27.学問のすすめ 六編 第五段落

第五段落

 昔徳川の時代に、浅野家の家来が、主人の仇打ちだといって吉良上野介を殺したことがった。世ではこの事件を忠臣蔵、また、この仇打ちをした人たちを赤穂の義士と呼んでいる。この一件はなんと間違ったことだろうか。

 というのも、この時日本の政府は徳川で、浅野内匠頭吉良上野介も浅野家の家来も皆日本の国民であって、政府の方に従ってその保護を受けると約束をしたものである。なのに、ちょっとした間違いで上野介なるものが内匠頭へ無礼を加えたばかりに、内匠頭はこれを政府に訴えることも知らずに、怒りに任せて個人的に上野介を切ろうとして遂に双方の喧嘩となった。そして、その後の徳川政府の裁判では、内匠頭に切腹を申しつけ、上野介は何の刑罰も無くて、この一件は実に不正な裁判であった。

 しかし、浅野家の家来どもはこの裁判を不正と思ったのなら、どうして政府にそのことを訴え出なかったのか。四十七人の浪士は、面々で申し合わせて、筋により法に従ってこの不正な裁判について政府に訴え出ていれば、もちろん暴政府のことだから最初はこれを取りあうどころか、この訴訟人を殺してしまっていたかもしれないけれど、たとえ一人が殺されようともそれを恐れることなく、訴えては殺され、訴えては殺され、そうして四十七人の家来が利を訴えて命を失いの尽くすのならば、いかなる悪政府でも遂には必ずこの理に伏して、上野介にも刑罰を加えて裁判を正しくすることもあっただろうに。

 このようであってこそ始めて真の義士と言うべきものであろうに、この理を知らずに、身は国民での地位にありながら国法の重いことを顧みないで、闇雲にも上野介を殺したのであるからには、国民の職分を誤って政府の権を犯して個人的に人の罪を裁決したものと言えるだろう。

 幸いなことには、このとき徳川の政府でこの乱暴人を刑に処したから無事に治まったのではあるけれども、もしこれを許していたら、吉良家の一族がまた仇打ちだと言って赤穂の家来を殺すことは必定である。そして、こうなっていたら、今度はこの家来の一族が、また仇打ちだと言って吉良家の一族を攻めていただろう。仇打ちだ仇打ちだと言って、はてしもなく、遂に双方の一族朋友が全て死に尽くしてしまわなければ事は終わらない。いわゆる無政無法の世の中とはこんなような事である。私裁の国を害することはこのようなものである。慎まなければならない。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536



感想及び考察

■私もそんなに年をとっているわけではない(33才)のだけど、忠臣蔵の話については、皆知っているのだろうか。正月の度にテレビでやっている気がするけど、私自身テレビを見なくなったので、なんかかなり影が薄くなったような気がする。私も、幼心に、祖母や祖父に、「どうして裁判がおかしいって言わなっかったの」などと尋ねていたような気がする。確かに、現代の感覚で忠臣蔵を見ると、随分筋違いな話で、どうして赤穂浪士が正義の味方(主役)として描かれているかは、特に単純な話を好む子供にはわかりにくいことと言えるかもしれない。しかも、その主役は最後には殺されてしまうわけで、それが余計に疑問を生む内容になっていると思う。

■ダンマパダ(法句経)に全くと言っていいほど、同じ言葉がある。「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によって作りだされる。もしも汚れた心で話したり行ったりするのなら、苦しみはその人に付き従う。車の後輪が必ず前輪に着いていくように。〜〜中略〜〜実にこの世においては、怨みに対して怨みで報いるのならば、ついに怨みの止むことはない。怨みを捨ててこそ息む(やむ)。これは永遠の真理である。」(岩波文庫ブッダの真理のことば、感興のことば」中村元訳、冒頭より抜粋)仏教では仏教らしく、この止むところを自分の心に求めなさい。と言っているわけだけど、ここで福沢は、この怨みの止む機能を政府の法に求めたわけである。▼ここに、出典を明らかにしたのは、この本を多くの方に読んでいただきたいからであって、少しでも納得できたのなら、是非とも購入して読んでいただきたいです。いや、私の書いたものを読んでいるより、はるかに価値があるでしょう。800円で、アマゾンを利用すれば日本全国どこでもこれが手に入るとは、文明に感謝すべきことです。昔は、これを手に入れるために、危険を冒して玄奘などの僧侶がシルクロードその他を旅したわけで、実にそれほどの、それ以上の価値があるものと言えます。