海、湘南、サザン

数年前まで湘南の、海水浴場と駅の名前が同じようなところに住んでいた。
東京と湘南では何が違うかというと、とにかくサーフィンでサザンだった、なんてことだろうか。とにかく魚屋とサーフショップがたくさんあった。
街道から外れたところにあるちっちゃな商店街にもサーフショップはあるし、キャリアがついているのは車だけじゃなく、自転車もキャリアでボードを運んでる(写真)。
よく行った近所のバーは、いつもサーフィンのビデオが流れていて、インセンスはバニラフレーバー。で、店の名前まで「GANJIYAガンジャじゃなくて「ガンジ家」」)。

でも、交差点で泊まった車から聞こえてくるのはサザン……なんてことはなくて、やっぱりヒップホップみたいなB系のものがおおかった。

じゃあサザンはどこにいるのか? というと、電車の中のフツーのサラリーマンの着メロだったり、茅ヶ崎駅前の商店街の街頭放送から聞こえてきたりする。
湘南のサザン的なものは、ブームのような消費される存在ではなく、サザンそのものと一緒に時代を経過して、ある世代から下では日常のように定着している、そんな存在だった。
たとえば、近所の小学校は、登校時間にPTAが持ち回りで交差点で黄色い旗を振っているんだけど、茶髪のレイヤーに青いシャドー、七分丈のパンツやデニムのミニに生足(そしてビーサン)、なんてサーファーなお母さんを見かけることも普通にあった。

小学校のときからサザンはヒットを飛ばしていたけれど、どうしてもなじめなかったというか、ずっと違和感を感じていたのはこういうことだったのかな、とやっと納得できたような気がした。
デルス・ウザーラとかカウリスマキ、最近だと「インソムニア」や「プレッジ」なんかにシンパシーをビンビン感じてしまうような北の果ての人間には、やっぱり皮膚感覚としてピンとこないものだったのかもしれない。

もちろん、北海道にもサザンのファンはたくさんいるとは思う。でも「深く積もった雪の上を歩いたことがない」なんて人とスノボに行ったあとに考えたのはそんなことだった。

「ケルベロス/地獄の番犬」★2

押井ワールドの踏み絵。
押井的普遍性が全編に詰め込まれているけれど、映画的普遍性は片隅にしか無い。この作品が楽しめた人なら、どんな押井映画でも大丈夫。もっともっと濃い「紅い眼鏡」は、フツーの映画ファンにとっては踏み絵ですらない「災難」。

ケルベロス世界のミッシングピースを観ることができる、と期待していたところに見せられたのは「台湾ロードムービー」。それなら普通は肩透かしだと思うし、プロテクトギアもほとんど活躍しないのは大きく期待外れ。
ところが、犬の視点の画面に川井憲次の音楽が流れるのを喜ぶ人たちは、例えば「人狼」よりもこの作品の方を喜んだりすることもある。
そういう価値観があるのはわかる。でも、その感覚を認知することはできても、共感することは難しい。

そもそも、この映画そのもの以前に、押井守その人の難解さという大問題が大きく立ちふさがっているような気がする。
表現者に対して考えるとき、どんな上の世代の、あるいは下の世代の語り手であっても、今現在という同じ時間と社会を共有している以上、シンパシーはともかく同時代性だけは確実に存在している。
ところが、押井作品には、彼自身がセクトに所属してまで参加していた学生運動と、その時代に向けた固定カメラのビジョンしかないようにさえ思えるときがある。
犬、犬……どこまでいっても犬。そういった懐古、というかあの時代への共感や憧れを持たずに、彼の世界に足を踏み入れるのは難しい。
後ろ向きの価値観で現代を生きるのではなく、今でも70年安保の昔にいて、どこか高いところから、辺りを見物しているような、そんな気さえしてしまう。自らを犬になぞらえているようでいて、見下しているような印象もあるのは、そんな超然としたところがあるからかもしれない。
そして、彼が語るのは放たれた「野良犬」であって、「野犬」のことではない。

彼が現代の語り手としては稀代の強い姿勢と言葉を持ち、ナタでバッサリやるような鋭い切り口をっているのは間違いない。彼の個性は魅力があり、そして、孤高すぎて万人に受け入れられる言葉にはなりにくい。
一般的な認知や評価が、彼が部分的に関わった作品と、「監督・脚本」などほとんどを差配した場合で別れるのはそのへんだろう。「パトレイバー」や「人狼」といった作品の数々は、結果として数々のクリエイターたちが関わることで、その強い個性を昇華させることができた。
1987年の「紅い眼鏡」から始まったケルべロス世界が、「犬狼伝説完結編(藤原カムイ)」が2000年に出るまで整合性をまとめることができなかったことも、ひとつのわかりやすい例だと思う。そして、日本出版社版の「犬狼伝説」の後書きで、本人が「立喰い師列伝/全六巻」の構想が“挫折した”ことを語っているのは何やら象徴的でもある。

それでも……イノセンスには期待している自分もいるわけで、と思ったらちょっとフクザツな気分。