Hatena::ブログ(Diary)

奇眼の追憶

2012-10-30

贋作における「損傷」分析

| 20:15


シュタイングラバーは、オブジェを観察する要点は、

損傷、用途、年代の組み合わせだと教えてくれた。

「あらゆる損傷、ひっかき傷、打ち傷を見つけだし、心のなかで

スケッチすること。つぎに、その傷がいつ、どのようにして

ついたのか、説明してみることだ」


 彼は実際にオブジェの傷を図面にして描くことを勧めた。

そこが摩耗したのは十三世紀なのか、あるいはそこがへこんだのは

十五世紀なのか。修復されたのか、つけたされたのか。だとすれば、

それはいつのことなのか。現代ではないのか。贋作者は往々にして

美術好きをひっかけるために、「古代の修理痕」をつけ加える傾向がある。


(中略)


損傷が一定の用途と矛盾していたら、おそらく贋作である。

その極端な例として彼があげたのは、バクス(聖像牌)だった。

これは信者がキスをするためにつくられたキリストやマリアを

浮き彫りにした板である。

何千、何万という唇が表面にふれて柔らかに摩滅した痕跡は、

人工的な摩耗の痕とは明らかに違う。


トマス・ホーヴィング 著/雨沢泰

にせもの美術史』より抜粋

2012-10-15

円覚寺の宝冠釈迦如来像、覚書

| 20:08


北鎌倉駅降りてすぐにある、臨済宗の大きな寺院

円覚寺」を訪問。広い。


建物も鎌倉造りで、質実剛健、直線的な美しさがある。

無駄が一切無い。職人の仕事が匠なのだろう。

それでいながら、厳粛でなく、

アンビエントな雰囲気があたりを包む…とても落ち着く。


本殿、龍の天井画は前田青頓。威風堂々として迫力あり。

鎮座する巨大な宝冠釈迦如来像、これは別格の美しさ、崇高さだ。

黒い本体に金の装飾。細部まで実に見事に造られてある。

鎌倉長谷の釈杖十一面観音立像を観たときも驚いたが、

こちらも凄い存在感だ。本物の仏教美が顕現しているような。


堂境内にある、閻魔堂の閻魔王坐像も民俗的な造形で素晴らしい。

破邪顕正」という書の扁額があり、

鏡、そして無数の弓矢が置いてある。

的場が隣接していた。


円覚寺は「光の落ち方」がとても美しい。

樹と庭、建物の配置が絶妙なのだ。考案者は誰だろう。

2012-10-14

「シャルダン展」鑑賞の覚書

| 19:45


東京駅に隣接した、三菱一号舘美術館へ

シャルダン展」を観に行く。

ジャン・シメオン・シャルダン絵画を観るのは初めてだ。


瀟洒な洋館だった三菱一号館の室内に展示されている

シャルダンの油彩画は小品が多く、そのほとんどが静物画だった。


解説にもあったが、初期(静物画)→中期(人物画)→後期(静物画)

と変遷し、それぞれの時期に、いくつか注目すべき傑作を残している。

白い陶器のポットのある静物画(初期)と、

野いちごの山盛りの静物画(後期)は、年代が違うが共に

シャルダンの静かな雰囲気が伝わってくる。


額双は簡素ながらもやや華やかな造りで、

大理石のような」白くつるっとした

(そして肉感が弱く彫像のような)人物画もまた、

いかにもフランスらしい。


シャルダンデッサン力はそれほど高いものとはいえない。

筆の使い方も天才的なものは感じられなかった。

が、なにか「人間の穏やかな目なざし」によって

描かれたもののように思えた。

描写以上に、「印象」の表現が優れているのだろう。

セザンヌやルドンが影響を受けているだろう。

(ルドンの大きな花の絵が観れたのは役得、これは美しい)

2012-10-06

「レーピン展」鑑賞の覚書

| 19:25

Bunkamuraザ・ミュージアムで開催されていた

国立トレチャコフ美術館所蔵「レーピン展」を鑑賞。

ロシアの画家イリヤレーピンの絵を観るのは始めてだ。


素描が巧く、素早い筆運び。

少ない線で細部まで的確に描きとめる力は見事。

まるでイラストレーションのよう。

油彩は主に人物画。

レンブラントから学んだ要素が多く感じられる。

筆のタッチは大きく厚塗り。

デッサンが精緻なので、粗いタッチでも像が端正に見える。

作品にあたる照明が明るく感じ、不自然だ。

レーピンの絵はもともと採光性の低い、

暗い室内に飾られていたのではないだろうか?

