか? と聞きましたが、彼は『なにそれ?』と首を傾げるばかり。
文字も綺麗だし、きっちりとした教育を受けていたとしか思えません。
これは先生の言う『野生児』という証言に反します」
計算式を見ただけで即座に答えが出るほど彼の頭脳は優れています。けれど、それも数式の意味を理解すればこそ。サイン・コサインなどの意味はきちんとした教育を受けていなければ知らないはずです。
「…………」
「――かと思えば、歴史的知識は皆無で、有名人の名前は一つも知りませんし、歴史的事件も知りません。日本国憲法も法律も何も知らないし、日本の古典もさっぱりです。
知識の偏りが尋常ではありません」
そもそも、野生児なんて存在が現在の日本においては異常な存在です。彼の家庭事情が普通ではないことは明らか。ですが、さらに彼の知性の高さ、知識の偏りを考えると彼を『ただの野生児』などと捉えることなどできません。
彼には余りにも謎が多い。
「ま、色々とあいつにも事情があるんだよ」
佐久間先生の言葉は謎の答えにしてはあまりにも投げやりでした。
「そんな答えで納得するとでも?」
「……俺にはお前が何故そんなことを聞いてくるかが分からないな」
佐久間先生の言葉に私は黙り込みます。
「そんなことを詮索してなんになる?
あいつはあいつだ。
ただありのままを受け入れればいい。あいつが何者であろうと、友人として接してやればいい。
あるいは、嫌うのならばそのまま嫌ってやればいい。高校生活の中で自分と合わない人間の一人や二人居たとしても何も不思議じゃない。無理に理解して仲良くしてやろうなんて思う必要なんてない」
「私は――」
何故彼の正体が気になるのでしょうか。
いや、あんな不思議な人間が居れば誰だって気になります。
ですが、そうではなくて――。
「一つ、内緒の話を聞いていただいてよいでしょうか?」
「…………生徒指導ってのはそういうものだ。学生の悩みには相談にのろう」
私は行きを吸い込み、そして言い放ちます。
「私はきっと、彼を、天戸游真くんのことが好きです」
突然の告白に先生は眉をひそめます。まさか私からそんな言葉が出てくるなんて思わなかったのでしょう。私も、自分の口からこのことを他人に相談するのは初めてです。けれど、彼のことを聞くためにはここで私の真実を伝えるしかありません。
「でも、分からないのです。
私はどうして彼が好きになってしまったのか。
彼は私が好きになるような要素がほとんど皆無だと思います。
彼はあまりにも変で、異常で、おかしいです。
けれど、私はどうしても彼が気になって、気がつけばあの子の事ばかり考えてしまいます。
だから、知りたいのです。何故彼がああなのか。
どうして、ああなってしまったのか。
そうすれば私の想いの正体も、あるいは分かるかもしれません。
だから――」
そこで先生は私の言葉を手で制しました。普段は鷹揚なその顔に真剣の色を見て私も黙り込みます。
「……なるほど分かった。
そしてがんばったな。お前のような人間が自分の想いを神父でもない俺に話すなんて相当な勇気がいっただろう」
先生はそこで一旦言葉を切り、目線を逸らします。
一瞬悩んだ後、再び先生は私の目を見据え、告げます。
「だが、そんな個人的な理由で、自分本位の理由では教師としてお前に教えることはできない。
天戸游真の保護者としてもあいつの過去について今以上のことは告げられない。
そして、一個人としては――お前の恋に水を差すのは申し訳ないと思うが、あいつのことはただの友達として見ることをお勧めする」
佐久間先生の言葉に私は目を見張ります。もちろん、私が正直に自分の想いを告白したからといって、先生が天戸くんのことを素直に教えてくれるとは思っていませんでした。どうせ、これは私の勝手なわがままなのですから。それでも、私は彼のことを知りたかった。とても自己中心的で、わがままな言葉。
きっと、神様も呆れるような恋する乙女のわがまま。
――けれど。
「それはどういう意味ですか?」
「……それ、て言われてもな」
「はぐらかさないでください。最後の、ただの友達でいろ、て話です」
私は睨みますが、先生はただただ苦笑いをするばかり。
「お前の言う通り、あいつは色々と複雑なんだ。
――普通じゃない。
ただの友達ならそれでいい。
でも、このまま行けば、きっとお前は傷つく。
だから予め忠告しておく――やめておけ」
――訳が分かりません。
先生の言うことは余りにも唐突で、肝心なことは何も分からないままです。
全ての事情を隠し、忠告のみを告げてくる。おおよそ道理の通らない話です。
「――理由は、教えてくれないのですね?」
「無理だな。もし、その時が来たら話す」
「その時とはいつのことです?」
「……難しいな」
先生はしばらく考えた後、こう言いました。
「もし、お前の恋心が本物だった時にまた話そう」
思わせぶりな言葉です。
何もかもがあやふやで、何一つはっきりしたことは分かりません。
けれど、これ以上何を言っても先生は口を割らないでしょう。
「…………また来ます」
そう言って私は席を立ち、進路指導室を後にしました。
廊下へ出て、私はそのまま生徒会室へ向かいます。
私はこの学校の生徒会長であり、天戸くん個人のことにそのすべての時間を割くことはできません。新学期が始まり、二学期の行事に向けて色々と準備しなければなりません。特に、十月には文化祭があり、その準備が大変です。その他、運動部からは夏休みの間に備品が壊れたので何とかして欲しいという訴えなども複数届いており、これから忙しくなっていくことでしょう。
