観応の擾乱の折、西暦1351年の足利直義派へ対抗するための足利尊氏、足利義詮らの南朝との和睦。
足利直義、尊氏が交互に申し出たが南朝の後村上天皇は尊氏を受け入れ、直義追討の綸旨を下す。尊氏の事実上の降伏であり、崇光天皇を始めとして北朝方の皇族、貴族は廃され、それまで偽器と主張していた北朝の三種の神器も接収されてしまう。
しかし、南朝方が尊氏不在の隙を突いて義詮を追い払ったことにより破談。義詮らが逃げ延びる際に北朝の上皇を取り残していってしまったため、彼らは南朝方に拉致されてしまった。大義名分として再び北朝の天皇が必要となったが治天の君がいなければ次の天皇も立てられず、非皇族の女性西園寺寧子が治天の君に就くという史上例を見ない事態となる。