第二中教審の設置か?

教育再生会議:教員免許制度など、分科会設置し議論

 政府は13日、安倍晋三首相の私的諮問機関、教育再生会議の下部組織として「教員免許の更新制度」「全国的な学力調査」の2テーマを議論する分科会を設置する方針を固めた。来年3月にまとめる中間報告で具体的な制度のあり方を示す。再生会議の初会合は18日、首相や伊吹文明文科相が出席して首相官邸で開かれる。議事録の概要を会議数日後に公表する。

 安倍内閣は、何でも新しいものを作れば、新しいことをやれば、それで自分たちは改革をやっていると勘違いしているようだ。教育再生井戸端会議に分科会を設けるという。
 既存の中教審を改組して、本当に使える委員をさらに入れてやれば、教育再生井戸端会議よりも良いものが出来上がる。既存のものを「活用」することさえできずに何が改革か。新しいものを作って、さらに時間や税金を注ぎ込むよりも、既存のものを活用するほうが合理的ではないか。
 中教審がなぜこれまで機能しなかったか。それは、単に文部科学大臣の諮問を受けて、それに対する答申を出すだけであり、中教審が自ら動くような組織になっていなかったからだ。
 教育の課題が何か。その課題の解決には何が必要か。そういうのを中教審自ら考え、議論し、答申を出し、その後の実施状況も監視していく。そういう組織に中教審を変えていけば新たに教育再生会議などというものを設けなくても十分に改革はできる。
 教育再生会議を国の教育方針を決定する機関と位置付けるなら、中教審を改組してそこに組み込めばいい。そうではなく、あくまでも中教審とは別の諮問機関という位置付けをするなら、そういうのは私費でいくらでもやっていただきたい。宙ぶらりんな位置付けしかされていない教育再生会議はうまく機能するはずがない。改革をやっているんだという気分だけを盛り上げてみても、内容が伴わなければ改革はうまくいかない。

思考表現スタイルの違い

 ベネッセの『BERD』第6号、渡辺雅子「日米仏の思考表現スタイルを比較する」を読んだ。色々考えたこともあるのだけれど、時間がないので後で追記します。

追記

 渡辺氏は、思考表現スタイルを

一言でいうならば、「コミュニケーションの基本となる型」です。私たちが普段ものを考え、他人と会話を交わすときに、取り込んだ情報をどのように編集し納得しやすい形にするか、その枠組みのことを意味しています。国や文化によって思考表現スタイルは異なります。その違いは「語る」ことや「書く」ことの基本型に表れる

と述べている。また、日本とアメリカ、フランスの子どもたちの作文構造の違いを次のように整理している。

  • 日本:時系列型
  • アメリカ:因果律型と時系列型を課題によって使い分ける
  • フランス:因果律型と時系列型を統合した俯瞰型

 これらの型は、それぞれの国の国語教育の特徴と一致すると渡辺氏は述べている。そして、もう一つ特徴を整理している。

  • 日本:すべての部分を述べる
  • アメリカ:不要な部分を切り捨て、局所的な因果関係に注目
  • フランス:全体像を描こうとする努力

 渡辺氏は、

 思考表現スタイルは、学校における教授法や評価法のみならず、その国の社会でどのような能力が重要だと考えられているか、ということと深く関わっています。つまり、個人の認知から文化・歴史・制度まで含む一つの閉じたシステムの中で生まれるものなので、例えばディベートや小論文だけアメリカの様式を取り入れようとしても、「いいとこ取り」は難しいのです。かといって、システム全体を変えることなどできません。

と述べている。今、読解力の育成をということが言われている。しかし、「学校における教授法や評価法」「その国の社会でどのような能力が重要だと考えられているか」というところまで掘り下げて、その上でどうするのかという議論はあまり行われていない。これは、読解力の育成に限らず、他の分野でも言えること。
 例えば、文部科学省の言語力育成協力者会議の議論などを見ていると、PISA型の「読解力」に引っ張られすぎて、そのための「スキル」の習得を中心に議論している。これまでの日本の教育を見直していくというのはあまり行われていない。
 協力者会議の議論の方向もそうだけど、言語教育が「スキル習得」に偏っていないかということを最近特に感じている。物語りにしても論説文にしても、あるスキルをつかって読み解いていくというのが多くなっているのではないかということ。そして、物語りや論説文の中身を掘り下げていくということが少なくなっているように思う。
 物語りを読むといっても様々な方法がある。登場人物の気持ちを追いながら読んだり、出てくる風景を思い浮かべながら読んだり、物語りのメインストーリーではなくサイドストーリーに注目してみたり。それぞれある。そういう多様な読みができなくなっている。
 書く方も同じで、書き手によって色々違うし、時代などによっても違う。そういう多様な書き方を学ぶ機会も減っている。
 必要なことは、多様な読みと書きに子どもたちが出会う機会を設けることではないかなと思う。それは、国語科という限られた教科だけではないし、学校という限られた空間だけではない。色々なところで出会うことができる。そういうところで教科横断的にやるとか、学校外との連携なども必要になってくる。
 そして、読むものを文豪と言われる人の小説じゃないとダメとか、古典じゃないとダメとか、そういう限定は必要ないと思う。国語の教科書にはもっと多様なモノが教材として入って良い。国語の教科書に英語の文章が入っても良い。教科書だけでなく、教師などが子どもたちに様々なものを紹介してあげればいい。
 専門家とか知識人は、言語教育を狭い範囲に押し込めようとするけど、それが子どもたちに何となく堅苦しい感じを持たせてるし、つまらないと思わせている。そうではなくて、もう少しオープンにして、子どもたちのところに降りていくことが必要なんじゃないかなと思う。
 思考表現スタイルの違いというテーマからは大きくずれたけど、渡辺氏の論文を読みながらこういうことを考えていた。