受験に向けて勉強も難しくなっていきますし、恋に現を抜かす暇などしばらくなさそうです。恋がしたい、などと思うのに相手が好きな理由が分からず、自分で自分も分からず、そして恋のために時間も作れない。私は、恋を志す者としておおよそ失格なのでしょう。
――もっとも、恋の伝道師を自認する栗栖ちゃんならば、恋は志すものではない、と言うのでしょうけれど。
「――だよねっ!」
噂をすれば影をさす、と言うことでしょうか。狙ったかのように栗栖ちゃんの声が廊下の向こうから聞こえてきます。渡り廊下で誰かと会話している模様です。せっかくだから生徒会室に行く前に声をかけていく事としましょう。
が、その考えは続いて聞こえてきた声に打ち砕かれます。
「うん、栗栖の言う通りだよ」
よく通る中性的な声。間違いありません。天戸游真くんの声です。
「やっぱり、戒田先生の授業は本当につまらない。なんであんなに眠たい話を連発できるかなぁ」
彼らは戒田先生の悪口で盛り上がっているようでした。あまりいい趣味とは言えませんが、学生の話題としてはポピュラーな部類です。こういう話題が出ると私はそう言うのはよくないとよく言ってしまうので付き合い悪いだとかいい子ぶってるなどと言われたりします。そんなことを言われても、性分なのだから仕方ありません。
しかし、あの二人――いつの間に仲良くなったのでしょうか。私はよく言われているように堅物なところがあるので、こんな二週間という短期間で初対面の人間と仲良くなるだなんてことはなかなかできません。……なんてことを言ったら二週間もかけて仲良くなれないのは駄目だよ、と栗栖ちゃんに言われてしまうのですけれど。
なんにしても、栗栖ちゃんのその社交性は見習いたいものです。ただし、惚れっぽいところは除いて。
――というか、私はなにをしているのでしょうか。
彼がいると分かった途端、渡り廊下への扉に張り付いて身を隠し、耳をそばだててしまいました。陰口同様に盗み聞きなど卑怯者のすることです。断じて許されるものではありません。ああでも、今この場で彼の前に出て行っても空気が悪くなるだけです。私は喧嘩をしたい訳ではありません。かといって、仲直りする方策もないのでこのまま立ち去るのが一番です。……ということは分かっているのですが。
気になるのです。彼と、栗栖ちゃんの会話が。ああ、私はなんと弱く卑怯なのでしょうか。神よどうか弱く卑しい私をお許しください。
「いやーでも、栗栖っておっぱいおっきいね」
突然の話題転換に思わず私は頭が真っ白になります。この子何を言ってるのでしょう。
「ふふん、私の自慢のボディが気になるの? 触ってみる?」
「え? いいの?」
思わず吹き出しそうになりながらも、私は必死で耐えます。しかし、なんという会話でしょうか。とても男女の会話ではありません。ノリとしては完全に女性同士です。もっとも、私はそんな会話に乗ったことはありませんが。
「ま、別に触るくらいなら」
「わーい。おおっ、これは……すごいねー」
気がつけば私は扉を壊さんくらいの勢いで開けていました。
「何をやってるんですかっ! あなたたちっ!」
渡り廊下では突然の乱入にびっくりして固まる二人の女生徒の姿。いいえ、姿形は女生徒でも、私は知っています。天戸游真くんは男です。よくよく見ればのど仏もちゃんと出てます。
しかし、憤怒の形相であろう私に対し、栗栖ちゃんの顔は平然としたものでした。
「あ、祈鈴ちゃんじゃない。生徒会はどうしたの?」
「どうしたの? じゃないわっ! なにをやってるのよっ!」
「……なにって、別に怒られるようなことはしてないよ」
と、会話している間にも天戸くんの手はふにふにと動いてます。
「って……その手を離しなさいっ!」
私は天戸くんの手を叩き、ついでに二人の間に割って入り、距離を取らせます。
「栗栖ちゃん、あんた今軽音楽部の伊々田先輩と付き合ってるんじゃなかったの?」
「うん、そうだけど?」
「じゃあなんでまた、こんなことさせてるのよ?」
「いやぁ、これはあれよ。風呂上がりに居間に行ってみたら赤面してる弟相手に『何見てるの? もしかして触ってみたいの? 少しくらいなら触って見てもいいわよ? ほれほれ?』てやるのと同じよ」
栗栖ちゃんの発言に私は戦慄します。
「ちょっと! あなた実の弟相手にそんなことしてるの?」
「え? しないの?」
「私にも弟いるけどそんなことしたことありませんっ!」
どなる私に対し、栗栖ちゃんは何故かつまらなそうな顔をします。
「もう、祈鈴ちゃんは本当に堅物だなぁ。大丈夫。だいたいの弟は意気地なしだから触ってこないって」
「でも居間天戸くんに触らせてたじゃない」
私が睨むとさすがに居たいところをつかれたのか栗栖ちゃんは顔を歪めます。
「あー、それはまあ、本当に触ってくるとは思ってなくて。
でも、天戸くんは女の子っぽいからノーカンだよ。ノーカン。ノーカウントでよろしく」
「……そんなこと言ったって彼の体は男なのよ! 彼しょっちゅうパンチラするから股間をみて一発で分かるじゃない」
「お? 祈鈴ちゃんてばいつもそんなところをチェックしてたんだ。
意外とムッツリスケベだねぇ〜」
「いいいい、いやでも目に入るだけよっ! だいたい天戸くんもっ!
