国指定史跡、有岡城跡(有岡城)の旧名。
起源としては、在地の豪族、伊丹氏の居館が発展したもの。
永正17年の文献*1において「天守」の語の初出が見られる*2ため、このことから天守閣を初めて持った城だとされることも多いが、当時の図面等が残っているわけではないので本当に天守閣を持っていたかは確定的ではない。
*1:「細川両家記」
*2:「…然るに伊丹城の中に同名但馬守、野間豊前守二人申けるは、当城此数十年の間、諸侍土民以下煩としてこしらえたるそのしるしなく、のがれけること口おしさよ、我ら二人は此城にて腹切らんと天守にて腹切りぬ。是又剛なる人かな、と敵味方がんぜぬ人こそなかりけれ。」
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JR駅伊丹駅のすぐ西側に石垣があって、階段を上ると礎石や井戸などの遺構があり、史跡公園として整備されています。南北朝から室町時代にかけ「伊丹氏」がこの周辺を統治し、室町時代には細川氏や畠山氏の被官、つまり配下にあったようです。 その後、織田信長が足利義明の後ろ盾となって上洛すると、畿内を支配していた三好三人衆は畿内を放棄して本拠地の阿波国に撤退します。当時の伊丹氏当主の親興(ちかおき)は、池田氏当主の池田勝正(いけだ かつまさ)と共に信長に降り、二人とも本領を安堵されます。永禄十一年(1568)のことです。 「史跡 有岡城跡」 当時の石垣はこれではなく、上の公園に残されています その際、15代…
三好領への遠征は7/5の0:00で停戦となりました。 今は偉い方々が条件交渉をしている様です。 6/28から始まったので丁度1週間、ですかね。 僕的にはもうちょっと戦っても良かったなとも思いますが、そこはまぁ色々あるよねw とりあえず、三好攻め最終日の動きをざっとおさらい。