だとすれば精緻なデッサンなのになぜ厚塗りのタッチなのか、

自然な説明がつく。


トルストイゴーリキー肖像画は迫力がある。

レーピンは人物の存在感を深く感じ取る人(感じ取りすぎるほどに)

ではなかっただろうか。


椅子で眠る赤い服を着た妻を描いた表題作が、一番美しい。

他の絵にはメッセージ性や政治性が織り込まれており、

純粋な美しさとは違う印象を受けた。

額装はロシアらしい、大ぶりで暗い色合いのものが多かった。

(額装はその国の美術的な装飾性をあわらすひとつの指標だ)

2012-09-10

読書の習慣について、覚書

| 20:23


本を読む習慣のない人は、まず「岩波文庫」を読むことを

おすすめする。

できるだけたくさん。


岩波文庫は書店で新刊を買ってはいけない

必ず古書店で物色して買うこと。たいてい300円以下で買える。

が、値段ではなく、「古書店に行く」習慣をつけるためだ。

古書店に行く習慣は、自分にとって価値のある書物との出会いがあるからだ。

ちなみに古書で「90年代以降の本」は買わないこと。

本の作り、内容ともに質が低い。(科学書は別)

2012-07-30

「ジョアン・ミロ展」鑑賞の覚書

| 19:52


高知県立美術館で開催されていた

ジョアン・ミロ展」を鑑賞。


暑い夏の平日だからか、ほとんど人がいない。

200点以上のリトグラフを観る。

下手だ。だが「遊び心」に満ちている。

そこが面白く「ひょうげて」いて、まねできない。


いろいろな実験を試みたのだろうが、完成していない。

晩年のものに少し、すっきりとした円熟味を感じる。


ジョアン・ミロ、彼は一生「子ども」だったんだろう。


そしてなにより、時代にめぐまれたのだろう。

無邪気で運のいい芸術家ジョアン・ミロ。

2012-07-01

オレンジをめぐる交渉

| 20:12


 2人の姉妹が、ひとつのオレンジをめぐって口喧嘩をしています。

「半分に分けたら?」と親が言いましたが、2人とも

「ひとつ分が必要なの!」と言って譲りません。

 しかし数分後、話し合いの結果、姉妹で無事に

分け合うことができました。

いったい何が起きたのでしょう?