…………あれ?」
と、先ほどまで彼のいた場所を見てみるといつの間にかその姿はありませんでした。
「……天戸くんは?」
「なんかいつの間にか居なくなってるね。祈鈴ちゃんが面倒くさくて逃げたんじゃない?」 栗栖ちゃんの言葉に私は頭を抱えてしゃがんでしまいます。
「……ああ、またやってしまった。彼への印象最悪だわ。
きっと面倒な女だと思われたに違いないわ」
もうなんでこんなことばかりしてしまうのでしょうか。私も嫌われたくてこんなことしてる訳ではないのですが。
「今更だよ。正直、栗栖ちゃんは面倒くさい部類の人間だよ」
にかぁ、と満面の笑みを浮かべる栗栖ちゃん。
――ああもう、面倒くさい女で悪かったですね!
「……私はただ、自らを正しくあろうと、神の前で潔白であらんと努力しているだけですのに」
ため息をつく私の肩を栗栖ちゃんは優しく肩を叩きます。
「祈鈴ちゃん」
振り向くと栗栖ちゃんはとても慈愛に満ちた顔で言います。
「どんまい」
「誰のせいでこんなことになったと思ってるの?」
本当に、友人でなければ真正面からひっぱたいてやりたいところです。
――いえ、私としたことがそんな野蛮なことはいけません。心穏やかにし、澄んだ目で物事を捉えなければいけません。
聖書にもあります。「何事も愛をもって行いなさい」と。怒りや憎しみなどを持って行動しても何もいいことはないし、何も達成できません。後に残るのは虚しさだけです。
しかしまあ、なんでまた私はこの子と友達なのでしょうか。色々と人生は分かりません。
「祈鈴ちゃんは祈鈴ちゃんらしく胸張ってればいいんだよ。
めんどくさい所も祈鈴ちゃんの持ち味だよ」
「……ありがとう」
彼女の前向きなところだけは本当に見習うべきでしょうね。
――いいえ、それだけでなく、彼女は私には持ってない素晴らしいものを沢山持っています。神にすがらなければ正しくあれない私とは違う本当の強さを持っています。だから、私たちは友達なのでしょう。
「友に対して悪意を耕すな彼は安心してあなたのもとに住んでいるのだ」ということです。
「とはいえ、八方ふさがりよ。私が私のままでいる限りは彼とはまともに会話できないわ。
ねえ、栗栖ちゃん。私はどうしたらいいのかしら?」
「おや、聖書には全ての答えが書いてあるっていってたじゃない? ご自慢の聖句はどうしたの?」
意地の悪い笑みを浮かべる彼女。しかし、私は臆することなく見つめ返します。
「ええ、だからこそ栗栖ちゃんの助けを借りるのよ。人は一人では生きていけない。だから、困ったら誰かの助けを借りなさい、とあるわ」
「都合のいい解釈ね。ま、一般論としては正しいけど。
聖書に言われるまでもなく、困ったら誰かに頼るのは当たり前よ」
栗栖ちゃんの言葉に私は苦笑します。この子は本当に聖書が嫌いなようです。おかげで初めて会った頃はよく喧嘩したものです。
そう言えば、象子と会った時もそうでした。彼女は牧師の娘です。プロテスタントである彼女の親とカトリックである私では宗派が違い、そのことから初めて会った頃は喧嘩ばかりしていました。
「……よくよく考えれば、私は他の人と喧嘩ばかりしてるのね」
「ま、雨降って地固まるだよ。仲良くなるためにはそう言うことが必要なこともあるって」
確かに、喧嘩を経た象子や栗栖ちゃんとは喧嘩をしたことのない友人達よりずっと仲良くなっています。
だというのならば――天戸くんとも彼女らのように仲良くなれればいいのですが。
「で、地を固めるにはどうしたらいいと思う?」
私の問いに、栗栖ちゃんは苦笑します。
「告白すればいいと思うよ」
いきなりの飛躍に私は一瞬頭が真っ白になります。
「え? だって、……え?
