延原時行歌集「命輝く」(第2907回)(スズメたち)

              
  延原時行歌集「命輝く」(第2907回)
  「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」
今朝も先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。
今日の歌にも記されていますように、今日から日本ホワイトヘッド・プロセス学会に参加のためお出かけのようです。ご不在の三日分の歌をお送りいただいています。

    10月13日

           ある設問の歌六首 
   
   *この日より15日まで、天理大学にてプロセス学会なり

 一 恩師言ふ原事実をばバルトはやイエス出現惹起せしとぞ
   (備考:滝沢克己『自由の原点:インマヌエル』東京・新教出版社、211頁、参照)

 二 我や見る原受肉のや溢れきて原事実成り御友呼応す

 三 原事実成れば即刻イエス呼応原事実のみ見るや難しや

 四 問やあり原事実にやイエスはや呼応すかそれとも逆か

 五 前者なら原事実はや「神共」の原受肉うけ活性化なす

 六 後者なら滝沢のぞやバルト批判妥当なりとや告ぐべしとぞや

 七 これただしバルト正しくかく言ひし正しく明らなればこそぞや

 八 恩師のち「原事実のや設立」か否「原事実への答」イエスとぞ
   (備考:滝沢1969年のバルト理解を『純粋神人学序説』福岡・創言社、1988年、271頁にて自己訂正なせり。恩師生涯の大方前者の理解をもってバルト批判を展開せし事我ら知悉なすなり。生涯の終りに臨み「ハイデルベルク・アドレス」において初めて前説を訂正せるや、バルトを含み大方の批判のありて、訂正せしと思はる。されど、「イエスの縛り」を批判し、「原事実に向かふ」と記述せし所(同272頁)に自説の矜持を保ちたり。即ち、滝沢の論旨では、「原事実に触発されてイエスの宣教ありたり」の真理明らかならず。そこに我、真理を闡明せしめん為に、此度「原受肉」説提起成したるなり。しからざれば、「原事実」と「イエス宣教」との間の機微明らめられず。「原事実」が原事実に留まるままにて、生ける呼びかけにならで、それを受けてイエスのダイナミックな宣教激発なせること能はず。『マルコ』1・14-15に、イエスご自身「神の国」近づけりと明言せるは、「原事実」が(「神共」ロゴスに依りて)事実性を破られて「原受肉」を成就してこそ、イエスの「神の国」宣教に呼応の姿を見せたるなり。その消息をホワイトヘッドは、「創造作用」Creativityそのものとそれを受けたる被造者の働き(Partaking)の相即として明らめたり(Dialogues of ANW, 366)。まさにこのPartakingの理論が滝沢には欠落したるなり。そもそも、「原事実」の明らめらるるは、それへの呼応がすでに何らかの形に於いて生起せる処においてであって、「原事実に認識者が向かふ」ことによってには非ず。恩師は何故、自らの主観としての「向かふ」志向性をかくも強調なすか。我らは「原事実」を「神共」ロゴスによって「原受肉」と言う形に於いて破られ、従ってそのままに生かされている(例えば『マタイ』6・26-29の言ふ、「野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華を極めた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」如くに、無為自然に)にはあらざるか。此処に「Partaking」(参与)の真実・美があるにあらざるや。滝沢原事実論には、原受肉と参与の美に就き一言なきを、もう何十年訝りて来たるものなり)




上は、昨日の「さんさん花壇」と小学校の糸瓜と南瓜です。

昨日は朝、校正済の小説「一粒の麦」を宅急便で送り、一日中次の小説「乳と密の流るる郷」の校正に取り掛かりました。明日までには終える予定です。

上は、草刈の終わった隣の公園で撮りました。立派な金木犀があり、道端に棄てられていた蘇鉄を、ここに植え替えて、元気に育っていて・・・

昨日も一輪のサボテンが顔を出してきました。今朝は奇麗に咲いているでしょうね。

次は、公園で群れて遊ぶスズメたちです。

終りに、猫ちゃんと・・・・(ある公園に実っているみかん?をいただいたり・・・)

遠くのビルの上にとまる鳥ですが、これはなんの鳥かな?