吉本隆明@1101
しばらく前にばななさんとこのブログで見たエントリー(2008.07.19)から気になってたもの。 久しぶりに 1101 に行ってみたら、いろいろあった。
ふたつの目 (lc ):
今の現実と、昔の現実を よく考えあわせられる人、 そういう人がいたら、それが教養のある人です。
(たとえば、年寄りは大切にするというメッセージを伝えることに関して) ですから、違う言い方で 同じことを言わなきゃいけないんです。 …… それじゃあ、どういうのがいいんだというと、 「親に孝行しろって、ほんとうはなんなの?」 ということについて、自分なりの判断ができていないといけない、 ということなんです。
昔の人の書いた詩がいいのは、 集中力が格段に違うからなんです。 …… そして、芸術の役割というのは、そういうものを保存するだけなんです。 ほかに役目はないんですよ。何らの利益も、有効性もないんです。 そんなのがあるとしたら、嘘ですよ、全部。嘘の理論です。何もないんですよ。
あゝ おまへはなにをして来たのだと……
という詩が、中原中也にあります。 …… だけど、それをみじめと言う人は、 その世界に近づいたことのない距離から見ているからだと思うんです。 …… だけど僕は、中原中也のそういう詩を読むと、 「この人は、生活に負けたとか、そんなことで割り切っているわけでもなんでもない」 ということを思うんです。
吹き来る風が私に云ふ
自分もときどき威張ってないつもりなんだけど威張ったようなことを言ったりしますから、 あまり人のことは言えないわけですけど、その都度内心で「しまった」というふうに、 「思う人」と「思わない人」がいると思います。そこしかないですよ。 あとは、区別すべきことは何もないと思います。
ある人が夢中になって、あることの専門家になったとします。 …… そしたら、その人は、「その専門の人間」じゃなくて「専門の人間」になっているんですよ。 …… これはね、僕の考えでは、ある瞬間、元に戻さないといけない。 だから、親鸞みたいに俺はちっとも浄土なんかに行きたくねぇや、 というのは、まっとうな考えだと思います。 …… だから、自分でもある瞬間にはそれを誇ってもいいのかもしれないけど、 いつでも商売のように誇っていると、お前、 とんでもない勘違いをするぞということになるわけです。 …… ほかの人だって、自分のいちばん向いていることをして、 みんながいっせいにそれを披瀝したら、みんなそうとうすごいんだよ、 ということをわかっておいたほうがいいんです。
(過去の業績について) 執着することが多けりゃ、そこに止まるか、止まった形になると思います。 それじゃあ、執着しなきゃいいのか、というと、そうでもないと思います。 それは坊さんが「悟った、悟った」というのと同じで、 そんなのあてになるか、ということです。 ですから、何かしら適当な執着と、適当な自分離れがあるのがいいんじゃないでしょうか。
(「あなたはなにを大切にしてきましたか」という問いに対して) それは、自分が生きている現在を考えるときになにに目を使っていますか、 ということだと思います。 …… 「“中”以下の人がこれからどうなっていくか」をひとつ、主眼にして、 生きてる今を考え、それを広げて自分のやってることに関連づけるんです。 そこになんだか、ほんとうのことが隠れているような気がするんです。 それ以外のことは、要するに個人の、遊んだりとか稼いだりとか、 そういうことに属するから、それはまぁ、誰でも同じように考えてると 思えばいいじゃないかと思います。
(糸井) 吉本さんが色紙に一言書くということはないんでしょうか。
宮沢賢治の作品の中にある言葉なんですけど。 ……ほんとうの考えと
その言葉は、サインと言われれば、書いていました。
嘘の考えを分けることができたら
その実験の方法さえ決まれば
日本の子ども (lc ):
そうですね、学校に関して言うとすれば──まともには言わないけど、 まず、親は子どもに対して、「これ(子ども)にかまってたら大変」という思いが、 どこかにあるんじゃないでしょうか。