今私たちは喧嘩してるのよ? こんな仲直りもできてない状態で好きだなんて言っても変に思われるだけじゃない」
「そう思うのは、保身を考えてるからだよ」
慌てる私に栗栖ちゃんは静かに述べます。
「別に難しく考えず、素直に謝って自分の気持ちを伝えるのが一番だよ。
あれこれと裏技を考えて遠回りしようとするから失敗するんだって。
王道に勝るものはなし、だよ」
――さすが、恋の伝道師と言うことでしょうか。含蓄があります。
果たして彼女もその恋愛遍歴の中で素直になれず失敗してきたことがあるのでしょうか。今の彼女からは想像できませんが、きっとあったのでしょう。だとするならば、先達のアドバイスに従うのが一番です。私は結局の所恋愛に関しては本当に初心者なのですから。
――とはいえ。
「……それができたら最初から苦労しないわ」
思えば出会ってからこっち、彼の前で素直でいられた時なんて一度もありません。好きになるってどうしてこう面倒なのでしょうか。好きならば好きって言えばいいのに。どうしても真正面から彼と向き合うことができなくなります。訳が分かりません。
「どうしても、彼の前では平静でいられる自信はないわ。何故かしらね。ヤクザの前に立った時だってこんなに緊張したことないのに」
「そりゃ、相手が好きだからに決まってるじゃない」
私は眉をひそめます。言葉の意味が結びつきません。相手のことが好きなら、嬉しくてもっと素直になるべきではないのでしょうか。
「どんなことがあっても、失敗したくない。相手に嫌われたくない。絶対に失敗したくない。そう思ったら緊張もするし、考えすぎてまともに動けなくなることもあるって。
女の子にとって、好きな人の前に立つって事は世界を滅ぼす核ミサイルのスイッチを持ってるようなものなのよ。間違って押したら世界が滅びてしまう。だから、緊張する」
「そんなロシアンルーレットみたいなたとえされても」
だんだん栗栖ちゃんの発言が分からなくなってきました。集中力が途切れてきたのでしょうか。
「なにはともあれ、当たって砕けろ、よ」
「砕けてどうするんですかっ!」
無責任な発言に私は抗議します。真剣に聞いていればなんていい加減な。
「砕けてみないとできないこともあるって。それに、今のままだと何もできないんでしょ? だったら古い自分なんて壊しちゃいなよ」
「さっきはありのままの自分でいたらいい、て言ってたじゃない」
「人間、一度壊れたくらいでそう簡単に変われるものでもないよ」
――栗栖ちゃんの言ってることがコロコロ変わっている気がしますが。
なんだか色々と堂々巡りです。やはり相談相手を間違えたのでしょうか。インフォームドコンセントの必要がありそうです。とはいえ、他に相談できる相手なんて――この校内では生物の戸川先生くらいでしょうか。天戸くんの母親を知ってるみたいですし。とはいえ、世界中の女は全員自分に惚れる、と思い込んでるあの人とは会話したくないのですが。
「とりあえず、こんなところでうじうじ悩んでても仕方ないよ。
行動あるのみ! 好きなら好きって言ってしまえばいいのよっ!」
悩む私に対し、ただひたすらに決起を促す栗栖ちゃん。うう、人間そんな簡単に動ける訳ないじゃないですか。
「……しっ、しかしですね」
私は思わず素に戻りながら呟きます。
「お、女の子から告白なんてはしたないなんて思われるんじゃないでしょうか?」
赤面しながら語る私に対し、栗栖ちゃんの目が丸くなります。ちなみに私は敬語の方が素です。家族とも敬語で話しています。しかし、象子と友達になった時、友達相手にそんな堅苦しいしゃべり方をするなよ、と言われて、それ以来友人とはなるべく敬語を使わないように気を遣っているのです。
なにはともあれ、顔を真っ赤にして立ち尽くす私を珍獣でも見るかのような目で栗栖ちゃんは見つめてきます。おかしいです。なにか変なことを私は言ってしまったのでしょうか。もしかして、思わず素に戻って敬語を使ってしまったのが不味かったのでしょうか。
彼女は迷った挙げ句、ため息をつきました。
そして、両肩を掴み、真剣にこちらを見つめてきます。
「……祈鈴ちゃん」
「は、はい、なんでしょう?」
なんだか栗栖ちゃんが怖いです。
「自分が好きなことを好きって言うことになんら恥ずかしいことなんてないよ」
いつもの茶化した雰囲気が抜け、栗栖ちゃんは真剣に私に語りかけます。
「……そうでしょうか?」
「もちろん、相手に好きって言わせるテクニックもあるし、そういう風に誘導する方がいい時もあるけど、だからといって自分から好きって言うことに恥ずかしい事なんてなにもないって。そんなヤツは私がぶっ飛ばしてあげるわ。
だから、祈鈴ちゃんは安心して自分の気持ちを伝えればいいのよ。怖いなら私もついていってあげるから」
彼女の茶色い瞳に私の姿が映ります。初めての恋に怯え、惑う子羊のような私。でも、彼女はそんな私を笑わず、真摯に見つめてくれます。
――やはり、私はいい友人を持ちました。
私は心の底からそう思います。
「ありがとう。栗栖ちゃん。私も決心がついたわ」
私の言葉に栗栖ちゃんも笑顔を取り戻します。
しかし、そんな弛緩した空気を破るかのようにどたどたと慌ただしい足音が近づいてきます。
「生徒会長――きゃっ!」
渡り廊下へやってきた女生徒が私と栗栖ちゃんを見て赤面します。ああ、そう言えば今私たちの顔は非常に近くて、遠目に見たら恋人同士が抱き合っているように見えたかもしれません。
「ああ、勘違いしないで。ちょっと勇気を分けて貰ってただけだから」
