戦国武将、江戸幕府の幕臣。1553年〜1628年 父は大久保忠世。 はじめ家康の近習に登用され、五カ国時代には武将として戦場で活躍。のみならず、内政・外交にも才幹を発揮し、1594年に相模小田原藩主となる。 本多正信らとともに初期の江戸幕府の枢要を占めるが、1614年に無許可婚姻を理由として、突如として幕府より所領を没収される(本多正信との対立が原因と言われる)。
*「どうする家康」で大久保忠世を演じた小手伸也。なんとなく、大久保一族の風貌を彷彿とさせます(NHK) 【あらすじ:中巻】 一向一揆を抑え三河を平定した徳川家康は、武田信玄と不可侵の約を結び、今川の領土である遠江国へ侵攻する。信玄は駿河国を襲うが、その後遠江国へも侵略の手を伸ばし、戦いの火蓋が切られようとしていた。しかし織田は徳川に対して援軍を送らず、家康は三方ケ原の戦いで信玄に完膚なきまでに敗北してしまう。大久保一族も犠牲がでたが、大久保忠世は敗北後に武田軍に夜襲をかけて、徳川軍の意地を見せた。 ところがその信玄が死去する。後を継いだ武田勝頼は、猛将だが軍略と治世の能力に欠け、長篠の戦で信長…
大久保長安 長安の父・大蔵信安は祖父の代より継承された猿楽師(狂言師)であり、その次男として天文十四年、甲斐国で生まれた。信安は猿楽師として武田信玄のお抱えであり、息子の長安は信玄の家臣となり武田領の黒川金山などの鉱山開発に従事していた。 その後、信長・家康連合軍の侵攻(甲州征伐)により武田家が滅亡すると、長安は鉱脈発掘に長けた山師の才能を認められ家康の家臣として仕えるようになった。更に長安は大久保忠世の長男・大久保忠隣の 与力に任じられ、姓を大久保に改めた。そして、甲斐の内政再建を任された長安は釜無川や笛吹川の堤防復旧や新田開発、金山採掘に尽力し、わずか数年で甲斐の内政を再建した。この実績を…
こんにちは、みなさんお元気ですか? さて、現在ここ茨城県筑西市のザ・ヒロサワ・シティにある廣澤美術館で、「伝統と革新 千住博と黄金の茶道具 特別展」が開催中です↓ 特別展では、廣澤美術館が所蔵する日本画家・千住博さん(日本芸術院会員)の作品を一堂に展示するとともに、昨年行われたオークションで同美術館が3億円で落札した「黄金の茶道具」が初公開されています。 「黄金の茶道具」は令和5年5月27日(土)、Shinwa Auction株式会社が東京・丸の内の丸ビルホールで開催した特別オークションに出品されたもの。オークション主催者は「真贋は保証しない」としていますが、豊臣秀吉が、文禄・慶長の役で朝鮮半…
天方城本郭に建つ城址碑 天方氏が14世紀の末期頃に築いた城も当時は天方城と呼ばれており、区別する場合は、そちらを天方本城、こちらを天方新城と呼ぶ。 天方9ヶ村を支配した天方氏は、15世紀末期の今川氏の遠江への伸張以降、今川家臣として活動していた。しかし、永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で、当主義元が信長の急襲によって討たれると、跡を継いだ氏真は家中を御し切れず、今川氏の支配体制は退勢となっていく。 そんな中、今川家中の有力国衆として臣従していた松平元康は、今川氏の城代が治める城となっていた本拠岡崎城を回復し、やがて家康と改名して今川氏から自立した。こうして外交の独立性を取り戻した家康は、信長…
・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 2018-09-13 ⚔42)─1─徳川秀忠のキリスト教禁令とキリシタン処刑。徳川秀忠の死。1626年~No.170・ @ ・ ・ ・ 刀剣・日本刀の専門サイト 刀剣ワールド 日本史/合戦・武将・戦国史を知る 日本史/合戦歴史年表 江戸時代「踏み絵の導入」 江戸時代に入ると、幕府は鎖国政策を採ってキリスト教を弾圧するようになります。その中で江戸幕府は、キリスト教信者をあぶり出すために、「踏み絵」(ふみえ)と呼ばれる制度を作ったのです。キリスト教信者にとって大切な聖画像などを踏ませ、…