考える時間:3分間



 実際に京都大学の授業でこの問題を出したところ、

学生たちから以下のような回答が挙がりました。

「姉妹のうちのひとりがオレンジを2つに切って、

 もうひとりが切り分けられたオレンジの好きなほうを

 取ったのでは?」

 なるほど、オレンジを切る人と選ぶ人に分けるわけですね。

たしかにそれならば文句は出そうにありません。

 しかしこの答えだと、結局オレンジを2つに分けることに

なります。あくまで姉妹は「ひとつ分」を主張して譲らないので、

これでは間違いです。

 また、「今回は姉がひとつ分、ぜんぶもらうけれど、つぎは

妹がぜんぶもらえる、と約束した」という回答もありましたが、

それも違います。

 両者ともにひとつ分必要という2人の主張は正しく叶えられて、

交渉は終結しています。


 では答えを言いましょう。

「オレンジの皮と中身を分け合った」

 これが正解です。


 なんで?という声が聞こえてきそうですが、要するに

「2人が求めていたものが違っていた」

ということなんですね。 

 姉はふつうにオレンジを食べたかったのですが、

妹は中身が食べたかったのではなく、オレンジの皮で

マーマレードを作りたかったのです。

 お互いに「ひとつ分が必要なの!」と主張していても、

じつは目的が違っていた。そのことが話し合ったことでわかり、

交渉が妥結したわけです。


 つまり「利害関係が一見、完全にぶつかっているように

見える問題でも、相手と自分、双方の利害をよく分析してみると、

うまく両者のニーズを満たす答えが出てくることがある」

ということを、この問題は示しているのです。



瀧本哲史・著『武器としての交渉思考』より抜粋

2012-06-11

「マウリッツハイス美術館展」鑑賞の覚書

| 21:51


上野東京都美術館で開催されていた

マウリッツハイス美術館展」を観に行く。

オランダの観光美術館のコレクションだけあって、

近世オランダフランドル絵画の傑作が展示されていた。

レンブラントの作品は10点以上、

ルーベンスブリューゲルフランス・ハルス、

デ・ホーホ、ヤン・ステーン、ブリューゲルそして

ヨハネス・フェルメール

真珠の耳飾りの女」(青いターバンの少女

ダイアナニンフ」を鑑賞することができた。

青いターバンの少女”には

修復のせいか、予想より厚塗りでくすんでいるが、

それが抑えの効いた美しさとなって

「イコン」のような雰囲気がある。

色使いは極めて巧みで、少ない絵の具で

最大の効果を発揮している。

ダイアナニンフ」はイタリア絵画のような

構成と色使いだった。ルーベンスに近い。


アンソニー・ヴァン・ダイクの肖像画は見事だ。

(特に衣服の装飾、ディテールの細やかさとシャープな表現)

風景画は、ヤーコブ・ファン・ライスダール

「漂白場のあるハールレムの風景」がとりわけ美しかった。


初めて知ったが、

ピーテル・クラースゾーンとヴィレム・ヘーダの

静物画は傑作。

植物、金属、ガラスなどの質感を

写真以上に精密に描いている。

グラスの「映り込み」まで巧みに描写している。

絵を書く人間は、絵画技術の基準を高くするため、

観たほうがいい。

2012-05-30

【美術】贋作、悪徳の芸術

18:35


 贋作とは、常に芸術につきまとう影、芸術という美徳の存在なくしては

成り立たない悪徳である。なぜなら、人類が、自分たちの歴史、美しさを

描きとめた作品、天才と近づくための作品を所有したいと願う限り、贋作

者は嘲るような気取り笑いを浮かべ、その需要に応えるべく存在してきた

のだから。

芸術とは、盲目的崇拝物や、天才が一度かならず手を触れた聖遺物を売る

商売なのだ。騙されやすい買い手に贋作者が提供するのは、芸術ではなく

「本物の保証」である。

(中略)


 才能も良心の咎めも希薄な芸術家に、贋作は富のみならず、ひそかな

名声をもたらす。己れの作品が、ルーヴル美術館メトロポリタン美術館

テイト・ギャラリーなどの壁に掛かっているのを知ることは、たとえ世間

の誰一人が知り得なくても、極上の復讐となる。

一たび美術館に並べれば、贋作者の正体が暴かれる可能性は低い。


フランク・ウイン著/小林償ワ子・池田みゆき訳

『私はフェルメール -20世紀最大の贋作事件-』より抜粋

2012-04-03

仮説を立てる力

| 14:36


 仮説を立てるときに必要なのは、多彩な知識と経験です。

けれども、そのままでは使えません。自分の知識や経験を

抽象化し、その分野に特化したささいな部分から再びもう少し

抽象度を上げて、それを比喩として使えるようになって

はじめて、そこから仮説を立てることができるようになります。

(中略)

