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北条政村

(社会)
ほうじょうまさむら

北条政村(元久二〈一二〇五〉年〜文永十〈一二七三〉年)
鎌倉幕府の七代執権、三代連署・五代連署。
北条義時の四男で母は伊賀朝宗の娘の伊賀氏。三浦義村を烏帽子親として元服し、義村の名前から一字をもらって相模四郎政村と名乗った。
北条義時の死去の時に母の伊賀氏や母の兄の伊賀光宗らは一条実雅を将軍に、政村を執権にしようと動く(伊賀氏の乱)が、失敗し、伊賀氏や実雅、光宗は流罪に処せられるが、政村は連座を免れる。
その後も順調に出世し、延応元(一二四〇)年には評定衆に加えられ、建長元(一二四九)年に一番引付頭人を兼任、康元元(一二五六)年に北条重時の辞任を受けて三代目の連署に就任する。文永元(一二六四)年には六代執権北条長時の辞任を受けて七代執権に就任する。文永五(一二六八)年にはフビライ・ハーンに使者の来日を受けて得宗家で四代目連署を務めていた18歳の北条時宗に執権職を譲り、自らは五代目連署として若年の時宗を補佐する。執権を辞任後になおも連署として幕政に関わった例は政村のみである。
文永十(一二七三)年五月に病のため連署を北条義政に譲り、ほどなく死去した。
和歌に優れ勅撰集にも多く入集しているなど、別邸の常葉亭を舞台に鎌倉歌壇の中心人物として活躍する。
将軍藤原頼経の女房であった中将という女性と、三浦義村の弟で宝治合戦で自害した三浦重澄の娘の二人の妻がいた。
嫡男は三浦重澄の娘を母に持つ北条時村で、六波羅探題北方を経て連署になる。政村の子孫としては最後の六波羅探題南方となった北条時益がいる。
娘は北条宗政の妻で北条師時の母、北条実時の妻で北条実政、北条顕時の母、北条時茂の妻で北条時範の母などがいる。政村の別邸の常葉亭は時茂の妻を通して時茂の子孫に伝えられたため、時茂の子孫を常葉流という。

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