槇村さとる『Real Clothes』12巻

 槇村さとるReal Clothes』はいよいよ大詰めである。


槇村さとる『Real Clothes リアル・クローズ』1巻 槇村さとる『Real Clothes リアル・クローズ』1巻


Real Clothes 12 (クイーンズコミックス) 老舗デパート越前屋で服を売る絹恵の部下・吉永に焦点があたっているのがこの12巻。

 そして、作者・槇村の吉永批判、吉永のようなタイプの人生観批判である。


 吉永は有能だ。そして上昇志向が強い。しかし、有能である吉永を、登場人物は次のように批判する。


 まず絹恵。


お願いです
「今の自分は本当の自分じゃありません」
――みたいな仕事の仕方はやめましょう


 ニコ(絹恵の元同僚)。


夢だけを見つめてないで
リアルな自分と出会った方がいいんじゃないですか?
今の自分からスタートしないと
あとあと空中分解しちゃうよ


 そしてニコとワインを飲みながら、吉永自身に言わせる自己批判がこれ。


私……
現時点の自分で勝負するのがこわいんです


 田渕(絹恵の上司)。


目の前の問題に夢中になれる奴はカッコイイ!
大切なことから目を離さなければ軸がブレない!


 「目の前のことに追われて気がつくともう取り返しのつかない年齢になってるよ」という言葉がよくある。だから、無目標なまま現実に追われていてはいけない、夢や理想を持たないといけない、現実はそれへむけてのステップなのだ、という主張。12巻はこうした人生観・仕事観への真っ向からの批判となっている。


 ぼくの実感からいうと、目標をたて、その間にあるチェックポイントをマーカーで埋めて行くような「里程標」方式の仕事のやり方よりも、将来の目標との関係なんてさっぱりわからないけども目の前の仕事にド集中してそれをクリアしたときのほうが、はるかに達成感も大きく、成長したという実感が確かにある
 20代の後半くらいまでは、目標のようなものを立てて読書や仕事をやろうとしてみたが、うまくいかなかった。



 目標をたて、現実をそれにむけて引き上げていく方式は、目標と現実との間にかなりリアルで具体的なステップがなければ成功しない。一つひとつの行動がかなり詳細に意味づけされていないとたちまち現実に押し流されたり、実はそれほど意味がないものだったりするからだ。


 「そんなことはない。自分の想像しうることを越える目標を持つことが、自分の眠っている力を引き出すのだ」てな意味のことを、『おおきく振りかぶって』で言っておったなあ。甲子園出場か甲子園優勝かどちらを目標にするかっていうので。
 どっちも一理あると思うんだけど、後者は「集団や組織のときはその方式が適用できる場合がある」ということになるんじゃないかな。
 というのは、自分が想像しえない部分を他人がカバーして、いい知恵を出してくれるから。それから、自分ひとりだと目標への邁進をサボッたり、迷ったりするときに、批判し持続へ尻たたきしてくれる人がいるから。
 けど、一人だったら、よほど強い意志と、幅広い見識と、弁証法的な発想がなければ、そんな飛躍はできないと思う。まあ百歩譲って、そういうことができる人がわりといるにしても、ぼくには無理だな。


 この問題にたいする『Real Clothes』12巻の解答は「目の前の仕事に夢中になれ」「現実の自分から出発しろ」ということなのだが、それは現実に流されていることではないのか? しかし他方でぼくのような実感もあるわけで、「目の前の仕事に集中する」ことは一体何をやっているということになるのだろうか。



 これはかつての大学教育において、一般教育がめざした理念でもある。一般教育はもともと大学に入った時に、自分の専攻するのではない、いろんな種類の専門学問を体験させることで、学問に共通する方法論、自然観、社会観、人間観というもの、いわば普遍を身につけさせる周到な哲学教育であった。実際には、ただの専門学問のうすーい概論の寄せ集めになっちゃったわけだけどね。


 あるいはマルクスが『資本論」でのべたように、工場をリストラされてはまた吸収される労働者たちは、ある工場では機械の一部のような「部分的労働」しかしていないが、変転するうちにさまざまな技能や技術観を身につけ「全体的に発達した個人」をつくりだす可能性がある、という話に似ている。


 目の前の「つまらない」仕事を一生懸命やって、だいたいその仕事ができるようになってくるころに、見えてくる境地というものがある。人の配置とか、取引先との関係の結び方とか、さらには段取りとか規律とか。そして今度は新しい仕事で別の境地を得る。そのようにして、次第に仕事の普遍へと近づくことができるのではないか。世の中にはそれさえもかなわないような、それ自体では意味を完全に剥奪された部分労働といったようなものが沢山あるのだが、やっていればなにがしかの力が備わるという労働もまた少なくない。


 田渕や絹恵、ニコ、そしてひいては槇村が言いたいのはそうしたことだろうと思う。


昔つきあっていたのにおかしいだろ

 ところで、全然関係ないが、第92話でマツタケ(絹恵の部下の一人・男)と吉永が「昔つきあっていた」ことになる展開の不自然さは目を覆うばかりである。
 第87話で、吉永はマツタケに対し、思わせぶりに、


今度私もランチに誘ってくださいよ


とつぶやく。そして吉永がその場を離れた後、マツタケがひとりごつのは、


「私を食べて」って言われると――
食欲が失せるんだよね


という言葉である。第90話で吉永と「前につきあっていた彼氏」のピロウトークのシーンが出てくるが、それはセックスをしたことのある関係だということを明示している。なのに


「私を食べて」って言われると――
食欲が失せるんだよね


はないだろー。「食べた味」を十分知ってるんだからさー。

 この他にも過去に体の関係まであったほどのつきあいをしていたカップルにしては不自然な会話がなくはないのだが、職場なので抑制の効いた会話にしていたとか、交際していたのが昔だったのでもう忘れてしまったとか言い訳できそうなので目をつむるとしても、この会話はどうしてもいただけない。いただけないからどうだというのかと詰問されれば、ぼくも返答に窮するが。