大田直子氏の陳述意見

教育基本法に関する特別委員会会議録 長野地方公聴会速記録 平成十八年十二月四日より抜粋

 まず、政府から出されている法案についての意見ですけれども、現在、日本の教育制度が多くの点で批判されていること、多くの人が教育改革を望んでいるということは事実であろうかと思います。また、社会の情勢も近代公教育が成立した十九世紀とはかなり異なっており、改革がその時々に行われる必然性はあると思います。しかし、それは例えば高度情報化社会、ネットワーク社会、あるいは私の専門で言えばイギリス社会が今目指しているような生涯学習社会の構築といった大きな理由が存在しているはずであろうというふうに考えます。

 翻って、現在の日本の公教育制度が抱えている問題は、ある意味で戦後の教育改革の理念を形骸化してきたこれまでの政府・与党文教政策の結果でもあると私は見ていますけれども、それについては何ら反省も分析もされておらず、専ら学校、教職員あるいは教育委員会あるいは教職員組合のせいにばかりされてきたような気がいたしますし、このごろは保護者の側への批判もメディアによって痛烈に行われています。つまり、個々の当事者を批判するという態度から脱していないように思われるわけです。

 また、仮にこの中身に対して、もし改正案としてどういうふうに考えるかというと、これもまた全く時代錯誤的な内容となっているとしか言いようがないと思います。

 例えば、イギリスの例を引いて申し訳ありませんが、イギリスは明確に生涯学習社会をつくるということを定義し、それを支えるのは活動的な市民であり、それは多元化した価値観の中で互いに価値観の違いを理解し尊重し合う自立的な個人の創出にあるのだと、そのために例えばシチズンシップ教育というものを同時に主張していますが、これは日本で今論議されているようなものではありません。国家はこのような自立的な市民を育成するために最低限のサービスの保障を約束しますが、それは社会生活の基本的ルールを奨励するものであって、国家が自ら率先して価値観などの統制を行うわけではないのです。

 しかしながら、今回の改正内容を見ますと、多くの点で国家が内心の自由や私の領域、プライバシーの領域への関与を明言しており、自由主義国家としてもその役割を大幅に逸脱していると言わざるを得ません。ある意味で非常にパターナリスティックな国家に逆戻りしているかのような感じがあります。しかしながら、むしろその多様な在り方があるということを前提にして、その中でどうやって生きていくのか、互いに尊重して人格の形成をしていくという元々の目的を考えた場合に、現在の文脈においては評価を伴うある種の強制として、特に目標の設定の部分は危険性が大いにあるというふうに感じています。これはやはり法律としても問題を抱えているのではないかと素人目に見ても思うわけです。

 また、安倍首相の個人的な文書が教育政策の動向に大きな影響力を与えてしまうような状況も問題であると思います。特にイギリスがその場合教育改革のモデルとされ、あたかもサッチャー教育改革が成功したかのように喧伝し、サッチャーが一九八八年教育改革法を成立させ、四四年教育法を改正したために成功したのだという極めて恣意的な単純化した論調で現在の教育基本法改正を正当化するというような論議というのは、まじめにイギリスの教育政策分析に取り組んできた者として見過ごすことのできない多くの問題を抱えていると思います。このような単純な見方が流布してしまうことに非常に憤慨しています。

 これは、例えば教育バウチャーの議論についても同様です。実際には教育バウチャーにはいろいろなパターンがあり、いろんな形で活用できる可能性もあるんですが、今のように日本で紹介されてしまいますと嫌悪感の方が先立ってしまいまして、教育バウチャー制度をめぐるまともな議論もできなくなってしまう。このことを一番がっかり思っているわけです。非常に私としては政府が出されておりますこの法案に対しては明確に反対したいというふうに考えています。

 それからもう一つ、民主党の提出の日本国教育基本法案についても言いたいことがありますので、多少言わせていただきたいと思いますが、政府案と比べれば、民主党提出の法案は多くの点で政府案よりも受け入れられる余地はあるだろうと思います。内心の自由などについても守られており、基本的な法律としての要件も満足していると思います。いろいろ政府案にない、例えば外国籍の人々への教育の保障、特別支援教育の配慮、財政的保障、情報化社会への対応など、対案としての性格が前面に出ていますけれども、新しい社会への対応というものが盛り込まれている点で評価できると思います。

 ただし、教育行政に関して付言すれば、従来の教育委員会制度廃止という大きな変更を求めているということに驚かされているわけです。これも、急に出たような意識がありますので。日本は戦後改革以降、アメリカの教育行政制度である教育委員会制度を採用してきました。しかしながら、五六年の地教行法以来、公選制が任命制に切り替えられ、教育長の資格が剥奪されたりしてきています。元々財政的裏打ちもなく、脆弱な基盤の上に成り立っていたものが更に形骸化されていったわけです。さらに、このごろの批判の中では、教育委員会廃止論ももちろん展開されておりますし、分権化と絡まって大きな関心を引いています。

 しかしながら、教育行政の一般行政からの分離という原則を見直すことに関しては更に議論が必要であると思われます。例えば、学校の自律性を高め、学校理事会を置くことで公立学校制度の改革も同時に提案されていますが、当該地域の教育全体を見直し、バランスを取るという仕事は必要不可欠であり、これに関しては教育行政の専門家である教育長が行うべきであると考えます。これは特にアメリカのみならず、イギリスでも再確認された点であります。

 イギリスは日本と異なり、一般地方行政の一部として地方教育行政が位置付いています。それでも、そのイギリスでも、一時期教育行政を担当する部局の廃止が叫ばれたんですが、基礎学力の向上、特色ある学校づくり、そういった目的を学校だけにゆだねるのではなく、当該地域全体に配慮して調整し、困難を抱えるような学校に対しては積極的に支援を行うためにいわゆる地方教育行政機関、その役割が再認識されてきています。こういった点も含めてこの点は検討されるべきではないかと思われますので、これについて今後の論議を進めていただければと思います。