私はそっと栗栖ちゃんから体を離し、やってきた女生徒に体を向けます。そう言えば生徒会をほったらかしです。だから私を呼びに来たのでしょうか。いや、でも今やってきたこの子は生徒会役員ではないですし……。
「ともかく、廊下を走ってはいけませんよ。危険ですから」
「あ、すいません」
私の指摘に謝りつつも、その少女は用件を思い出したのか、慌てて口を開きます。
「あ、その……大変です。食堂で転校生が――」
知らせを受けて私は校則も忘れて廊下を走っていました。
こんなに規則を破るなんて私は生徒会長失格です。いや、非常時なのですからこれくらいはきっと許されるでしょう。……私は気になりますが。
それはともかくとして今は食堂です。先ほど渡り廊下で知らせてくれた生徒の話が本当ならば、今食堂では――。
「だから、女装で学校に来るのがおかしい、て言ってるんだ」
食堂から象子の声が聞こえます。
私が開けっ放しの扉から食堂へ入ると複数の女の子達に取り囲まれた天戸くんが目に入りました。そして、女の子達の中心にいるのは象子でした。
――ああ、本当に象子が。
先ほどの知らせで聞いていましたが、現実にこの目で見るまでは信じたくありませんでした。けれど、目の前の事実は動かしようがありません。
これは――いじめの現場です。
「何をしてるんですかっ!」
声が荒れるのもかまわず私は叱責します。私の怒気に幾人かの女の子達がびくりっ、とするものの中心にいる象子に動じた様子はありません。
「やあ、来たのかい、祈鈴」
私は周りの人間をかき分け、中心にいる象子と、天戸くんの前に立ちます。
「……これもキミの指示かい?」
「まさか。私はこんな卑怯なことはしません」
天戸くんの質問に私は真正面から応えます。幸いと言っていいか分かりませんが、怒りの感情が先行しているせいか彼の前でも赤面したり変なことを口走る心配はなさそうです。
「卑怯ってなんだい? あたしはこいつが女装して学校に来てることが変だ、やめろ、と言ってるだけだよ」
「大勢で取り囲んでよってたかってなぶるような真似が卑怯でなくてなんだというの?」
心外だと言わんばかりの象子の意見を私は真正面から切って捨てます。
「それに、女装に関しては先生の許可も得てることよ。今更私たちが口出しすることじゃないわ」
――私はすごく気になりますが。
けれど、悔しいけど彼は男装よりもよっぽど女装が似合っています。正直、女装に関しては私も諦めました。凄く気になりますが。仕方ありません。人生は妥協の連続です。
「ここにいる人達は演劇部の人達よね。わざわざこんなことするために集めたの?」
言い募る私に対し、象子は一度、視線を逸らします。彼女は演劇部の部長です。下級生からの人気も高く、彼女が扇動すれば部員達が彼を責めるように動くのはあり得る話です。
彼女は、改めて私に向き直るとこう言いました。
「祈鈴だってこいつを責めてただろ」
「間違っていることをしてたら注意をする。生徒会長として当然です。
でも、私はこうやって大人数でよってたかって囲むような真似しないわ」
「そうやって、お前が注意してたから。生徒はみんな、こいつは変な子だと思うようになったし、遠ざけられるようになってるんだぞ。これはあたしだけの責任じゃない」
象子の言葉に私は雷で打たれたようなショックを受けました。
なんということでしょう。確かに彼の見た目で一定数の人間が奇異の目で見ることは仕方ないことだと思います。けれど、彼が周りから遠ざけられる原因を作っていたのが私だなんて。それこそ、私が知らないだけで今回に限らず今までもこのようなイジメのようなことが行われていたのかもしれません。
――私はなんという愚か者なのでしょう。
心がぐらつきそうになります。けれど、負ける訳にはいきません。象子も、天戸くんも私にとっては大切な人間なのです。
「――私の行動があなたにいらぬ害を与えていたのならば、本当に申し訳ないと思います。
ごめんなさい」
まず、私はみんなが見守る中、天戸くんに頭を下げます。
果たして彼はどんな顔をしてるでしょうか。顔を上げるのが恐ろしいです。
私の心配をよそに、返ってきた答えは素っ気ないものでした。
「ま、別にいいよ」
慈悲の言葉――ではないのでしょう。彼にとっては本当にどうでもいいことなのかもしれません。のれんに腕押し。彼には何を言っても雲を掴むようで要領を得ません。
こんな彼だからこそ、イジメなんて意識はまるでない可能性もあります。
顔を上げると、そこにはいつも通り、自然体の彼の姿。気にしてないというのが言葉だけでないというのがはっきりと分かります。むしろ、なんでこんなに大事になっているのか分からないようでした。
――しかし、本人が気にしてないからと言ってこんな行為を許す訳にはいきません。
象子に向き直り、告げます。
「象子。私がこういうこと嫌いなの知ってるでしょ。
中学時代、私がハーフだからって似たようなことされてた時、あなた先頭に立って『お前等は卑怯だ! あたしは絶対にお前等みたいなことはしない!』て言ってたじゃない。
どうして。何故あなたはこんなことしたの!」
私の態度に象子は目を見開き、信じられない、と言った顔。
「どうしてって……祈鈴の為に決まってるじゃないかっ!」
今度は私が絶句する番でした。
「こいつが来てから何もかもが無茶苦茶だよ。
一緒に喋ってても、気がつけばぼーっとしてるし、普段しないようなつまらないミスを繰り返したり、こいつが現れただけでまともに喋らなくなったり。突然変なこと言い出したり。
いつもの祈鈴じゃなくなってしまった。
祈鈴は……あたしの好きな祈鈴はそんなんじゃなかったよ!
