山南敬助

一般

山南敬助

やまなみけいすけ

天保4(1833)年もしくは天保7(1836)年生、元治2(1865)年2月23日没。

名は知信。出身地は奥州仙台。北辰一刀流千葉周作門人、免許皆伝。表記を「三南」とする史料もあり、読みは「さんなん」であった可能性が高い。天然理心流道場、試衛館の近藤勇らと交流があり、共に上洛する。壬生浪士組では局長助(副長)を勤め、新選組では総長となる。元治2年2月、隊を脱走するも大津で捕まり、壬生屯所にて切腹する。介錯沖田総司。脱走の原因は、屯所の西本願寺移転への反対とする説、近藤勇土方歳三との思想的相違とする説など有るが、真相は不明。島原の遊女・明里との悲恋は子母澤寛の創作とされる。墓は四条大宮の光縁寺。