ひとつひとつに個別具体的な回答を得ないと気がすまない人がいます。

そういう人には、仮説を立てる習慣がないのです。

どんな問題でも、まずは問題をしっかりと立てて、そこにどのような

解の可能性があるか仮説をつくる、その繰り返しが必要です。


勝間和代『ズルい仕事術』より抜粋

2012-01-10

ヴァレリオ・オルジャティの展覧会

| 19:47


図面や図版といったすべての情報は床に置かれている。

そして模型は樹のように立っているから、会場の中を歩き回っていると、

それらが自然に視界に入ってくる。展覧会という場所で、

人が本当に文章を読みたがっているとは思わない。

本でできることだからね。


展覧会という場所で彼らが必要としているのは、

感情に強い印象を与えるなにかだよ。

だから、物理的なモノとの出会いをつくることが重要になる。

この展覧会では、空間的な模型が図版と組み合わさることで、

人々の頭の中に建物のリアリティを産み出すんだ。


建築家ヴァレリオ・オルジャティのインタビューより。

http://www.momat.go.jp/Honkan/Valerio_Olgiati.html

2011-12-25

(半)透明なもの

| 13:06


実際われわれは、光をそれ自体として見ているわけではない。

そうではなくて、何か下にあるもの(委ねられたもの)において

見ているのであり、これが(半)透明なものである。

(半)透明なものは、色を持たないために、それ自体としては

もちろん目には見えない。さらに、何も持たないために、

あらゆるものを受け入れることができ、その点で視覚において

媒介となることができる。それゆえ、(半)透明なものは、

つねに外部にある色によって見えるものになる。

外部にあるものの色が、(半)透明なものにおいて、

精神的で志向的(印象的)なものに変わるのである。


アルベルトゥス・マグヌス『デ・アニマ注解』の引用

 /岡田温司『半透明の美学』より抜粋)

2011-11-27

影と痕跡と鏡像

| 23:05


 絵画(的なるもの)の起源をめぐって、西洋では古くから、

三種の神話が語り伝えられてきた。影と痕跡と鏡像(水鏡)がそれである。

  

 古代ローマの博物学者プリニウスが語るところによると、

戦地に赴く恋人の影をなぞったのが、絵画の起源とされる。

一方、キリスト教では、生前イエスがハンカチに顔を当てると、

そこに染みのようなものが痕跡として残ったとされ、それが

イコンの起源として語り継がれてきたという歴史がある。

ビザンティンでは「マンディリオン」、カトリックでは

「ヴェロニカ」と呼びならわされてきたものがそれである。

具体的に言うなら、前者は光と影の痕跡―カロタイプの遠い起源―

であり、後者は血と汗の痕跡―ドリッピングの遠い起源―である。

最後に、水面に映る自分の姿に恋をしてしまったギリシア神話

美少年ナルキッソスは、アルベルティによると、絵画の発明者と

みなされる。

(中略)

 影と痕跡と鏡像、これら絵画の起源とされるものを、それぞれ

別のことば、とくに作用を意味する用語で言い換えるとすれば、

順に、投影(プロジェクション)、接触(タッチ)、反省=反射

(リフレクション)ということになるだろう。


 さて、これらの神話で興味深いのは、いずれも、絵画的イメージが、

対象を直に模写したり模倣したりした結果によるのではなくて、

媒介物をあいだにはさむことによって生まれたとされていることである。

投影にせよ接触にせよ反省=反射にせよ、それらの作用によって

あらかじめ二重化されたものが、対象と絵とのあいだの媒介項として

想定されているのである。

(中略)

三つの神話に共通するこれらの事実は、わたしには、きわめて意義深い

もののように思われる。というのも、影と痕跡と鏡像という媒介物は、

それぞれがまた文字どおり、二つの世界を媒介しているからである。

すなわち、影は、あの世とこの世のあいだを、痕跡は、聖なるものと

俗なるもの、現前と不在のあいだを、鏡像は、現実と虚構のあいだを、

といった具合である。

それゆえ、三つの媒介物から生まれたとされる絵画もまた、

これらの世界のあいだを媒介するものとなるはずである。

 さらに、不思議なことに、影にせよ痕跡にせよ水鏡の像にせよ、

わたしたちにとって、透明でもなければ不透明でもなく、どちらかと

いうと、限りなく半透明に近いイメージとして存在してはいないだろうか。

それらは、硬くて厚い物質や肉体の不透明さから引き剥がされて、

まるで薄い半透明の膜のようなものとなって、何処とも知れず

漂ってはいないだろうか。


岡田温司『半透明の美学』より抜粋)