もっと凛々しくて、強くて――いつもまっすぐで。
隣にいて気持ちいいヤツだったよ。
なあ、祈鈴。あたしの方が聞きたいよ。
あんた、どうしちゃったのさ」
象子の言葉は余りにも鋭く私の心に突き刺さり、余りにも重くのしかかってきます。
なんということでしょう。
――すべて、私が悪かったのですね。
増長させていたどころではありません。私の恋への臆病さが親友の心まで曲げてしまったのです。
私はなんと愚かで醜いのでしょうか。
あまりの罪深さに目の前が真っ暗になります。
けれど、ここで逃げてはなりません。
私には果たすべき義務があります。
「……それは」
口を開いてみるものの、、その重さに驚きます。ただ言葉を発するだけなのに恐ろしいほどの緊張が、重圧が私に襲いかかります。
「……それは」
ただ一言。
ただ一言だけ伝えればいい。
それだけなのに――。
怖い。怖い。怖い。すごく、怖い。
視線が泳ぎ、口が震えます。
「それは――」
放つべき言葉は心にあるのに、どうしても前へと進めません。
膝が折れそうになります。
泳いだ視線が逃げるように遠くを見て――気づきました。
いつの間にやら食堂の入り口で栗栖ちゃんが立っていました。
彼女はじっと私を見つめており、私と視線が合うと、力強く頷きました。
なんと心強い。
――ああそうか。
私は認めざるを得ないのでしょう。
彼女が恋の伝道師であることを。
「それは――私が彼に……天戸游真くんに恋していたからです」
私の告白に周囲を取り囲んでいた女子や野次馬達がどよめきます。
しかし、言ってしまえば今まで恐れていたものがすべて消え去り、晴れやかなものが心を満たします。
私は象子から天戸くんへ視線を向け、改めて告げます。
「天戸くん。私は、あなたのことが好きです」
私の告白に天戸くんは頭を後ろ手に組みながら、へぇ、と呟きました。
そして、言います。
「……ま、ぼくは嫌いだけどね」
晴れ渡っていた私の心が一気に凄まじい暗黒へと突き落とされます。
ああやっぱり。
あれだけのことをしてきたのです。そう言われてもおかしくありません。
「……そ、そうですか」
なんとか気丈に持ちこたえつつ、私は返事を返します。なんとか言葉を伝えようとするも、それよりも早く象子の言葉が場を打ち破りました。
「 嘘 だ っ ! 」
大声がびりびりと私の耳朶を打ちます。
「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!
私は祈鈴のことならなんでも知ってるよ!
こんなちんちくりんのことなんて全然タイプじゃないじゃないか。
祈鈴はどっちかというと佐久間先生みたいな髭ダンディが好きじゃないか。
こんな女装してるような変なヤツを好きになるはずないって。
きっと勘違いだ。何かの間違いだ。
そうに決まってるっ! 決まってるでしょ?
だって言ってたじゃない! もしも……もしもあたしが男だったら、あたしを彼氏にしたいって」
その剣幕に、その勢いに、その言葉に、放たれた吐露の内容に私は動けなくなります。
後ろで栗栖ちゃんがあちゃぁ、と額に手を当てています。彼女にとっても想定外の事態だったのでしょうか。
様々な過去が、様々な思いが私の中を駆け回ります。
象子と会ったのは十歳の時。もう七年来の付き合い。
初めて会った時は私が一方的に喧嘩をしかけて。
結局、とてもつまらない理由で打ち解けて――。
中学の時、教師や生徒に虐められてても、彼女だけはずっと私の側で助けてくれて。
彼女は本当に――、本当に私にとって大切な人です。
――ああ、神よ。
「……ごめんなさい」
気がつけば、私が放っていたのは謝罪の言葉でした。
「……そんな。こいつのどこがいいの?」
痛いところをついてきます。
「……分かりません」
私だって理由が知りたいです。
「祈鈴の嫌いな要素沢山もってるじゃないっ!」
「……そうですね」
彼女の言う通りです。私にとって、彼を好きになる要素なんて一つもない……そんな気がします。私だって、何故彼を好きになってしまったのか知りたいくらいです。
「だったら!」
「それでも……好きなんです」
象子の瞳を見据え、ただ真正面から、ありのままの私をさらけ出す。
「理由など分かりません。嫌いなところも沢山あります。
けれど……私は彼が好きなのです」
象子は絶句し、一歩、二歩と後ろに引き下がります。そして、背を向けこの場から逃げ出しました。
「象子っ!」
私の制止も聞かずに食堂から出て行こうとする象子。そこへ、立ちはだかる一人の影。
「ふふふ、ついにこの恋の伝道師の出番ね。象子ちゃん、ここは私に――ゲブァッ」
影――栗栖ちゃんはあっさりと突き飛ばされて入り口の隅に倒れます。
――ああもう、肝心なところで使えない子ですねっ! いや、ここで栗栖ちゃんに期待するのは間違ってるのですけれど……なにをやってるのでしょうかあの子はっ!
「ごめん、どいてっ!」
私は栗栖ちゃんの横を通り過ぎ、象子を追いかけます。何故か栗栖ちゃんは
「ふっ……後は任せたわ。……青春よね」
とやりきった顔をしていました。この子は本当にぶれませんね。
私は象子を追いかけ、階段を駆け上がり――辿り着いたのは校舎の屋上でした。
「象子っ!」
息があがりながらも、私は彼女の名を呼びます。
屋上には高い柵があり、安易に飛び降りられないようになっています。しかし、私が辿り着いた時には既に彼女は柵の向こう側――いつでも飛び降りられる状況です。
「どうして!