子どもがいじめられて学校から帰ってきたら、 その年頃の子どもというのは顔を見ればすぐ「あ、学校で何かあったな」ぐらい、 親だったらわかります。 そういう子に対して親のほうは、いつもと同じように扱ってやれば、それでいいわけです。 いつもと同じようにしていて、でも心の中ではちゃんとわかってるという状態、 それでいいんです。
(これから小学校の先生になる人へのアドバイスとして) いちばん言えることは、自然にしているのがいいですよ、ということです。 努力していい先生になって、いい教育をしてやろうと思わないほうがいいです。 とにかく、もう本当に自然に、自分の地のまんまを出してやれば、 子どもは必ずわかります。「この先生はこうだけど、本当はこういう先生だ」とか、 そんなことはもうはじめからわかっているんです。 子どもは言わない、言えないだけでね、黙っててもわかってるんです。
(「自分なりに自然にやれ」といわれても、 どうしたらいいのかわからない熱心な先生へ) でも、僕は、そのあたりのことは経験から、どうすればいいかはわかっています。 帰するところ、最も重要なことは何かといったら、自分と、自分が理想と考えてる自分との、 その間の問答です。「外」じゃないですよ。つまり、人とのコミュニケーションじゃないんです。 自分と、自分が理想と考えるもの、そことの内的な問答がいちばん大切なんです。 …… その先生は、例えば、子どもにきっとこういう印象を与えるんじゃないでしょうか。 「ああ、この先生はこういう先生で、そのときのいろんな都合や加減で ゆらぐ人ではないな」と。
ここで僕が思うことは、コミュニケーションではなくて、 「反コミュニケーション」か、または「非コミュニケーション」と言ったらいいのか、 そういうことなんです。 …… コミュニケーションに邪魔っけな石を置く、自問自答のようなものをさしあたり何と名づけたら いいのかというと、もしかしたらそれは「芸術」という言い方で、できるんじゃないでしょうか。 いや、いまのところそう言っておくのがいちばん近いような気がするんです。
(「普通の市民」に対する尊敬に関して) ちょっとこれは俺らにはかなわないな、というところがあるんです。 それは非常に貴重で、決してあなどっちゃいけないです。 彼らは、うまいんですよ。 戦中から戦後しばらくは、全体でいえば食糧不足でした。僕や弟は…… みんな遠慮なしに食っちゃってました。 そんなときに、親たちは、「私らはそんなに食べられないから、お前たち、食いな」 とか、そういうふうに言わない。言わないで、そうしてる。 そういう芸当ができるわけですよ。うまく僕らに食わせるんです。 …… そういう芸当は、なかなか知識人では、できないです。
よく僕が(子ども)ふたりを連れて、公園に遊びにいきました。ふたりでブランコに乗って、 滑り台にも実におもしろそうに、楽しそうに滑っちゃ、またくり返し上がって、 キャッキャッ言いながら遊んでました。 僕は「これはおもしれぇんだろう」と思って、ベンチに座って ポケットから文庫本を出して読んでいました。 それで、いいかげんに時間が経ったら「もう帰ろう」と言って帰りました。 ところが、そうとう大きくなってから子どもたちが …… 「私たちは遊んでたのに、自分はベンチに座って本を読んでいた。 ときどきチラッと見るけど、ちっとも遊んでくれなかった」という印象なんです。 これには参りました。楽しそうに遊んでいるから、これでいいんだと思っていました。 でも、それはダメらしいんです。
2008年 (lc )
親鸞 (lc ):何かを主張したり学問するときには、 自分のほうもそれになってしまうことを、 人にわからないように 絶えず自己検討しないと、人間を失格するよ。
前から何度か書いているけれど、どうも糸井重里は苦手というか避けたいという気持ちが 自然と沸いてくるのだけれど (例えば こことかこことか。 多分、藤谷さんがいつだか書いていた気分(見たら6月2日(月)のエントリーだった)に近いのではないかなと思うけど)、 今回のばななさんの圧倒的な支持を読んで、多分、半分は彼が売れていることへのやっかみ気分 てのもあるのかな、と思い直そうと思ったり(思わなかったり)。
11/23/2008: 適切な大きさの問題さえ生まれれば。
8/1/2010: 糸井重里が、ゆっくりと、マイブーム