長政公御代分限帳 ※このブログは2023年11月25日に福岡地方史研究会例会の発表したレジュメを転載したものです。発表の時に説明した部分などは書いていませんのでわかりにくい部分もあるかもしれませんが、ご了承ください。 分限帳は藩に仕えている武士の名前と禄高を記したもの。今回の発表会では福岡県立図書館郷土資料室にある『長政公御代分限帳』を取り上げ、元和初年(1615年)分限帳の異本であることを明らかにする。またその分限帳の成立の過程で起こった「大坂の陣」で黒田家が迎えた危機とその危機からの脱出についても考察する。 1.福岡県立図書館郷土資料室にあった「長政公御代分限帳」 郷土資料室で「長政公御代…
寝る前に書くことにタイトルなんか付けない。すだちサワーがぶがぶ飲んだらおねむになったんで、本編明日書きます。m(__)m今日の大河ドラマ『どうする家康』「父のような不埒な生き方を許さぬことこそ、これからの世でございます」(本多正純/井上祐貴)「父のような不埒な生き方を許さぬことこそ」岡本大八事件を起こした意地汚いのがよくそんなこと言えたよなって。正純の父・正信も正純同様嫌われ者だったが、徳川の連中は正信を潰そうとまでは考えなかった。いえやっサンに天下を取らせた知恵袋。弓・槍・刀での貢献では無いため、ドラマのように「イカサマ師」呼ばわりされた正信。それでも、正信を潰そう、殺そうと思うのはいなかっ…
寝る前に書くことにタイトルなんか付けない。すだちサワーがぶがぶ飲んだらおねむになったんで、本編明日書きます。m(__)m今日の大河ドラマ『どうする家康』「才があるからこそ秀康様を跡取りにせんのでござる」「才ある将が一代で国を栄えさせその一代で滅ぶ。我等はそれをイヤというほど見て参りました」(本多正信/松山ケンイチ)さあ、どうだろう。一説では本多正信が結城秀康を徳川の二代目に推したという話もある。実際に秀忠を二代目に推したのは大久保忠隣であって正信では無い。そもそも、才があっても秀康は徳川の二代目にはなれない。武家社会は相続のレジテマシーを重視した。レジテマシーが薄いと、家臣が言うことを聞かない…
NHK大河ドラマ『どうする家康』第44話コラム こんばんは!旅行ブロガーにして、歴史地理コラムニストの旅人サイファです。毎週日曜日夜は、NHK大河ドラマ『どうする家康』コラムをお届けします。 筆者紹介 こちらは本業の傍ら全国47都道府県を旅して年間平均40泊!旅行プランナー/ブロガー「旅人サイファ」が執筆運営しております。地理・歴史へも興味が深く、各所で好評を頂いております。 旅人サイファ実績 ・スキルマーケット「ココナラ」にて旅行お出かけカテゴリ売上実績No.1 ・グルメサイト「ニッポンごはん旅」公認ライター ・スマートニュース/Yahoo!ニュースほかメディア掲載実績多数 ・「にほんブログ…
プロローグ さあ決着戦だ 古典部登場! 「ふたたびのお目通りとなります」 「この前はお騒がせしましたー。 詳しくは、そして私たちがなぜ登場してるかは、こちらの過去記事をご参照ください」 m-dojo.hatenadiary.com 「分量的にも体力的にもへろへろになったし、記事ボリュームが増え過ぎたんで、一区切りとしましたが、本日は大河ドラマでも関ヶ原決戦編。やり残した謎の解決を、思い切ってやってみます」 「関ヶ原に至るまでの、政治的な暗闘については前の記事で語れました。残された課題は、実際の戦争に関する、軍事的な問題。再度掲載するとこれ。結構あるな」 ・徳川秀忠軍と徳川家康軍、どっちが強い?…
