在日コリアン人権運動の理論構築について(2)

在日コリアン人権運動の理論構築について

第1章 在日コリアン人権運動停滞の基本的要因
1.1 国籍取得特例法案と運動の停滞
 1970年代に始まった、在日コリアンに対する民族差別撤廃運動は、1980年代に最も高揚し、多くの成果を挙げた。この運動は、ひとり在日コリアンの権利拡大に寄与したことにとどまらず、日本社会がそれまで気づくことがなかった他民族、外国人に対する排他性、閉鎖性をあぶり出し、日本社会の国際化の先鞭をつける役割をも担うこととなった。
 運動は当初、主として国籍条項の撤廃から開始された。現在では、考えられないような基本的権利のことごとくが「日本国籍を有するもの」に限定され、在日コリアンは排除されてきた。公営住宅、児童手当、国民年金等法律で定められているものはもとより、高齢者無料検診、市バス割引券等自治体独自の制度も例外ではなかった。いわゆる革新自治体の十八番としていた各種福祉制度さえも国籍条項は厳然と存在した。このため、民族差別撤廃運動が高揚し始めたころ、民族差別は戦後民主主義ブラックホールとさえ言われた。少なくとも民族差別に関しては、革新、保守の区別は決定的な意味を成さなかった。
 個別の課題ごとに取り組まれた民族差別撤廃運動は、そのたびにマスコミに大きく取り上げられ、世論の形成を後押しする形となった。運動が発展するに従い、この日本社会に在日コリアンという日本人と異なる人々が存在すること、この人達が不当な差別を受けていることが社会に認識されるようになった。民族差別撤廃運動の最初の社会的意義はここにある。
 1985年、指紋押捺拒否運動が最も高揚した時期、外国人登録法の指紋押捺義務制度の問題は、韓国、アメリカ、カナダのマスコミにも大きく取り上げられ、国際社会においても指紋押捺制度と指紋押捺拒否者に制裁を課す日本政府の姿勢が批判の的となった。
 1991年、日韓両政府によって、在日韓国人の法的地位および待遇に関する新たな協定が締結された。これによって、指紋押捺問題が基本的に解決(押捺義務の廃止)され、以降在日コリアンの権利運動は主として地方参政権獲得へとシフトした。1995年、最高裁が、在日コリアン地方自治体の選挙権を認めることを合憲とする初の判断を下した。これを契機に、参政権運動は全国的に盛り上がり、日本の各種政党もこれを認める見解を表明し始めた。
 当初の民族差別撤廃運動を担っていたのは、既成の民族団体から独立した、在日コリアン2世を中心とする各地のグループと日本人市民であったが、指紋押捺問題以降、それまで民族差別撤廃運動に対して距離を置いていた韓国民団が、組織的に取り組みを開始し、参政権運動においては、全組織を挙げた闘いを展開した。
 しかし、この動きに対抗するかのように自民党から、届出によって日本国籍取得を可能とする「国籍取得特例法案」が提案された。これに対して民団は明確な態度表明ができず、結果参政権運動は衰退の一途をたどることとなった。
 従来から、民族差別撤廃運動に対して、ことあるごとに「差別がいやなら日本に帰化せよ」との批判あるいは中傷が浴びせかけられてきた。これに対して運動側は、現行の帰化制度が、極めて煩雑な手続きを要求し、さらには日本名を暗に強要するなど、在日コリアンアイデンティティを否定するものであるとの反論を繰り返してきた。しかし、この法案は、煩雑な手続きも、日本名への変更も必要としないことから、反論の根拠が失われることとなった。
 日本国籍取得を否定する明快な論拠がない以上、それでもなお日本国籍取得を拒むのであれば、それは本人の自由意志による選択であるから、外国人のままで参政権を要求するのは不当であるとの意見が、勢いを得る結果となった。
 参政権運動の衰退は、確かに自民党による法案の提出という外部からの作用が契機であるにせよ、その本質は日本国籍に対する明確な態度を表明できなかった在日コリアンの民族差別撤廃運動内部の弱さにその原因が存在するというべきである。
 いくつかの在日コリアンの団体からは「国籍取得特例法案」に対する反論が出されたが、いずれも情緒的、主観的反発の域を出ておらず、少なくとも世論(当事者を含む)を納得させうる論拠を示すことはできなかった。