 

2011-10-29

写真、見るためのもの

| 22:30

 写真は一人の人間の写す単独の像である。

 と同時に、絵画インスタレーションといった美術内部にとどまる

ジャンルとは違い、数多くの機能を社会のなかでになっている。

それが、「写真とは何か」という問いを複雑にするだろう。

記録、伝達、アリバイ、複写……と多様な役割を果たすほか、出版物

だけではなくいくつもの産業生産品の表面を飾って、写真は生活環境

のなかに偏在するまでになっている。一つの単語で指し示すには、

写真という名の領域は、広がりがありすぎるのではないだろうか。

デジタル映像をも「写真」と呼ぶことになっては、なおさらである。

この単純の事実が、写真を語ろうとするときにまず突き当たる

困難なのだと思える。


 そして圧倒的な量がある。無限数の写真が、休みなく堆積しつつある。

その渦中に、なおも「写真」を考えるとはどういうことだろう。

 おそらく、「写真とは」ではなく、個々の写真について語るほかはないのだ。

 

 写真は実益に寄与するだけのものではない。

写真はただ、見るだけのものである。

十九世紀に発明されたときから、写っていることの驚き、

写った像を見る悦びは、実用の埒外にいつもあった。というより、

実益をさておき、写真を見るという魅力こそが人々を引き付け、

無数の写真を堆積させ、言葉を触発させてきたのだろう。

それはデジタル映像時代となった現在まで変わらず、写真の

存在理由になっている。


 ただ見るための写真、膨大な写真堆積のなかに埋もれながらもなお、

より深く見せようと意図する写真がある。

いまだ見えないでいるものを探し写そうとする、そうした写真を指すのに

「芸術」という語をあてたとしても、それは間違いとはいえないだろう。

というよりも、そうした実益にならない意思こそ、

芸術と呼びならわされてきたのだ。


(光田由里『写真、「芸術」との界面に』より抜粋)

2011-10-24

日本写真史観の見直し1

| 21:28

 写真は展覧会場に展示して美的価値を享受するためのメディア

ではない、という考え方が、かつては支配的だった。写真は本来、

記録性を特性とするメディアであり、複数性を特徴とするのだから、

印刷媒体を通じて広く大衆の眼にふれる社会性でなくてはならず、

報道や広告などの社会的な機能のなかでこそ、その独自の役割を

果たすことができる、という考え方である。

ここでは写真の実体は写っている画像にあり、写真プリントが

備えているモノとしての特質は無視されている。写真の特性で

ある複数性を印刷の複数性と同一視し、それを「大衆」という

また別の数に重ね合わせる考え方は、1930年代半ばから

70年代初めまで日本の写真界全体の主流だったようだ。

(中略)

 戦中に最も大きな写真マーケットだった「報道写真」、そして

名取洋之助が定着させたグラフジャーナリズムの写真観は、

印画を印刷原稿とみなし、写真が構成され文章とともに印刷され、

つまり編集されることで十全な意味を獲得し力を発揮する、

というものである。

この考え方は、かつて名取チームにいた、著名で長命だった写真界の

重鎮・土門拳木村伊兵衛とともに、戦後を生き続けた。

強烈な作家性をもったこの二人の写真家が、出版物を自分の作品と

みなしてオリジナル・プリントを軽視したために、彼らのネガは保存

されていてもヴィンテージ・プリント(撮影と同時期のオリジナル・プリント)

はほとんど現存していない。これは写真観変転のエピソードである。


(光田由里『写真、「芸術」との界面に』より抜粋)

2011-10-19

光と美術2 ―レオナルド・ダ・ヴィンチのスフマート

| 18:36

 