寝る前に書くことにタイトルなんか付けない。サントリーレディース3日目☆木村彩子=-12・Today-7☆菅沼菜々=-9・Today-2☆小祝さくら=-6・TodayEVEN☆上田桃子=-5・TodayEVENいいオンナがToday-7!8バーディー・1ボギーで最終組1つ前GET♪木村彩子、強烈ですねえ~(゜〇゜;)(゜〇゜;)岩井(妹)さんも強いけど、六甲国際で7打差はまだわかんねえぞ。いいオンナ、明日逆転優勝だったら賞金でオレにマルハニチロのゼリー腹一杯食わせてくれ!o(^o^)oo(^o^)o菅沼さんは2つ伸ばして-9。-9だとちょっと厳しいけど、最終日に強い菅沼さんをギャラリーに見せてく…
序文・加納御前の企て?! 堀口尚次 亀姫は、徳川家康の長女。母は築山御前〈瀬名今川氏〉で、松平信康は同母兄。奥平信昌の正室。 永禄3年 、駿府で生まれた。元亀4年ごろに家康が奥三河における武田氏の勢力を牽制するため奥平氏の帰順を試みた際、織田信長の提案で亀姫と新城城主・奥平信昌の婚約が提示条件の一つとなり、長篠の戦いをめぐる戦功への家康からの褒美として天正4年7月、信昌へ嫁いだ〈「徳川幕府家譜」『徳川諸家系譜第一』〉 。生涯、信昌に一人も側室を置かせず、自身で4人の男子〈家昌・家治・忠政・忠明〉と1女〈大久保忠常室〉を儲ける。慶長5年の関ケ原の戦いの戦勝により、慶長6年夫・信昌が美濃加納10万…
大河ドラマ「どうする家康」は、2週にかけて長篠・設楽原合戦が描かれ、武田勝頼との戦いという部分に加え、織田信長と徳川家康の関係にも影響をもたらしたという視点で描かれていました。 今回は、戦いのきっかけとなった長篠城主・奥平氏について書きます。 合戦のあと、長篠城主・奥平信昌のもとに徳川家康の長女である亀姫が嫁ぎました。今川の血筋を重んじていた兄の信康は、それほど家格の高くない奥平家との婚姻に反対したとも言われています。 信昌と亀姫の間には5人の子がいました。長男の家昌は家康に重用されて独立、二男の家治は家康の養子となったものの早世、三男の忠政が実質的な奥平家の後継者となりました。長女は大久保忠…
二人織部の古田重然と古田重勝。「古田重 」までは名前が同じですが、その人生は違っています。古田織部は大坂方に内通した嫌疑で捕えられ、切腹を命ぜられました。 内通と言うからには、そこには必ず人との接触が有る筈です。 「類は友を呼ぶ」「友達を見ればその人が分かる」などなど、人に関する諺が数多くあります。関ケ原から大坂の陣までの期間限定で、織部の周りにいた人々から彼の属性を探ってみたいと思います。 織部の周囲 織部には弟子が沢山いました。 下記に記載した人達は、織部の弟子で、それなりに茶人として名を成しております。ここでは、関ケ原合戦の時と大坂冬の陣・夏の陣の時に、東軍か西軍かどちらに属していたかを…
読んでいるとそんな事が思い浮かびました。 里見義堯 (314) (人物叢書新装版) 作者:滝川 恒昭 吉川弘文館 Amazon 諱に儒教で有名な名君、堯舜の『堯』の字が含まれている事から本人も意識していたみたいですが、プロパガンダなのか、それとも実際にそうだったのか、親しい人や支配民には尊敬される人柄ではあったようです。『南総里見八犬伝』で何をした訳でもない里見の殿様が「仁君」と称えられているのは、この人の評判があるからかなぁ、と。 ただしこの「仁君」、手が白い訳ではないです。政治路線の対立から主君である従兄に父親を殺され、その敵討ちを外部勢力(北条氏)の力を借りてなしとげ、安房一国を統一しま…