 これ以降、マスコミも参政権運動を取り上げる回数が激減し、世論の関心も遠のくばかりとなった。参政権運動が民族差別撤廃運動のエポックとなっていたことから、参政権運動の衰退が、民族差別撤廃運動総体の停滞の契機となった。
1.2 新たな同化論「多文化共生論」と運動の停滞
 参政権運動の衰退は、確かに民族差別撤廃運動の停滞の契機となったが、しかし、最高裁の合憲判断が出された1995年時点で既に、民族差別撤廃運動の停滞化傾向は静かに、しかし着実に進行していた。それまでの民族差別撤廃運動を牽引してきた各地のグループが、反差別の闘いから、闘いの成果として獲得された行政委託事業へとその重点をシフトし、地域での生き生きとした闘いは、このころすでに停滞化傾向にあった。
 従来、闘いを担ってきた世代が、行政事業へとシフトする一方、若い世代が反差別の闘いの戦線に参加しなくなった。若い世代の多くが、闘うことに価値を見出さなくなるか、あるいは闘いそのものを否定する傾向が主流となった。共生が闘いにとって替わったのである。差別をなくすことは大事だけれど、差別と闘うのではなく、異文化の交流を通じて、人と人が出会ういとなみこそが、差別をなくす道であるとの考えである。
 かくして、反差別の闘いは影を潜め、各地で異文化交流事業が盛んになった。これら事業の多くは、行政の後援、協賛を得て、日本全国各地に広がり、今日においては、在日コリアンと日本人の交流にとどまらず、全ての外国人と日本人との交流にその対象が拡大されてきた。今や、異文化交流は、当初の差別をなくすという目的さえも消え失せ、交流そのものが目的化することとなった。
 多文化共生という耳障りの良い言葉は、結果として差別との闘いを否定するものであることから、差別する側としての企業や行政にとって極めて都合の良い思想であった。「共に生きる」とは、両者が同じ立場であることを連想させる。支配する側の国家と支配される側の人民との間に存在する矛盾を覆い隠し、抵抗する意思をなきものとする思想。これは、植民地支配に従順な朝鮮人に仕立てる同化思想と本質においてなんら変わるところがない。
 在日コリアンの民族差別撤廃運動が停滞する時期、日本の社会運動、労働運動もまた同様の停滞を余儀なくされている。反公害運動が環境運動へとシフトし、公害を生み出す元凶である企業と闘うことなく、個々人が「環境にやさしい」生活を送ることに価値を見出すようになった。かくして、公害をまきちらしてきた企業は、「環境にやさしい」製品を販売することによって、莫大な利益を上げることができた。一挙両得とはまさにこのことである。部落解放同盟は、同和対策法の期限切れを前に、行政の同和予算が削減されたことから、人権全般の予算を独占するために、自らマイノリティ運動のナショナルセンターとなって、人権運動の支配、管理をもくろんだ。しかし、これを拒否して独自の闘いを展開した在日コリアン人権協会(旧民闘連)に対して、その組織力を背景に、かく乱と介入を強行した。部落解放同盟と癒着した同和系自治体官僚と、同じく同和系民僚(外郭団体職員)も、既得権を守るため、部落解放同盟と連携して、積極的にかく乱と介入を行った。利害の一致を見た部落解放同盟と官僚、民僚の連合による攻撃の結果、民族差別撤廃運動は停滞を余儀なくされた。
 要するに、民族差別撤廃運動の停滞は、参政権運動のつまづきという在日コリアン固有の課題をエポックとしつつも、それはあくまでも契機であり、共生論が席巻し始めた1980年代後半からの日本社会全体の思想状況にその本質が存在するというべきである。
マイノリティがそれぞれ独自の歴史性を有しているがゆえに、個々の運動は不均等に発展する。それぞれのマイノリティには、それぞれの闘いの様式とフィールドが存在し、それは、他者が干渉すべきでない領域であることは普遍的原理であり民主主義の原則である。しかし、部落解放同盟は自らの利権を目的に、官僚、民僚と連携して、民族差別撤廃運動を停滞に追い込んだ。ここに多文化共生論の一端(同化して差別する)が顕れている。
 参政権運動を契機とした日本国籍論、行政と連携した民族差別撤廃運動攻撃の思想的背景である多文化共生論、以上二つが民族差別撤廃運動の停滞を招いた基本的要因である。本研究は、従来の情緒的、主観的観点を排し、これらの課題を具体的実践と客観的見地から理論的に明らかにし、もって民族差別撤廃運動の再生に資することを目的とするものである。