どうしてこんなことを!」
言いながら近づこうと前へ踏み出します。
「こないで! それ以上近づいたら飛び降りるっ!」
象子の言葉に私は足が動かなくなります。
彼女との距離は柵を隔てて五メートル前後と言ったところでしょうか。
この距離では私が走って塀をよじ登るよりも、彼女が飛び降りる方が早いに決まっています。
「……分からないわ。
象子がこんなことする必要なんてないじゃない。
そもそも彼を虐める必要なんてなかったはずだし、ましてや今此処で飛び降りる意味なんてないわ。
そうでしょう?
教えて。
何があなたを変えたの?」
私の質問に、象子は黙り込みます。
「祈鈴は……相変わらず空気の読めないヤツだね。
一から十まで説明してやらないと分からないのかい?」
――なんとなくは分かるのです。
けれど、本当になんとなくであり、感覚的に彼女が飛び降りようとするのは分からなくもないのですが、私にはいまいちはっきりとは分かりません。
少なくとも、私の認識では、『飛び降りるほどのことではない』――そう思います。
「――変わってしまったからだよ」
黙っている私に対し、彼女は諦めたように呟きます。
「私は、
誰よりも気高くて、
誰よりも強くて、
誰よりも綺麗だった祈鈴が好きだったんだよ」
彼女の言葉に私は耳を疑います。
「私は一度としてそうだった覚えはないわ。
いつだって道に惑い、くじけそうになり、ただ神の声を支えになんとか前へと進んでいた。ずっとずっとそうしてきた。ただそれを繰り返して来ただけ。
失敗もするし、弱いし、無様な姿をさらしたことも色々あったわ」
「……それでも、どれだけ転んでも立ち上がる強さを持っていたわ。
どんなことがあっても折れない芯を持っていた。
祈鈴は私が知る誰よりも強かったよ」
象子の言葉に私は何も言い返せません。
彼女の目にはそんなにも強い存在として私が映っていたなんて。私などただの高校生でしかないのに。
「でも、それももう過去のこと。
あの頃の祈鈴はもう帰ってこない。たぶん、二度と会えない。
私はあの頃の祈鈴と一緒にいることが好きだった。
でも、もう二度と会えないって言うのなら、この世に未練なんてないんだ」
その言葉はあまりにも飄々として、まるでその日の天気をぼやくみたいです。
そんな軽々しさと共に彼女は別れを告げました。
「じゃあね、祈鈴。好きだったよ」
彼女の体が後ろへ――空の向こうへと向かいます。
私は駆けました。
無駄かも知れない。
でも、動かざるを得ません。
引き延ばされた時間の中で、彼女の体はゆるやかに後ろへ倒れていきます。
あまりのゆっくりさにすぐにでも間に合うような錯覚を感じます。
けれど、彼女の体が塀の向こう――空中へ投げ出されるよりも更に私の体は遅いのでした。体があまりにも重く、彼女の体はあまりにも遠く。
どうしてこうなったのでしょうか。
どこで間違ってしまったのでしょう。
私はただ恋がしたかっただけなのに。
ラブソングのような、甘い恋をしたかっただけです。
みんなが笑顔になれるような、素敵な恋がしたかっただけです。
――ああ、神様教えてください。
私は何故あの子を好きになったのですか?
私は何故誰よりも大事な象子よりも彼を選んでしまったのですか?
何故私は弱くなってしまったのですか?
何故私は変わってしまったのですか?
私がどんな過ちをしていたというのでしょうか。
――ああ、神様教えてください。
「……助けてください」
私が間違っていたというのなら幾らでもただします。
罰ならば幾らでも受けます。
だからだから。
どうか――どうかっ!
「……助けてくださいっ!」
象子をっ! 私のっ! 私の誰よりも大事な象子を助けてくださいっ!
お願いですっ!
罪は償いますからっ!
罰は受けますからっ!
だから、お願いします。お願いしますっ!
どうかっ! どうかっ!
「助けてくださいっ! 誰かっ! 誰でもいいっ! あの子を助けてくださいっ!」
涙を流し、叫びながら、私は屋上の柵に体ごと激突します。
しかし、私が柵に辿り着いた時には彼女の体は校舎を離れ、空の上でした。
今から私が柵をよじ登っても、柵の向こう側に降りる頃にはすでに彼女の体は地面と激突しているはずです。
私の絶叫が屋上に木霊し、何故か象子は安らかな笑顔で落ちていきます。
しかし、そんな私の耳に一人の少年の声が聞こえてきます。
「――助ければいいんだね?」
それは最初、天からのお告げかと思いました。
けれど、違います。その声の主は確実に実在していました。
いつの間にか柵の上にいた女装少年――天戸游真くんが柵を蹴り、空中へと跳んでいきました。
私は思わず悲鳴をあげます。このままでは象子どころか天戸くんすら死んでしまいます。 柵を蹴った分勢いがついているのか、天戸くんの体はあっさりと象子に追いつき、そのまま彼女へドロップキックを敢行しました。
「…………えっ?」
目を白黒させているうちに二人の体はもつれ合い、そのまま校舎の近くにあった樹に激突し幾つもの枝を下敷きにしながら木の幹を軸にして地面へと落ちていきました。
「あいたたたた……」
地面に落ちた天戸くんがうめき声をあげます。
そして、顔を上げ、屋上の私に向かって言います。
「おーい、助けたよっ!」
彼の側では激痛に呻く象子の姿。
――生きてる。
「……助かった?」
