幻想としての平等社会

ちょっとした飲み会で、池袋に久しぶりに出かけた。

渋谷とはまた別な意味でビャーッチな女性が多いなあ、という印象。
子供コドモした「下品ブリちゃん」が大量発生している渋谷とはまた違って、「出勤途中」のプロに見える人が多いような印象がある(まあ勤め人の帰宅ラッシュが始まる時間帯だったので、必然的にそうだったのかもしれないのだけれど)。
中途半端な丈のデニムのミニスカートに生足だったりすると、どうも素人さんには見えない。
湘南あたりでは、また別のベクトルでそういう格好が普通だったりするけど(「[life] 海、湘南、サザン」)、だからといってその違いは歴然としている。

地図だとか沿線とかで、その雰囲気が色分けできるのは当たり前だし、もっと大きいのはそれこそ「山手」「下町」とか「関東」「関西」なんてのがもっと古くから存在している。
でも、ターミナル駅間で明らかな温度差があって、ある種の階層やベクトルの差まで見えるようになってきたような気がする最近というのは、どうも平和じゃないような気がする。
そういうジオグラフィカルな温度差の無さが日本の長所というか、治安の良さや安全のバックグラウンドだったと思うのだけれど、その幻想はもう既成事実として打ち砕かれてしまったように見える。

「差」が目に見えるような形で現れてきた、というか、当人たちがそれを求めた、肯定したという最初の形が、それこそ「世紀末」のころの「ガングロ」とその周辺のムーブメントだと思う。
もちろんファッションとしての「ガングロ」であるとか「コギャル」といったものは廃れたけれど、そういった階層がそのままシフトしていったムーブメントは、センター街にそのまま対流している。
一般の人が夜歩くのを躊躇するような一角が繁華街のど真ん中にあって、そしてそこをかえって居心地がよいと感じる層がいる、というのはやっぱりジオグラフィカルな位相がそこにあるということなんだろう。
今はセンター街に各地から「通勤(?)」している層が、多く住んでいる沿線、地域というものが目に見えてわかるようになってきたとき、それは日本にもラフネイバーフッドとしてのインナーシティが成立し始めた、ということになるのではないだろうか……というのはもちろん暗黒未来予想なのだけれど。

ピストル男が東京メトロの駅員を襲撃したのが渋谷、というのもある意味象徴的だと思った。
もっとも、歌舞伎町や大久保でああいう事件があったとしても、報道されないことが多いというのも、それはそれとして東京の一つの暗黒面なのだけれど。