 レオナルドは『絵画論』の中で、暗い部屋で灯火に照らされた人物を

どのように描くべきか説明しているが、夜景画を描いた形跡はない。

彼は、光を強調せずに闇を描いた画家であった。

それは、暗さを目的としたものではなく、微妙な光によって立体感や

空間の奥行きを表し、精神的な深みを現出することをねらったものである。

彼はあえて強烈な光や明暗の対比を避け、靄でかすむような風景や

闇の中に、人物を溶かし込むようなスフマートを確立したが、

それがもっとも効果的に現れるのが、

背景が闇で覆われたときであったのである。

 

(宮下規久朗『フェルメールの光とラ・トゥールの焔 ―「闇」の西洋絵画史』より抜粋)

2011-10-15

光と美術

| 17:57

光は視覚世界においてはすべての根源である。

目がある事物を認識するとき、形態や色彩といった

その事物についての情報は、それを取り巻く光に依存している。

さらに光は聖なるものの根源でもあり、多くの文化圏において、

神、真理、理性などの象徴とされた。逆に闇や暗黒は、悪魔や

不正、無知を表すものとなった。

 あらゆる美術も光の存在を前提としている。とくに西洋美術は

光と深く結びつき、光との関係によって西洋美術史がたどれると

いっても過言ではない。

西洋の絵画では、事物を写実的に表現する手段として明暗法が

重視されたが、同時に光と闇のもつ象徴性が放棄されたことはなかった。


(宮下規久朗『フェルメールの光とラ・トゥールの焔 ―「闇」の西洋絵画史』より抜粋)

2011-09-26

大田黒元雄の「写真芸術」

| 22:01


 モノクロームの絵を活かすのに最も大切なのが

光と影との対照並びに諧調なのは言ふ迄もない。

事実、写真は光と影の芸術だ。


 それに次いで必要なのは構想と構図に対する考へを

発達させることだらう。けれど此れは前に述べた光に

対する問題と違って、美術上の教養さえ積めば自然に

発達するものだ。

 

 平凡のうちに非凡を発見する事、此れは総べての芸術家

常に忘れるべからざる事であると同時に、また特に写真家

対して肝要な事だ。我々に欠けて居るのは眼なのだ。


 私は総べての写真家が所謂技巧を超越しようと努めることを

希望する。


大田黒元雄「写真小論」より

(光田由里「運動体としての写真芸術社」より抜粋

 『芸術写真の精華 日本のピクトリアリズム 珠玉の名品展』記載)

2011-09-04

フランシス・ベーコンの“リアリティー”3

| 23:10


(インタヴュアー)「最期に残るリアリティーとは何ですか。そして、

それは最初に描いた対象とどのようにつながっているのですか。」


(F・ベーコン)「必ずしもつながりがるわけではないのですけれど、

画家は最初にモチーフとなったものと同等のリアリティーを生み出した

ことになります。何かを手がかりにして制作を始めなくてはなりません

から、あるモチーフを描き始めるわけですが、そのモチーフは制作が

進行すればしだいに消えていき、あとには残留物が残ります。

この残留物をリアリティーと言っているのです。それは出発点となった

対象と多少つながりがあるかもしれませんが、たいていの場合、ほとんど

無関係です。」


フランシス・ベーコン・インタビュー「肉への慈悲」より抜粋)

2011-09-01

フランシス・ベーコンの“リアリティー”2

| 18:40


(インタヴュアー)「これまでの話から判断して、結局あなたにとって

一番大切なのは、作品がリアリティーを直接的に表現しているかどうか

ではなく、無関係なものを並べたときや、あるものをミスマッチな背景の

前に描いたときに生じる緊張関係であるように思えます。」


フランシス・ベーコン)「ミスマッチな背景を用いてこそ、描く対象の

リアリティーをとらえれます。罠が対象に襲いかかり、そのリアリティー

だけを残すのです。いつも中心的なモチーフから始めます。

それがどんなにつまらないものでも、です。それからミスマッチな背景を

描き、最初に描いたモチーフのリアリティーをつかまえるのです。」


フランシス・ベーコン・インタビュー「肉への慈悲」より抜粋)