私は呆然とし、その場に腰砕けになりかけます。
が、こうしては居られません。
私はすぐさま校舎を駆け下りて二人の元へと向かいました。
野次馬を押しのけ、二人の側に向かうと、そこでは天戸くんが象子の体をぺたぺたと触っていました。
「何をしてるのですか?」
「触診だよ」
彼は立ち上がり、私を見つけます。
「鎖骨一本、肋骨二本折れてる。でもまあ、落ちたのが最終落下地点が芝生の上だったのも幸いしてなんとか無事みたい。
今は意識を失ってるけど、まあ、生きてるよ」
こともなげに言う彼も無事では済まなかったらしく、足を引きずっています。
けれど、こんな時でも彼は天使のように柔らかな笑みを浮かべます。
――ああそうか。
私はやっと分かった気がしました。
私にとって、彼は本当に天使だったのです。
本当に困った時に、私に救いの手をさしのべてくれた、天使。
だから。
――私はこの人が好きなのですね。
私は十字を切り、神に感謝を述べます。
そして、改めて天戸くんに向き合います。
「ありがとうございます。
彼女は私の大事な親友なのです。
本当に、ありがとうございます」
涙が流れるのもかまわず、私はただ謝意を伝えます。
「敵対してた、それこそ嫌いな相手である私のためにこんなことを」
「……別に。ボクはするべきことをしただけだよ」
飾らない彼の言葉に私はますます感動を覚え、胸が高鳴ります。
そこへ――。
「……ここは?」
息を吹き返した象子の声。
私は即座に地面に横たわる象子の顔の側にしゃがみ込みます。
「象子」
呼びかけたものの、私は言葉に詰まりました。なんと彼女に声をかけるべきか。
生きのびたことの喜びを伝えるべきか。
無謀なことをしたことを責めるべきか。
その原因を作ったことをわびるべきか。
私は――。
「私は今でもあなたを親友だと思ってます。
これから先、あなたが私をどれだけ嫌っても、私にとってあなたは大事な人間です」
彼女の手を両手で握り、伝えます。
「こんなことはやめてください。私のために命を張るくらいなら、私のことなど嫌ってください。見捨ててください。
だから――自分の命を粗末にしないでください。
たとえこれはあなたが私の親友であろうと、許すことはできません」
いつしか私は涙を流していました。何も考えず、ただ思ったことを口にします。
「私はいつだって、あなたが大切です」
象子は視線を逸らし、ため息をつきました。
「敬語はやめてって言ってるでしょ。他人行儀であたしは嫌いだ」
ぶっきらぼうな物言いを私は何も言わず受け止めます。
そして、彼女は私に向き直り、言いました。
「悪かった。こんなことはもう二度としない。祈鈴にもう、そんな顔をさせたくない」
「え?」
「あんた――飛び降りた私よりも酷い顔になってるよ」
気がつけば、私の顔は溢れ出る涙でぐしゃぐしゃになっていました。きっと、彼女の言う通り酷い顔になっているのでしょう。
「誰がこんな顔にしたと思ってるんです……のよ」
「うん、だから……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
彼女の心の底からの謝罪に私は何も言わず、うんうんとただただ首縦に振りました。
象子は顔を歪め、そして私の後ろに立つ天戸くんを見つけると忌々しげに言いました。
「でも、なんてこと。まさか、あんたに助けられるなんて」
「――命の恩人に言う台詞じゃないわよ、象子」
かろうじて出た私の言葉に象子は笑います。
「自殺を試みた人間に言う台詞じゃないよ、祈鈴。
本当に、祈鈴は空気が読めな……いてててて」
象子は苦痛に顔を歪め、最後まで言葉を言えません。
「無理をしちゃダメだわ。今救急車を呼ぶか――」
涙を拭い、携帯電話を取り出す私の手を象子が掴みます。
「忠告しておくよ。その男は諦めた方がいい」
――できるなら、飛び降りる前にその台詞言って欲しかったです。
そんなことを思いつつも、さすがに空気を読んで私は口の中に留めます。
「どうして?」
「その男に性欲がない」
それだけ言うと、満足したようにまた象子は気絶してしまいました。
突然の言葉に私は呆然とします。
性欲がない?
そんなことがありえるのでしょうか。
いや、そもそも彼女はなんでそんなことを知ってるのでしょうか。何故今それを伝えたのでしょうか。
パニックに陥った私の頭の上に分厚い手がぽんっと置かれます。
「落ち着け」
「……佐久間先生」
現れた佐久間先生を前に私は口を開こうとしますが、問うべき事、伝えるべき事があまりにも多すぎて言葉になりません。
そんな私に対し、先生は優しく告げました。
「救急車なら呼んだ。堤谷は俺の方で保健室へ運んでおく。
お前達もついてこい」
落ち着いた、的確な指示です。
こうして、象子を巡る一連の事件に幕が下りたのでした。
けれど、幾つかの謎も残りました。
私はやっとどうして彼を好きになったのかを自覚出来ました。
でも、私が好きになった天戸游真という人間は――果たして何者なのでしょうか。
と言う訳で第二章。
なんか書いてたらいつの間にか、象子ちゃんが酷いことに。
どうしてこうなった!!
先にもっと象子ちゃんと仲のいいエピソード一杯出しておけよ!
ツッコミどころ満載だよ!
そう思いつつ、あとは游真の問題を描いて話は終わる予定。
……来週の締め切りに間に合えばいいのだが。